もぞ、と体を動かした。なんだか少し苦しかったから。横向きで寝ていた体を、仰向けに戻してから気づく。なんで、僕は寝ているんだろう。
瞼を持ち上げる。それですぐに気づいた。僕は今、畳の上で横になっている。そしてここは、月見骨董品店の奥の座敷だ。
「ん、おはよう、はるくん」
縹先生が、いつも通りの調子で声をかけて来る。ぼんやり視線をそちらへ向ければ、彼はすぐそばのちゃぶ台で書き物をしていた。
「おはよう、ございます……」
どこか輪郭を得ない思考のまま挨拶を返して、先生を見る。先生が書き物をしているなんて珍しいな、なんて思って、その紙をぼんやり見て。経費とかの書類だなあ、と思ったところでハッとした。がばり、身を起こす。そうだ、僕、今日はお店の書類整理を手伝いに来たのに。
「あの、先生」
声をかけようとして、けれどそれより先に縹先生がこちらに手を伸ばしてきた。
「あっ、あんまり急に頭上げないの」
とん、と指先を額に置かれて、そのままぐいーっと押される。されるがままにまた上体を畳の上に降ろす。
「まだ横になってな」
彼が一度視線を紙束へ戻す。一束にまとめられたそれらをとんとん、とちゃぶ台の上で軽く叩いて、パチリとダブルクリックで留めた。
「大学とか、ちょうどいま忙しい時期でしょ?」
書類を机に置いた彼が、改めてこちらを見る。実際、今は学期末が近くて、テストやらレポートやらが多い時期ではあった。こくりと素直に頷く。
「疲れてたんだろうねえ。そんな時期にうち手伝いに来てくれてるだけでありがたいんだからさ、無理なんかしちゃだめだよ。ね?」
言いつつ、ちゃぶ台の方から、僕が横になってるすぐそばまで先生が近づいてくる。普段よりも更に高い場所に、先生の顔がある。いつもと景色が違くて、新鮮だな、なんて思う気持ちの奥で鼓動が早くなっていた。
「しかし、はるくんが作業中に寝落ちなんて珍しいねえ」
う、と声が出た。そんな僕の反応に対して、先生が少し慌てたように声をあげる。「責めてるわけじゃなくてね」、と続けてくれたけれど、実際作業中に寝落ちしてしまったのは事実だ。不覚……と思わず唇を少し噛む。
そんな僕の頭に、ぽん、とやさしく手が置かれた。
「大丈夫? 最近、忙しかったりした?」
「……いえ、もうそこまで講義を取ってるわけでもないですし。そこまででもないですよ」
嘘ではない。実際、一年次、二年次に比べればずいぶん履修講義は減った。それに、基本的に出席よりもテストやレポートで単位がとれる講義ばかり取っているから、大学生にしては自由時間が多い方だ。
……ただ、そうなってくると、学期末の負担が増える、というだけで。特に、今回は突然テストに加えミニレポートが追加された講義があって、そのせいで計画が崩れてしまった。というだけで。
そんな僕に、先生はどこか淡く笑った。
「うーん……はるくん、すぐ強がるからなあ」
思わず少しむ、っとする。分かりやすく子ども扱いを受けた気がしたからだった。確かに、僕は先生に比べればずっと年下だけど! もう成人してるのに。
「そうだ。はるくん、ちょっと体触ってもいい?」
「えっ!?」
思わず大きな声が出た。体触ってもいい、って、なに!? 咳払いで誤魔化してから、どうにか「なんでですか……?」と聞いてみる。先生は、どこか不思議そうに「ん?」と首を傾げてから説明した。
「マッサージとか、どうかなって思って」
「まっさーじ」
オウム返しに音にすれば、先生はこくりと頷いた。それから、少し得意げに続ける。
「これでもそこそこ上手なんだよ? 流石に資格とかはないけどね」
はあ、とどこか気の抜けた相槌を打つ僕に対して、先生はにこ、と笑った。
「何回か頼まれるうちに覚えてきちゃってさあ、ついでにちょっと自分で勉強したりもしたのよ」
ぐっ、ぱっ、と手のひらを閉じて開いた先生が、その手のひらをこちらに向けて言う。
「で、はるくんもどうかなって」
正直、ほぼノータイムで頷いていた。先生の提案を断ることは、基本的にないからだ。けれど、頷いてからハッとした。だって、これって、僕が先生にマッサージされるってことじゃん!
けれど、先生は既に「うんうん」と頷いてから僕の肩に触れた。
「じゃあちょっと触るね。ほら、うつぶせになって」
言われるがまま、ぐるりと体を反転させる。先生が引っ張ってきた座布団を枕代わりに顎下に寄せて、気付けばすっかりマッサージを受けるための体制が整っていた。先生が、僕の体を跨いで立ってるのが音や気配で分かる。どうにも心拍数が上がってしまう。
「肩から触るねー……」
先生の指先が肩の周りに触れて、それからぐいー、っとゆっくり指先が沈んでいく。うあ、と普段出ないような声が出て、恥ずかしい反面、不健全な意味ではなく、気持ちよかった。
「あ、硬い。やっぱ疲れてたんだねえ」
ぐーっ、と押し込まれた指の力が、ゆっくり抜けていく。押し込まれた皮膚が、その奥の筋肉が戻って行く。先生が、「ぐいぐいーっと……」なんて言いながらそれを繰り返して居て、普段ならきっと擬音を使う先生かわいいな、なんて思うのに、それ以上に体が気持ちよくて脱力していた。
「痛かったら言ってね、調節するから」
「だいじょうぶです……」
問われたそれに返事を返すことはできたけれど、きっといつもよりもずっとだらしない声色だったはずだ。
先生が、僕の肩から背中のあたりにかけて何度も指でマッサージをしてくれる。僕がぐでんぐでんになったころ、先生が一度僕の背から手を離した。
「今度は軽く叩くよー」
その声と共に、布ずれの音が聞こえる。袖を捲ったんだろうか、なんてぼんやり考えている間に、軽い振動が背中側から肩にかけて続いた。
「とんとんとーん……っと」
少ししてから、音と背中に伝わる感触が変わる。ぽこぽこと鳴るそれをぼんやり聞いていると、気付けば先生は僕の上から横に移動していた。
「よし。はるくん、身体起こしていいよ」
言われるがままに身体を起こす。一度畳の上に座って、ぐいと伸びをする。それで、驚いた。さっきよりも、身体が軽い。
「すごい、身体が軽いです、先生!」
感動のまま伝えれば、先生は「よかった」と嬉しそうに笑った。
「でも無理しちゃだめだよ、俺もプロじゃないしね」
一転、少しだけ厳しい表情を作ってみせた先生がこちらに指を向けてくる。
「ちゃんと風呂入って、ゆっくり布団で寝ること! 横着して床とか椅子で寝ると体痛めるからね」
言われるがままに頷く。そういえば、最近時々机で寝落ちていた気がする。
「おっ、と。もういい時間だね」
時計に視線を移して、彼が零す。同じく時計を見れば、確かにそろそろ帰るべき時間だった。手早く荷物をまとめて、上着を着て外に出る準備をする。
靴を履いて出た玄関先。お店の内側に立つ先生が、いつもどおり柔く笑って見送ってくれる。
「それじゃあ、また明日。もちろん、忙しければ無理しないで大丈夫だからね」
「はい。先生。でも、もう大丈夫ですよ! 先生のおかげで、ずいぶん楽になりましたから」
ぐっ、と腕を持ち上げて見せてみれば、先生は嬉しそうに笑ってくれた。それを最後に、扉を閉めて駅まで歩く。すっかり歩きなれた、月見骨董品店から最寄り駅までの道。
そして、明日もここを通る。先生に会うために。
早く帰って、しっかり休もう。もう、先生に心配をかけたくないから。そう決意して、帰路を急いだ。
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