フォンソ

タラッタさんの館へ行く

「これからどうなるか分からないのに」
 先の失望を厭うようなタラッタの言葉に、フォンソは驚いた。とても、驚いたのだ。

 フォンソは長く大聖堂を離れて各地を渡っていた。悪魔に関する調査のためだ。その年月、件数のなかにタラッタは含まれておらず、フォンソが彼と出会ったのは大聖堂でのことである。
 無気力に過ごしていると耳に聞き、無気力であると目で見た。
 だらり、投げ出すような姿勢。二対の翼が伸びる背中は少し丸まっている分、長い手足が重たげに見えた。興味という外への期待を宿さぬ目は、上がり気味の眉を見るに正面を見据えたならいまより大きくなるのではないかと想像する。
 性分であろうか。切っ掛けはフォンソ自身でも朧げになっているが、フォンソはタラッタへ声をかけるようになっていた。彼が忘れたように過ごす日の昇りを数え、爪の艶を気にする。傅いている気持ちはない。フォンソはタラッタを構うことが楽しかったのだ。
 タラッタの「なんなんだこいつは」といった胡乱な目、接触の意図が分からないという困惑。気づいているが応えない。訊かれぬことへの回答は若者の、分かりきったこと訊くのは老人の悪癖だ。だからといって、フォンソが都合よく振る舞っていないとは言い切れないだろう。
 撒かぬ種は芽生えぬ。いつしか独り言のように続くフォンソの言葉にタラッタからの返事が増え、彼の照れた顔はフォンソのよく知るものとなった。自身を客観視できていないのか、タラッタを可愛いと感じるフォンソを彼は理解できないようである。そのような頃であったか、フォンソがタラッタのもとへ訪れるのが当たり前になった頃だ。
……何故俺に構うんだ?」
 物言いたげにしているかと思えば、ぎこちなく投げられた問い。やや顔を逸らして見えるのはタラッタ自身でも気まずさを感じているからだろうか。
「今更っ?」
 ひっくり返った声が出る。
 投げれば返るやり取りは増えたがタラッタ自身がなにかを求めることはなく、フォンソは彼が立ち木の朽ちるよういつか目を閉じてしまわないかという憂慮をひと匙飲んでいた。故に、随分と今更であってもささやかなタラッタの疑問、彼の興味や気を引くものができたことへ自覚する以上の安堵を覚えたのだが、安堵は乾かぬ絵に落ちた雨粒が如く色を変える。
 タラッタの興味が増えればいいとフォンソは思ったが、タラッタの好悪抑揚はっきりしないある種穏やかとも云える表情は波立つ感情を乗せた。
「別に、ここで増やしたところで……皆、これからどうなるかわからないのに」
 ため息。
 タラッタの自覚を伴った感情の発露を、フォンソはこのときやっと見たのかもしれない。
 暗く落ちるまつ毛の影、空へ向かう枝葉のような力強さを持たぬ手足。二対の翼があろうとタラッタの体は重たげな印象を受ける。
……ここにつれてこられて、以前大切にしていたものが、今どうなってるかもわからないんだ……俺からすれば突然奪われ、失くなったも同然だ」
 フォンソは仔細を知らない。タラッタには大切にしていたものがあり、大聖堂へ連れてこられた彼が一つとして撫でること叶わないでいると今ようやく知った。
 まだ在るか。もう無いか。如何に。全てが分からない。
 突然奪われ、失ったから、もう何を欲することもしないのだ。
「またそんなことがあれば、正気を保っていられるかも分からん」
 きっと事実だ。
 寂しいことを言ってくれるなよ。切ないことを言ってくれるなよ。
 とても怖いじゃないか。
「すまない、話しすぎた」などとフォンソへ、聖職者へ向けるにはあまりにも胸が痛くなることを添えて言う。
 背けられた横顔にかかる金色は、それこそ豪奢な飾りよりも眩い。色別つように背中より先へ伸びる黒髪へ櫛を通す感触をフォンソは知っている。指を掠めた羽根の柔さも。
 星の瞬きのように、タラッタの耳飾りが光る。
 ……俄然。
 悪魔がなにをと怒る声、笑う声があるだろう。
 お前は奪わなかったのか、お前によって失ったものはいないのか、詰る声があるだろう。
 フォンソ・イスクラは聖職者である。然様な声など夢で誦じるほどに知っている。
 断然。
「──宜しい」
 フォンソ・イスクラは聖職者である。十代半ばを超えてから四十路を迎えるまで、方々悪魔の調査に明け暮れた。
 ならば。ならばよ。
 どこかの悪魔がどこかで落として取りにも戻れぬというきらきら石の一つや二つ、探しに出かけてなにとあらむ。
 困った困ったどこへ行けばいいやらと惚ける自身へ向けられたタラッタの顔を、フォンソは見ない。これは互いに知らぬこととするから。見れば、見られれば、生涯を束ねる花のひとつとなったに違いないけれど。
 やがて知らぬ場所から知らぬ声が知りたいことを囁く。
 自分から持たせておいて、それを勝手に取り上げなどしない。その手に返す。握り締めた手を解かせはしない。すぐに戻る。必要なものは既に積んできた。信じてくれよとやっと見遣って頷いた先。
……待ってる」
 うつくしいなあ。
 タラッタの泣きそうにも見える笑みに、こどものねだる将来の結婚よりも純粋に、親の墓前へ祈る手よりも強く、フォンソは約束する。
「必ず」
 タラッタが頷いてくれたこと、応えてくれたことが嬉しかった。


 ──ということがあり、フォンソは汽車に乗っている。
 四十路が重ねた二十数年の経験は、フォンソを戸惑わせることも足踏みさせることもない。荷物の準備も移動の手配も慣れたもの。
 そんなフォンソを一時的に阻んだのは、外へと踏み出す直前の大聖堂だ。
 捕縛済みの悪魔の根城に今更なにを。いま聖職者に求められているのはなにか。
 ご尤も!
 しかし、しかし。フォンソ・イスクラはそれこそ尤もらしい理由を作るのが得意である。カルト教団に紛れ込んだり契約をはぐらかしたり、不審点を作らず印象を強く残さずとする術なくしてはここに生きていない。
 タラッタに多くの所有物があり、そのなかのほんの幾つかに用があるだけ。分母が大きいのでおかしなことではない。特定の悪魔自身へ何をとは、まさかまさか。後ろで組むことの多い腕を前で組む。揃えた踵は片足を一歩前に出す。威圧の姿勢で唱える。
 フォンソは大聖堂を出ることができた。
 目的地は近くない。汽車を使い、馬車を使い、歩き続ける必要がある。少し前までの日常であれば山とも谷とも思わず、フォンソの足が鈍ることはなかった。時折、懐中時計の針を太陽へ向けて地図と方角を合わせる。
 ……考え事は時間の進みを忘れさせる。
 フォンソの頭は心配、あるいは不安によって烟っていた。
 自分がいないと、などという勘違い甚だしいことはちらりとも思わぬが、自分がいれば防げる難がタラッタの上へ降ってはいないだろうか。大聖堂など曰く悪魔の監獄だ。消えよ滅せよを目的とした収容所だ。聖職者は看守で懲罰係だ。囚人に甚振られる看守もいるが。悪魔崇拝集団が待遇改善で抗議運動を起こしてもおかしくないような場所だ。好き好んでやってくる囚人もいるが。そんな場所で何事もなく過ごしているだろうと考えるなど、頭が花畑にも程がある。
 フォンソはタラッタが心配で堪らないのだ。
 羽を添えたように長いまつ毛は伏せられていることが多かった。いま、フォンソはそのまつ毛がバシ! と音を立てるように上げられ、視線が合うのを知っている。タラッタがまた瞼を重くして、どこを見るとも定めずにいるようになっていたら。照れて赤色を刷く顔から熱が冷めていたら。
 知らず俯くフォンソの耳に、銀糸の束を振ったような音が届く。
 顔を上げれば晴天の眩さを誇る陽光が、先で流れる青々と透き通る川を照らしていた。
 しゃらしゃら清かな音を立てる川へ架かる石橋の遥か向こう、瑞々しい緑の芝生が視界いっぱいに広がる前方。
 光を拒絶して真白に輝く屋敷があった。
「ああ……
 納得のものか、自覚していなかった疲労故のものか定かではない音がフォンソの口から零れる。
 青も緑も──白も。貴やかなる宝の様でそこに在る。
 これはタラッタの宝箱であろうか。いいや、これも含めて大切なものだろう。
 石橋を渡り、芝生を分けるように整えられた一直線の道を進む。タラッタもこの道を歩いていたのだろうか。少なくとも一度はあるだろう。彼は現在大聖堂にいるのだから。
 誰もいない門番小屋。屋敷を囲む柵を通り抜けるまでで随分と歩く。芝生も屋敷の外壁も殆ど朽ちたところがないので、タラッタがいた頃は丁寧に整備され続けていたのかもしれない。外観だけでフォンソはタラッタの知らぬ姿を幻視した。
 果たして機能することがあったのか分からぬ獅子を模した叩き金、馬車すら通れそうな扉へ辿り着き、フォンソは一瞬空に止めた手で押した。鍵がかかっていないことに胸へと走る痛み。タラッタが大切と称したものが杜撰に扱われている。
「──どなた?」
 とうとう屋敷へ入ったフォンソへかけられるのは、小鳥の上げる求愛の鳴き声よりも澄んだ声。人へ姿を変えた百合のような女がいた。
「ああ……聖職者の方……
「あなたは?」
 まさかいると思わぬ存在に仰天すれど、声は冷静を装った。経験だ。
「宝石よ」
 女が微笑む。
「宝石のように大切にされていたの」
 誰にとは言わずとも分かる。
…………ずっとここに?」
 女を宝石のように大切にしていた主人が不在の屋敷に。
……戻ってきたの。ずっとここにいたのよ。今更よそへはいけないわ」
 ドレスを花のように揺らし、女は屋敷の奥へ行く。フォンソを案内しようとしてのことではない。女の日常、暮らし、知らぬ訪いに顔を出して、用がないので去るだけ。百合は蝶であったらしい。自由に屋敷をひらひら漂う。
 フォンソは女を追わず、無言で玄関の間を見渡す。
 額だけでも値千金となりそうな絵画、彫刻の施された艶やかな柱、見上げれば吹き抜けとなって正面の階段から続く廊下がフォンソを見下ろす。タラッタがここにいれば、手すりの向こうからフォンソを見ていただろうか。フォンソの知る不思議そうなきょとんとした顔で? いいや、きっと不審と侵入者への不快、敵意で。フォンソは自嘲する。
 まばたきひとつ。意識を切り替えて、フォンソ携えた鞄から紙束を取り出した。まっさらな紙と万年筆を持ち、視線を一点一点留めながら神経質な筆致で文字を綴った。方々渡り歩いたフォンソには、玄関の間だけでも豪奢な芸術美術が世界各国ひと所に留まらぬのが分かる。
 この世界にはタラッタが求め、大切に扱うに足るものがこれほどまであったのか。
 フォンソも世界を巡ったというのに、義務の目的では見つけることのなかった壮美。
 大聖堂の限られた空より羽ばたけぬ翼でどこまで飛んだ。投げ出された足はどれほど歩いた。だらりとした腕はどれだけ真っ直ぐに伸びて求めた。深い金色の目は、輝いていたか?


 ──汽車に揺られるフォンソは目録となった紙束を見つめ、屋敷にあった膨大な品々を確認する。絵画、宝飾、彫像、織物、家具、食器、宝剣……螺鈿に東国のマキエといったか、優美な細工物となれば文具も記載した。挙げれば翡翠彫刻の壁、切り出した白大理石の彫像、精緻に織られた華やかな絨毯、曲線描く紫檀の椅子、金細工にそれだけで装飾品となりそうな形の水晶が彩る天井照明と既に切りがない。どこかの国の尊い身分の方の持ち物ではないだろうか……と頭を過ってしまうものには意図的に目を逸らした。
 サロンに食堂に小間に控えの間に、階段室さえだだっ広い屋敷をほぼ休まずに回っても一日では足りず、フォンソは何度も手首を振ったし目頭を押さえ、しまいには眼鏡をかけた。
 記載漏れはあるだろうし……失くなっているものもあるだろう。
 目録には人名もあった。屋敷でふらりと出会った人間のものだ。
 彼らは自らの意志で残っているという。それはそうだ。その気もなければこれ幸いと出ていっている筈だ。残った彼らがどのように生活しているのか訊いても答えらしい答えはなかったが、一様に言うのは「前より暮らし難い」「以前が懐かしい」「……戻りたいと思うことがある」と過去を、タラッタのいる頃を振り返るものであった。
 失礼ながら確認した住人不在の部屋に残された白い粉にぎょっとすれば、光沢のある照りが指に付く。フォンソは「なるほどね、真珠の粉ね。なるほどね」と独り言を漏らした。タラッタという屋敷の主人以外の気配が色濃い場所にも、贅を凝らした品々は惜しみなく散らばっていた。
 大切なものならば大切にするだろう。タラッタは彼らも、あれらも、全て大切にしただろう。いま、どれもタラッタは大切にすることができない。誰ともなにとも分からぬものから無残にされたとしても守ることはもちろん、知ることすらできない。足りずとも想像すれば、渇いた心が粉となって失せるようだ。
 フォンソは鞄へ視線を向ける。
 耳飾りと、風景画。屋敷から持ち出した。
 タラッタの耳飾りは大聖堂へ連れて来られるときに着けていたのだろう。大聖堂で彼が所持する少ない私物だ。耳飾りという同じ括りのものが増えれば、着け替えることができる。選択肢ができる。風景画は見飽きたであろう大聖堂の風物以外のものを見せたくて……見せたいというフォンソの勝手で。
 その勝手を、タラッタは喜ぶだろうか。
 大聖堂を出る前に見たタラッタの表情。あの泣きそうな笑みがただただ純粋に喜びで晴れるのをフォンソは思い描くが、紗がかかった絵にしかならない。知らないものは、分からない。
 照れた顔を知っている。赤くなって、口ごもるのだ。きょとんとこちらを見る顔を知っている。情緒が幼いのではないかと思うことがしばしば。口癖のように「別に」というとき、大抵は否定に使われない。
 知っているものを数える。知らないものばかりであった。
 いまどうしているのか、誰かがタラッタになにかをしていてもフォンソは知ることができない。なにもできない。
 大聖堂へ戻ってから、フォンソがこれほど長く不在にしたのは初めてである。
 ……無事だろうか。酷いことをされていないだろうか。
(大聖堂にどれだけ高利貸しと麻薬密売人と選民主義者がいるだろう……
 他の聖職者から磔にされて当然の茶化し方で心配を払おうとして、フォンソは眉間を寄せながら笑う。笑ったつもりだ。
 きりきりと締め付けられるように頭が重くなる。
 酷いことなど常にされている。己がしているではないか。自分を棚に上げて他の聖職者の「義務」になにを問うつもりか、恥知らず。
…………なにも、ありませんように)
 繰り返す思考。窓の外、過ぎ去る景色をぼんやりと見つめる。
 汽車は急いでくれない。決まった速さでしか先へ進んでくれなかった。


 叩きつけた許可証。大聖堂を出る前にあらかじめ話を通しておいたのは正解だ。一秒でも早く行きたい場所へ行ける。足は棒のようだし全身埃っぽいが気にする暇はなかった。
 揺れないように鞄を脇に抱えて走る。早く、速く。急くままに。
 ──フォンソの目をチカチカとした白が弾いた。
 金の髪が見せる光を拒絶した色。曲線描いて上を目指す角が生えている。二対の翼の間を流れる黒髪が床を掃いているのは、無関心を目に見える形にしたようで思わず荒い声が出た。
「無事だったっ?」
 ぽかんとした顔が向けられる。当たり前。
 なにもなかったか。あるのなら、どうか隠さないでほしい。そればかりに気がいっていた。
……それはこっちの台詞だろう……何もされてない……お前も、何事もなかったか?」
 体が軽くなりそうなほど不安が抜けたフォンソへ、タラッタが問い返す。眉を下げて。
 言葉も表情も心配しているように。
……大丈夫」
……よかった」
 タラッタの安心を言葉にしたようなやわらかい声が、フォンソの胸に深く染み入る。
 そのまま沈み染まらぬうちに、フォンソは鞄を引き寄せた。期待だろうか、タラッタが鞄へ視線を向ける。彼の大切なもの。なによりも気にかけていたであろうもの。
「必ずって言ったの、守っただろう?」
「ッ、あぁ……ありがとう」
 フォンソの一方的ともいえる約束。タラッタが泣きそうに笑う。大聖堂を出る前に見た表情。笑みのひとつ。
 フォンソがタラッタの屋敷から持ち出せたものは少ない。それ以上許可を取れなかった。もっと、もっと返せるものがあればよかったのに。
「これは……
 目録、耳飾り、風景画。渡せたものはそれだけなのに、タラッタに失望は見えない。愛おしさを込めた眼差しは、タラッタが屋敷に集めたものを一つとして余さず大切にしていたのだとよく分かる。
………………ありがとう」
 礼まで言うタラッタに勝手な言い訳をせずにいられなかった。
「どちらも……どちらもとても、本当に、嬉しい……ありがとう、フォンソ」
 幸せそうな笑み。
 投げられたものに返したのではない。きっとタラッタ自身から、彼のなかから湧き出たままの笑み。
 紗が払われる。目の前にある描かれたものではない本物。
 うつくしいなあ。
 ──フォンソはタラッタのこの笑みを、ずっとずっと見たかったのだ。