「ごめんください」と扉が叩かれた。時刻は夕方、午後六時。宅配かと急いで玄関を出ると、そこにいたのは予想した配達員ではなく、ひどく顔色の悪いサラリーマンだった。
「
……遅くに失礼します。あのとき助けていただいた者です」
男はそう言って深々とお辞儀をした。ゆるくウェーブがかった前髪から、ポタリ、ポタリと水滴が落ちる。それまで暗くてよく見えていなかったが、雨にでも濡れてきたのか男は全身ずぶ濡れだった。今日は一日快晴だったというのに異様な姿である。
『助けた』という言葉にも身に覚えがない。男とわたしは初対面の筈だ。人違いではないかと伝えると、男は縋るような顔でこちらへ一歩近づいた。
「人違い、ですか?
……いいえ、見間違う筈がない。覚えていませんか?昔、幼かったあなたは山でカブトムシの為のお墓を掘っていた
……」
それは覚えている。小学生の頃、昆虫採集を好んでいたわたしは同性の女子達の中で浮いてしまい、かといって男子達とも馴染む事ができず、よくひとりで近所の裏山に入って遊んでいた。そして捕まえた昆虫が亡くなる度、裏山でお気に入りの見晴らしの良い場所に埋めて弔っていたのだ。
そこで改めて男をまじまじと見た。大体二十代後半といったところだろうか。背は高いが痩せており、目の下には酷い隈も飼っていて、とても不健康そうだ。シャツもネクタイもぐっしょりと濡れて、スラックスにも
……と、そこでわたしは息を呑んだ。
男の足首から先が、無い。もっと言えば膝のあたりから既に、男の脚は透けていた。
「
……そう、あなたがあのとき埋めたカブトムシ──の下に埋められていた死体こそが、この私です」
できれば一生知りたくなかったなあ、それ。
「色々あって山に埋められた私
……の上に埋めたカブトムシに、小学生だったあなたが供えた百二十円。お陰で無事、私は三途の川を渡ることができました。本当にありがとうございました」
言いたい事はたくさんあったがどうにか飲み込み、ひとまず百二十円では六文銭には足りないのではないかと指摘しておく。
「
……えぇ、はい。確かにその通りですが
……そこはこう、値切りました。粘ってみるものですね。
……とはいえ、無一文であれば早々に衣服を剥ぎ取られていた事でしょう。あなたのお陰でこの服を死守することができました。もっとも、私は既に死んでいる訳ですが。ふふ」
そこで初めて男が笑った。驚いて見つめていると、気まずそうに視線を逸らされる。
「
……本当に感謝しています。もっと早く、あなたの元へ向かいたかったのですが
……野生の精霊馬を手懐けるのに時間がかかりまして
……」
野生の精霊馬。わたしがオウム返しすると、男は少し困ったように顎に手を当てた。
「
……あぁ、はい、野生の精霊馬です。善霊も悪霊も区別なく乗せるので、今霊界では大きな社会問題になっていまして
……っと、すみません、玄関先でこんな長話を」
そう言われて随分話し込んでしまったと気付く。両隣の部屋の住人達が留守なのは幸いだったが、このまま玄関で会話を続ける訳にもいくまい。
どうぞお上がりくださいと手を男に差し伸べ──
「駄目じゃないですかぁ、そんな簡単に」
男は甘ったるい声で、歪んだ笑みを浮かべた。
ゾッとして後退ると、逃がさないとでもいうように肩を掴まれる。近付いた事で、男の襟元から覗くロープの跡に気付いた。溺死であるのなら、そんな跡が残る訳がない。
そもそもこの男は埋められたと言っていた。例え死因が事故だったとしても、死体を遺棄した人間がいる
……そこでやっと、思い出した。
あの山を管理していたのはわたしの祖父だ。
「
……そんな、復讐なんて滅相もない。あなたの祖父があの山で何をしていたかなんて、子供のあなたが知る由もないのですから」
こちらの怯えた顔から察したのか、男はそう言ってわたしの頭を優しく撫でた。その濡れた指先から生温い水が、髪をつたってわたしの首を、背筋を、流れ落ちていく。
「あなたは覚えていないようでしたが、幼いあなたと会話した事があるのですよ。
……びしょ濡れの私に、ハンカチを差し出してくださって
…………とても、嬉しかった。生憎、地縛霊だったものですから、ここに来るまで時間がかかってしまいましたが」
絶句。
「え、六文銭はどうした、と?
……あなたの記憶もないのに、ハンカチ一枚で恩義を感じた幽霊がここまで来たら怖がるのではないかと思いまして
……少し、嘘を。どうか許してください」
男は首を傾げ、目を伏せた。
「申し遅れました、私はスズキ
……いいえ、どうかスズキとお呼びください」
男
……スズキはそう言って、うっそりと微笑む。
『これ』を、家に招いてはいけなかった。
「お招きありがとうございます。どうぞ末永く
……よろしくお願い、します」
あっ。
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