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なりさ
2022-10-17 00:01:15
11632文字
Public
OEDO2022
Hikari
ドリさんと湯沢の小旅行のお話。
2017/2/12に発行した冊子のweb再録です。
この状況を、どう説明すればいいのだろう。
「お飲み物は何に致しますか?」
「コーヒーで」
「かしこまりました。お客様は?」
急に声をかけられた湯沢は慌てて目の前に差し出された飲み物メニューを眺める。
「え
……
あ、えっと
……
シークワーサーをくださ
……
い」
「かしこまりました」
キャビンアテンダントから手渡された紙コップを片手に、湯沢は思った。
何が何だか分からないままついてきたとはいえ、地上数千メートル上空で緑川と二人で並んで座っているというこの状況を誰が想像できるというのだろうか──?
話はほんの数時間前に
遡
さかのぼ
る。
突然鳴った携帯、発信元は見慣れた名前。
オフの日に何かあったのだろうかと出てみると、いつもの声が聞こえてきた。
『おー、湯沢。お前今何してる?』
『部屋にいます』
『そうか。
……
ところで暇か?』
『今日は何も予定はないですけど
……
』
『そうか、じゃあ俺と一緒に出かけるか』
『え
……
?』
突然の誘いに湯沢は自分でもよくわからない声しか出なかった。
湯沢が住んでいる場所を緑川は知っているはずなのだが、何故か待ち合わせは駅だった。
オフの日に会うことなんて
滅多
めった
にないのだから、それは納得出来たのだが
……
。
「じゃあ行くかー」
待ち合わせ場所に現れた緑川は、
飄々
ひょうひょう
と──それこそ、冬のキャンプの時に「キーパー陣
……
、なにかやろうか」という声かけと全く変わらない本当にいつもの感じで──湯沢に声をかけると、改札に向けて歩き始めたのだった。
俺、ICカード持ってなかったらどうするつもりなんですか
……
!
そんな湯沢の心の叫びなど全く気にする様子もなく、緑川は改札を抜けると、「こっち」と湯沢を導くのだっ
た。
そして着いたところは羽田空港。
飛行機でも見に来たのかなと思っていたら、何故か出発ロビーへと足を踏み入れていた。
「湯沢って、カード持ってるっけ?」
「いや、持ってないです。カード作れるほど余裕はないです
……
まだ」
カードとはクレジットカードのことだろうと思いながら、湯沢は質問に答える。
サッカーで食べていけるだけでも御の字なのだ、そんな自分は緑川から見たら雀の涙の収入しかない。それに今の不安定な立場ではおいそれと簡単に作れるわけがない。それが今の自分の実力だと分かっているのではあるが
……
。
そんなことを考えると、湯沢の心はあることを思い出して沈んでしまった。そんな湯沢を気にすることなく緑川は声をかけてきた。
「湯沢って飛行機乗ったことあるか?」
「一緒に乗ったじゃないですか、札幌行きの飛行機に」
後半戦最初の試合は札幌でのアウェーだった。本来ならベンチ外はクラブハウスでお留守番なのだが、あの時はキャンプを安上がりで済ませたからと、調子を崩して飛行機に乗れなくなった小林以外のETU全員で札幌に行く事になったのだ。
スタンドの一番後ろから──ムードメーカのごとく騒ぐ世良の横ではあったが──メッセージボードを上げるだけだったとはいえ、湯沢にとっては初めての遠征だったのだ。チームのスーツを着て遠征に行けるだけでも初めての体験で、湯沢はドキドキして仕方なかったのを覚えている。
しかし、緑川はそんな湯沢の考えの斜め上をいく発言をしたのだった。
「ああ、そういえばそうだったな。
……
よし、湯沢。今日は俺と飛行機乗るか」
──そして、今に至る。
紙コップを手渡され、その流れのままジュースを口に入れる。甘すぎずベタつくこともないサラッとした飲み心地に、あまりにも突然で考える間もなく一番目立つ飲み物を頼んでしまった自分の行動は別に間違ってなかったなと思いつつ、湯沢はシークワーサージュースを一気に飲み干す。
「おお、いい飲みっぷりだな」
「美味しいです」
「ははは、それはよかったな」
優雅にコーヒーを口に運ぶ緑川を大人の余裕というものはこういうものかと思いつつ、湯沢は勢い良く飲み過ぎてむせそうになるのをこらえるのに必死になる。
「
貰
もら
うか?」
「大丈夫です
……
」
背中をトントンと叩く、そんな大人の余裕が今は少し憎い。どうしてこんなに違うのか。
──そもそも自分と緑川の違いは何なのか。
前の座席の背もたれを見つめ、湯沢はふとそんなことを考え始める。
『自分を見失っているように見えるんだがな』
昨日言われた言葉が、頭をよぎった。
羽田とは打って変わった小さな地方の空港へ緑川と湯沢はやって来た。
飛行機が到着したその横にはプロペラ機が止まっている。
羽田の華やかさとは違うひっそりと静まり返る田園の中の空港は都会の
喧騒
けんそう
に慣れている湯沢にとっては新鮮な景色だ。
何も分からないままついて来てしまったがいったいここはどこだろう。空港の名前を聞いたような気もするが、何となく聞いていたから覚えていない。
緑川はこの土地を知っていますという顔でいるので、それについていくしかなさそうだ。
「
……
行きのバスは間もなく発車致します。ご利用の方は到着ロビーでチケットを購入の上ご乗車下さい」
目の前の自販機で二人分のチケットを買った緑川に連れられて、湯沢は二台止まっているバスの片方に乗る。
座席に腰掛けて湯沢は慌てて気づく。
「お金いくらですか?」
「ん? 出世払いでいいよ」
「いや、良くないです」
そうだ、さっきの飛行機代、湯沢は一銭も支払ってない。
当然チケット代は緑川が『出世払いで返せ』と立て替えてくれたわけだが、バス代くらいは出せると財布に手をやる。
湯沢の財布の中身はもちろん少ないが、バス代くらいは払えるはずだ。
「とりあえず何も考えずに暫く付き合え。オジサンの
酔狂
すいきょう
にな」
そう言われたら、このままとりあえず流れに任せるしかないだろう。
後でお金のことは話しあえばいい、そう思い直し湯沢は財布から手を放した。
バスに揺られ、たどり着いた先はこじんまりとはしているが大きそうな駅前だった。
浅草に比べたら人が少ないがそれなりに大きな街なのだろうか、そんなことを思いながら緑川についていくと、観光案内所へと入っていく。カウンターで何かを聞いているのを入口付近で遠巻きに見ているが、自分より少し年上に見える女性が全身に緊張というオーラを
纏
まと
って応対している。カウンターにすがって聞く様も
洗練
せんれん
されているのを湯沢はさすがだと思って眺めているのだから、窓口の人は自分が思っている以上に緊張していそうだ。
そういえば。二年前、移籍してきた緑川と初めて会った時の自分も目の前の窓口の人みたいに緊張してただろうか。
たしか、先輩キーパーである佐野も結構緊張していたような気がする。それもそうだ、A代表のゴールマウスを守っていたキーパーだ。まさか一緒のチームになるなんてどういう運命なんだろうかと最初は驚いていたのだ。きっと佐野もそうだったに違いない。自分がキーパーを始めた頃にはすでに頂点にいた人間であり憧れの存在だったと言っても過言ではない人とレギュラー争いをすることになる、それがプロの世界なのだと実感するには時間はそうかからなかった。だが、憧れていた人と一緒に練習をしてみて、自分にはまだまだ足りないものがあると感じ、少しでも自分の
糧
かて
になればいいと必死で食らいつく毎日を送ることが出来たのだ。
そう、思っていたはずだった。
「待たせたな、行くか」
どうやらやり取りが終わったようで、右手にパンフレットらしきものを持った緑川に声をかけられ、湯沢は
慌
あわ
てて考え事を途中で打ち切った。
観光案内所の自動ドアを出ると、右手の方向へ進み始める。
「この高架橋にそって歩くとロータリーに出るらしい。ロータリーに出たら正面の神社の横を通る道をまっすぐに行けばいいって言われたんだが、歩けるか」
「はい」
「早くしないと目的の物が見れなくなるからな、少し急ぐぞ」
「あ、はい」
今、緑川は『目的の物』といったが、何を見に行こうとしているのだろうか。
ここへ来てもまだ湯沢は緑川が何をしようとしているのかわからない。
「おお、出たな」
十分くらい歩いただろうか。緑川が受付の人に教えてもらった通りの道を歩くと急に視界が開けた。
「ここってさっきバスの中から見たところですよね」
「だな」
たしか、この風景は空港からのバスの車窓から眺めた景色のような気がする。水辺にあった特徴的な石造りの柱はついさっき車窓から見た記憶がある。
「もうちょっと先まで歩けるんだな、行くぞ」
どうやらこのあたりは水辺を歩くことができるようになっているようだ。
緑川から半歩遅れる形で湯沢は歩く。時折薫るのは汐の匂いなのだろうか。そんなことを思いながら湯沢は連れられるままに歩いて行く。
「このあたりでいいだろう」
立ち止まって景色を眺めていた緑川は、段違いになっている
際
きわ
に腰を掛ける。湯沢もそれに習って緑川の横に座った。
「あと一時間くらい待つみたいだけど、なんか飲み物買ってくればよかったかな」
携帯
スマホ
を片手に時間を見ていた緑川の言葉に湯沢は付近をぐるりと見回すと建物の影に自動販売機を見つけた。
「ドリさん、俺あそこで何か買ってきますけど、なにか希望ありますか?」
「水がいいな」
「分かりました」
湯沢は自動販売機に向かってダッシュし、二人分のミネラルウオーターを片手に緑川の横に戻ると一本を差し出す。
「ミネラルウオーターこれしかなかったですけどいいっすか」
「水ならなんでもいいさ。ありがとう」
ミネラルウオーターを渡した湯沢は改めて緑川の横に腰を掛ける。
「ドリさん、こんなに歩いて大丈夫なんですか?」
「少しずつ走り始めてるからな。歩くだけでもリハビリになるし」
神戸戦で負傷した足のギブスがようやく取れ、間もなく練習に合流出来るところまで緑川の左足は快復してきてはいるが、まだ予断を許さない状況ではある。
「松葉杖の生活は大変だったからな。自分の思う方向に歩けるありがたみを感じたよ」
「分かる気がします」
湯沢はもし自分が松葉杖の生活をしたらと考えるが、器用とは言えない自分には想像以上に大変なような気が
した。
「もうちょっとで練習に復帰できそうだけどな。暫く動いてなくて
鈍
なま
った身体が感を取り戻すまでは時間がかかるような気はするなー」
なんとも無いような口調で言っているが、サッカー選手としてみたら緑川はベテランといえる年齢だ。体力的には全盛期からはもちろん劣っているだろう。それを補って余りある身体を作るのは湯沢が思っている以上に厳しいものになるだろう、そんなことを佐野と話したりもしていた。
「夏木みたいなことはしないけどな」
「ああ、あれっすか」
怪我明けの復帰で夏木がやらかしたシュートを思い出す。
練習を始めようとした矢先にいきなりボールが飛んできて佐野がビックリし、徳井コーチと緑川にこってりと絞られていた夏木の姿は哀れだったなーと遠くから見ていた湯沢は
暢気
のんき
に思っていたものだ。
──あの頃と今と何が変わったというのだろう。
「
……
俺、全然変わってないつもりなんですけど」
不意にこぼれた一言。別に声を出して言うつもりはなかった。しかし、緑川はその言葉を流そうとしなかった。
「そんなことないさ」
「え
……
?」
「今は湯沢が正キーパーで佐野は控えで俺は第三キーパーだ。十分変わってるだろ」
「何言ってるんですか」
「ん? 今のETUのキーパーの現状だよ」
「え?」
「そうじゃないのか。少なくとも今の俺はお前たちと同じ土俵にすら立ててない」
緑川は視線を遠くに合わせたまま言葉を放った。
それに返す言葉が湯沢には見つからず、二人とも口を
噤
つぐ
む。背後の道路からひっきりなしに車が往来している音が聞こえる。
『決しておまえが緑川や佐野と劣っているとは思わない』
昨日言われた言葉が、また頭をもたげてくる。
何故そんなことを言われなくてはいけないのだろうか
……
。
「昨日、かなり所さんに言われただろう」
「えっ」
なぜ、緑川はそのことを知っている──?
突然の言葉に驚いて緑川の顔を見てしまったが、緑川は視線を湯沢に合わせることをしない。
「立ち聞きするつもりはなかったんだがな
……
、って言っても立ち聞きをした時点でするつもりもしないつもりもあったもんじゃないけどな」
「ドリさん
……
はどこまで
……
」
聞いてたんですか、という言葉が続かない。
「話の核心的な部分を指すとすれば全部だな」
「そ
……
うですか」
昨日、練習後に
GK
ゴールキーパー
コーチである所に練習後呼び出された。言われたことは最近の湯沢に対してのことだ。
内容はここ最近の湯沢の調子が思わしくないのが気になるようで、今の現状にしがみついているだけじゃ駄目だし、このままだとプロで生きていけないとかそんなことを言われただけだったのだが、湯沢には正直何のことだかさっぱり分からなかった。
「俺は所さんの言っていることは正しいと思うよ」
なぜそう言われるのか、湯沢には分からない。そう言われたところで『はい、そうですか』と素直に聞くことが出来ない自分がいる。
これまでは素直に聞こえ、ならばもっと努力しよう、もっと強くなろうと思えていたのに、なぜこんなに
荒
すさ
んでしまっているのか。
「これは俺の感じたことなんだがな
……
、最近のお前は何かに焦って自分を見失いかけてる」
「
…………
」
そうだろうか。自分は何かが変わってしまったのだろうか。変わっているつもりなんてない、そう思っているのに。
緑川のいなくなったゴールマウスを佐野と二人で争っている今は試合に出ることができる可能性は高い、それは否定しない。緑川の怪我というチャンスを得てベンチ入りしたとはいえ、レギュラー争いが出来るところまで来たのだ。名古屋戦以降はスタメンとしてずっと試合に出ている、今のこの数少ないチャンスをものにしなければと自分なりに必死に食らいつこうとしているのだ。
確かに今はそうだ、今はそうだとしてもだ。
緑川が復帰すれば、自分は良くて控え、またベンチにも入れない第三キーパーの位置に甘んじなければならなくなる
……
。それが恐い。
湯沢はそんなことを考えた自分に戸惑い、さらに分からなくなってしまう。
「とはいっても、俺がお前の立場だったとしたらお前と同じくらい焦るよな」
「そんなことは
……
」
「あるさ。あの時の夏木と同じで、俺はマイナスからのスタートだ。あの
交錯
こうさく
を後悔はしてないが、マイナスから始めたことなんてなかったからな、どうなるか分からない不安はある」
「ドリさんに不安なんてあるんですか」
「当たり前だろ」
不安を感じさせるような姿を今まで見たことなんてない。
「俺にそんな事言っていいんですか
……
」
同じチームのたった一つの地位を争う自分に、そんな姿を見せていいのだろうか。
「マイナスからのスタートなんだし、言ってもいいだろ」
どこ吹く風のようにサラリと言う。
そんなところから自分と緑川は違うのかもしれない、湯沢は何となくそんなことを思った。
「まあ、俺なりの『宣戦布告』ってことかな」
「え
……
」
「俺も、代表の座を星野に奪われたからな。いつかお前も俺を追い越す時が来るかもしれない。といったところ
で簡単には追い越させはしないけどな」
湯沢は緑川の横顔をただ眺める。まっすぐな視線に緑川の決意を見たような気がした。
そんな会話をしているうちに、人が集まり始めている。
小綺麗な格好をした人が多く、中には旅行雑誌や何かの紙を持っている人もいる。どうやら、目の前で始まる自然が織りなすたった一回きりのショーを見に来たようだ。
湯沢の目に、
黄金色
こがねいろ
に光る球体が見える。さっきまでは顔を上げないと見えない位置にあったはずだが、今はまっすぐ見ていれば視界に入る位置まで落ちていた。
「綺麗だなー、湯沢」
「はい」
目の前では
没
しず
みゆく太陽によって水面の色がキラキラとした色に染まっていた。そして太陽は下の方から徐々に水面の向こうにある山の後ろへと吸い込まれていく。最後には球体すべてが山の向こうへ没んでいき、オレンジ色から徐々に深い色へ変わっていく空だけが残された。
「太陽が没むところをあまり見たことがないけどな、結構すごいもんだな」
緑川がつぶやく声がする。
太陽が没むというのはなんとなく分かるが、記憶の限りでは夕焼け空が徐々に暗くなる風景しか見たことがない。
「空が夕焼けに染まるのは分かるんですけど、没んでいく夕日を見るのはなかなかないですよね」
湯沢は名残惜しく思いながらオレンジ色の空を見つめる。
「ドリさんは何回もここで見たことがあるんですか?」
「ないよ」
「えっと
……
ないって
……
それはどういうことですか」
「いや、さ。たまたま昔ファンからもらった夕焼けが映る写真集を眺めてたんだよ。そうしたら日が没むのが見たくなってな。夕日が綺麗な場所を探しててたまたまここを見つけて来てみたんだけどな」
「それだけのために?」
「ああ。せっかくだし思い立ったらすぐ行動だろ」
さすがはドリさんだと湯沢は内心で妙な感心をする。
「あとな、きっと日本だけじゃなく世界にはもっと綺麗な夕日が見れる場所があると思うんだよ。今日の夕日も綺麗だったけど、それ以上に綺麗な夕日が見れる場所があるなら、そこに行ってみたいって改めて思ったよ」
「なんかドリさんって世界がやっぱ違いますね」
「そう? 湯沢は今日の綺麗な夕日よりももっと綺麗な夕日が見れる場所に行けるなら行きたいって思わないの」
「うーん、夕日がすごい好きだってわけじゃないんであまり考えられないんすけど」
「そうかー。湯沢にはまだ難しいかー」
「ドリさん、いきなり子ども扱いやめてくださいよ」
そんな話をしている斜め後ろのほうで、数人の男子高校生らしき制服の面々がこちらを見て話している声が聞こえてきた。
「なあ、あそこに立ってる人って緑川に似てなかったか」
「本人じゃね?」
「まさか、そんな有名なキーパーがこんな田舎にいるわけ無いじゃん」
「だよなあー」
本物ですよ! と叫んであげたかったが彼らはまたがっていた自転車を漕ぎ始めて二人からどんどん遠ざかっていってしまった。
湯沢の『ゆ』の字も発音されない。今の自分の知名度はやはりそんなものである。
変に
卑屈
ひくつ
になるつもりもないが、やっぱり緑川との差を痛感する。
「残念だなあ、本人だったのにな」
笑い混じりに言う緑川の声に余裕を感じる湯沢であった。
夜、案内所で教えてもらったというホテルにチェックインしてから、緑川は湯沢を連れて知らない町並みを歩いていた。
「お、ここだ。入るぞ」
そう言って、店の扉をガラガラと空ける。
「二人だけどいいかな?」
「どうぞー。
……
あれ、ドリさん!?」
カウンターの中にいた若い板前は声をかけた人物が緑川だと気がついたようで驚いたまま動きが止まった。
「よう、久しぶりだな」
「なんでこんなところにいるんすか!? 怪我してんじゃないんすか!?」
「ん、回復トレーニングがてら気晴らしを兼ねてふらりと旅に来たよ」
「早く座って! 滑らんよう気をつけてよ」
そう声をかけて、カウンターの一角を案内する。湯沢はその後ろをただついていく。
「あれ、お連れさんはもしかしてETUの湯沢くん?」
おしぼりを渡しながら、板前のお兄さんは湯沢の顔を見て緑川に問いかけた。
「そうだよ。よく分かったなー」
「そりゃ、ETUの試合は全部見てるからねー。あ、今お通し出すからちょっと待ってね」
おしぼりを受け取った湯沢に笑顔を向けると、自分の立ち位置へと移動した。笑顔を向けられた時に板前のお兄さんは緑川とさほど年齢が離れていないように見えた。もしかしたら緑川よりも少しだけ若いのかもしれない。
「ドリさん、お知り合いなんですか?」
「そうだよ。元同業者さ」
そう言った緑川の声と同時にお通しの小鉢を差し出す両手がカウンターへのびてきた。
「元って言っても、もうかなり経ちますよー」
「え、サッカーされてたんですか?」
目の前の男性は確かにスポーツをしていたと言われたらそんな感じがするが、割烹着が似合っているのでなか
なか湯沢には想像できない。
「してたって言っても、そんな
誇
ほこ
れるほどじゃないよ。すぐ辞めちゃったしね」
苦笑いのような笑顔を湯沢に向けられる。
「湯沢、ビールでいいか?」
「あ、はい」
「生二つと、なにかおすすめの一品があればそれ
頂戴
ちょうだい
」
「あいよ」
そう言って晩ごはんという名のサシ飲みが始まった。
出てくる品物を美味しい美味しいと食べる湯沢を緑川は愉しむように眺めている。
「湯沢、遠慮せずに食べとけよ。ここの料理は上手いぞ」
「ドリさん、今日始めて来たじゃないっすか」
カウンターの向こうで板前のお兄さんが笑う。
「そんなこと、お通し食べたらすぐ分かるさ」
相変わらずの緑川節を返すと、おかわりの日本酒をぐいっと飲んだ。
そうしていると、店のドアが開く音がする。
「いらっしゃい。あれ、今日は一人ですか?」
カウンターの中から入ってきた客に向けて掛ける言葉で常連だと分かる。戸口の方に目をやると、緑川よりも
幾分
いくぶん
年上そうな男性が一人ふらりと入ってきた。
「今日はね
……
ってあれ?
……
もしかしてドリ
……
?」
板前のお兄さんから先客へと目を移した男性は緑川を見てびっくりした目を見せている。
「あ、ご無沙汰しています」
立ち上がって挨拶を返すということは緑川の先輩ということになるようだ。
「どうした、お前足怪我してんじゃないのか」
「リハビリがてらやってきました」
そう言うと、湯沢に向かって小さい声で言う。
「悪いが、
暫
しばら
暫く一人にするぞ。好きなもの遠慮なく食べてろ」
湯沢が
頷
うなづ
くと日本酒を片手に入ってきた客の隣へと席を移動する。入ってきた男性は清水時代の先輩なのだろうか。体格はまさに何かスポーツをしている事がわかる。そして後輩姿の緑川というのも新鮮で面白いと湯沢は眺める。
そういや、チームで一番年上だからこうやって後輩としてのドリさんの姿を見ることってないもんなあ。
料理を咀嚼しながら、新鮮な目でその方向を見ていた。
「何かいるかい?」
板前のお兄さんがふと湯沢の前にやってくる。
「あ、えっと
……
あの人もサッカーやってる方なんですか?」
食べ物のことを聞かれたのに、
頓珍漢
とんちんかん
なことを返してしまい、慌ててさっきまで食べていたおでんのおかわりを頼む。
「あいよ。
……
あの人は俺やドリさんの先輩なんだ。サッカーを続けたくて今はこの街にある地域リーグのチームに在籍してるんだよ」
「そうなんですか」
「年齢を重ねると1部リーグや2部リーグでサッカーをするのは難しくなってくるからね。それでもサッカーを続けたいって思う人は、こんな地方の名もないチームに来てくれたりするんだ、
……
はい」
差し出されたおでんを湯沢は受け取る。
「ありがとうございます」
「ドリさんは優しい人だよね。俺もキーパーだったんだけど、選手だった時も怪我で辞めないといけなくなった時もすごく親身になって話を聞いてくれたんだよな。そしてこの新しい道を見つけた時は一緒に喜んでくれた。
……
普段は何も言わないけれど、相手のことちゃんと見てくれてるすごい人だよね。一緒のチームで過ごしている君は本当に幸せだね」
「俺も
……
そう思います」
「これから、ドリさんの怪我が治れば君とはレギュラーをかけた闘いをするんだよね。なのに何か君に思うことがあってこうやって連れてきてくれたんだとすると、ドリさんの
懐
ふところ
って本当に大きいと思うよ」
そう湯沢に声をかけたところで、離れた席にいる緑川の声がする。
「そこで俺の悪口でも言ってるのか?」
「そんなことないですよ」
ね、と湯沢に笑いかけると「おかわり同じのでいいですか?」と言いつつ向こうへと去っていった。
確かに緑川は優しい。自分のような競争相手が駄目な方向に向かっているのを放っておけばいいのに弱いところをさらけ出し、相手を
鼓舞
こぶ
するようなことをしている。ドリさんにそれだけの余裕があるのは
癪
しゃく
に
障
さわ
る感じもすると思ったけれど、決してそうではないと緑川は湯沢に言った。
湯沢はそこで、夕日を眺めながら考えていたことを思い返す。もし何かが変わっているとしたら、自分は緑川に勝てないと最初から思いこんでいることだ。きっと緑川が戻ってくれば自分は控えの控えになってしまうのだと最初から諦め怖がっているのだ。
所や緑川が『自分を見失っているように見える』と言ったのも、そんな自分の弱さが原因なのかもしれない。今の地位を守りたくて、湯沢はいつの間にか殻に閉じこもってしまったのだ、きっと。
なんで、なんだろう──。
どうしてなのかわからないけれど、湯沢を救おうとしてくれてるような温かさが嬉しくて、知らないうちに涙が出ていた。
「おい、ドリ、連れの子が泣いてるぞ。わりい、ずっと一人にしてたからか
……
」
「そんなことないですよ。多分酔いが回ったんですよ」
そんな声が聞こえたと思えば、ホカホカのおしぼりを片手に緑川は湯沢の横にやってきた。
「そろそろ帰るか、湯沢」
急に泣き出したことに動転して、もらったオシボリで涙を拭いながら「はい」と答えるしか湯沢はできなかった。
あの後、泣き止んだ湯沢はどうやってホテルまで帰ったのかほとんど覚えていない。ようやく落ち着いたのはホテルの大浴場で湯船に浸かっているときに発せられたこの言葉だった。
「湯沢ー、明日の出発は朝六時だから寝坊するなよ」
「えっ」
「明日の練習遅れる訳にはいかないだろ。だから始発の飛行機に乗るからな」
「
……
マジですか」
果たして朝起きれるだろうか
……
と少し心配になる。
そんな湯沢の顔を緑川は
覗
のぞ
き込む。
「来る前よりスッキリした顔になってるな。
……
連れてきて良かったな」
「ドリさん
……
ありがとうございます」
「ま、俺が来たいから来たんだけどな。コッチこそついてきてくれてありがとな」
グシャグシャと頭を撫でられる。
その感触を受けながら、今日見た夕日を思い出す。
「夕日、きれいでしたね」
「さっき先輩と話してたら、今日の夕日は当たりなんだそうだ」
「当たり
……
ですか」
「毎日住んでると分かるらしい。今日は地元民でも綺麗だと思う夕日だった、とか言ってたぞ。俺らラッキーだったな、湯沢」
「そうなんですか」
そう言ったところでふと気づく。今日の夕日よりもっときれいな夕日が見られるところへ行きたいと思わないか、そう話してくれたのは、努力して成長していけば緑川が見ていた世界だって超えることができるかもしれないということを言いたかったのだろうか。だとしたら湯沢もそうありたいと思ったところで、宣戦布告をされたことを思い出した。
「ドリさん、俺、負けません
……
から」
湯沢がそういった瞬間、緑川は一瞬真顔になり、そして嬉しそうに笑った。
「ははは、俺も湯沢以上に努力しなきゃなー。この温泉骨折にもいいらしいから少しでもよくなるといいけどなー」
「え、これ温泉ですか」
「気づいてなかったのか」
湯沢らしいと笑う緑川の声が響く。
「ただの大浴場だと思ってました」
そんな緑川を横目に、湯沢はお湯をすくい上げて温泉って言われたらたしかにそんな感じだなーと思ったのだった。
結局、翌日の朝は無事に起きることが出来たが、帰りのバスも飛行機も寝ている内に目的地に到着し、前日待ち合わせた場所まで二人は戻ってきた。
「ドリさん、ありがとうございました」
「どういたしまして。楽しかったなー湯沢」
「はい」
「じゃあ、また。練習遅れるなよ」
「ドリさんも別メニューしっかりこなして戻ってきてくださいよ」
そんな湯沢の言葉に一瞬『おっ』という表情になった緑川は、余裕の笑みを見せて言った。
「ああ、ありがとな」
それじゃあ、と手を降って別れる緑川の背中を見る湯沢の目には、もう昨日までの
陰
かげ
りは見当たらなかった。
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