いを
2024-11-09 20:42:46
4091文字
Public 刀神
 

星と夢はどちらが重いか

菊司
・定之さん【higasa_onink】
お借りしています。

 菊司の研究室には開かずの間がある。――とは本人談ではないのだけれど、その人の面影はもうない。菊司がいらなくなったものや失敗作をぎゅうぎゅう詰めにしているだけの、扉が異様に重たい部屋が、いわゆる「研究室の開かずの間」である。中はそれほど重要ではないけれど、仕事以外で意図的にこの中に入るのは久しぶりだ。真四角の狭い部屋の電気をつけると、埃が舞って裸電球のひかりが薄く曇った。
 部屋のすみにある目的のものを引っ張り出すと、体全体の力を使って扉を再び閉めた。思いっきり軋んだ音をたてて。
 窓側にそれを置いて、埃を被った表面を雑巾で拭く。あっという間に雑巾は真っ黒になった。
 レンズの部分はブロアーで埃を飛ばし、クリーニングペーパーでそっと撫でる。これで完全に新品同様とまではいかないが、まあまあ見られるものになるだろう。
 望遠鏡。
 天照に入って半年たったころに買ったものだ。当時まだ凪鞘班にいた菊司は「死んだら人は星になる」という文言を小指の爪の先ほど信じてみたくなった。そんなわけがないのに。今思えば馬鹿なことをしたし、無駄な買い物をしたと思う。
 けれど一度くらい、きちんと見ておきたかった。星と、月を。
 そろそろ時間だ。――と、思った直後に扉をノックする音が聞こえてくる。ノブを回すと、定之が荷物を持って立っていた。
「どうぞ、入って」
「うん」
 窓を開けると冷たい風が入ってきた。薄くてすこし汚れたカーテンが風に乗って揺らぐ。
「望遠鏡」
「そう。15年以上前のやつだけどいい望遠鏡だよ。口径100ミリで……月ならクレーターもすこしは見えるし、星雲星団も見える。あと……
 と、口を噤む。これ以上長話しているわけにはいかない。
 定之を見て、覗いてみる?と首を傾けてみせた。
「いいの」
「もちろん。まずここ……ファインダーを覗いて、見たい星や月の位置を確認してから接眼レンズで見る」
 定之は腰を折って屈み、ファインダーを覗き込んだ。
「なにか見える?」
「月、が見える」
「じゃ、こっちのレンズでも見られるはずだよ」
「うん」
 顎をあげると、肉眼でも月はよく見えた。さすがに海――暗い模様までは見えないけれど。ちょうど雲もない、天体観測にはいい夜だ。今は風さえもない、静かな夜。
「満月?」
 定之がレンズを覗いたままぽつりと呟いた。
「そう。今日は満月の日だね。どう、よく見える?」
「うん、見える」
 それからひと呼吸後、定之が顔を上げた。右目を手の甲でこする仕草がいとけないと思った。
「ウサギの形の頭部分ね、静かの海っていうみたいなんだけど、アポロ11号が着陸したところなんだって。ロマンだよねぇ」
「ロマン……。そうなんだ」
「俺にとってはね。定之くんもそういうのない? こういうこと好き、とか。そういうの」
 シンクに足を向けて、温めておいた紅茶をマグカップに注いだ。とたんに湯気で眼鏡が曇って眉をしかめる。
「はい、紅茶。そこに椅子あるから座って飲みな」
「ありがとう」
 とはいってもパイプ椅子だけれど。定之はそこに座ると、そっと月を見上げた。
「眩しかった」
 ぽつり、と彼が呟いた。
「月が……眩しかった」
 もう一度、繰り返す。
 菊司はこめかみを掻いて、「眩しかった?」と返した。そして定之の前に立って、左目を覆っている眼帯に触れる。かすかに定之の肩が揺れた。
「あ、ごめんね。触ってもいい?」
 彼がうなずいたことを確認して、眼帯をそっと解く。
 見たかぎり、眼帯に異常はなかった。左目に入りそこねた光が右目の負担になっていると思ったのが、そうでもないらしい。だったら心象風景が浮かんだとか、そういったことだろうか。
 あいにく、心理学は専門外だ。
……
 定之と視線がかち合う。よく分かっていないのは、お互いさまか。ふと口もとを緩めて眼帯を戻そうとしたとき、彼の手が菊司の手首を掴んだ。力の入っていない、ただそこにあるだけといったような手のひらが、菊司の手首を包んでいる。
 左目だけ、すこし薄い。
 月のような。ちょうど、あの月の薄暗い部分。
 いつだって彼の瞳は静かだった。
 ――それこそ、心象風景か。
「菊司サンとみたらし食べるの、好きだった」
……うん」
 目尻を下げて、ちょっとだけ笑ってみせる。そう、好きなことがあったの、嬉しいな。と、心のなかで呟いた。
 もう片方の手を持ち上げて、定之の右のほおをそっと撫でる。あの日抱きしめた時と同じように、ひんやりとしていた。
「それも好きなこと」
「そうだね。……うん。きみだけの、好きなこと」
 顔が近い。ともすればふれあえてしまいそうなくらい。実際、息づかいが聞こえている。
 目を一瞬伏せる。瞼が目を覆う。そして「定之くん」と囁いた。

 好きになれたら。好きになったから。好きになったんだから。
 そんな無意味な言葉が頭の中をかき混ぜる。
 好き、という感情を無意味にできたら?そんなことは成しえない、人間だから。邪魔だなんて思わない。――思ったことも、あった。籐子にも籠目瑞雪にも届かなかった。感情の先の言葉を、菊司が否定したから楽だった。
 けれど、定之がいた。
 菊司をとらえた。今みたいに、捉えてはなさない。菊司が勝手に好きになって、勝手に〝好き〟を告げて、定之は〝一緒に生きたい〟と応えた。
 過去を捨てずに、忘れられない男だと彼は知っている。彼自身がそう言ってくれたから。
 許されている、と考えた。
 過去も清陵院菊司の一部だと。
 そう、許されている。

 さらりとした髪の毛を梳き、「あのね」と、思ったよりも掠れた声がこぼれた。
「倦んでいく人生ほど、つまらないものはないからね」
 彼はなにも言わない。
「面白い、つまらないで人生語れるほど生きちゃいないけど、俺、定之くんと出会えて本当によかったと思っているよ」
 左足が欠けたとき、それでも笑っていられたのは義務だったのかもしれない。妖魔を絶対に許さないという怒りだけで長いリハビリを今も続けている。
 けれど、それだけではない。
 定之がいたからだ。定之が――この子の言葉があったからだ。怒りなんてたやすく飛び越えていってしまうほどの存在が。
「きみが〝好き〟をまだ分からないことは分かっているけど、ほんのちょっとだけ、許してほしい」
……?」
 菊司の手首に触れている手に力がすこしだけ入った。
 眼鏡を取り去り、くちびるをゆっくりと押しあてる。そこだけは、すこしあたたかかった。
 マグカップを持った手も、手首を触れている手も、緊張しているのかぴくりとも動かない。そしてきっと両手とも冷たいのだと思う。
「俺、変わったの。分かる?」
 良いほうに、とか、悪いほうに、などではない。変わったのだ。ただ、変化したのだ。
 わずかに曲げていた腰を持ち上げると、必然と定之との距離も遠くなる。きっと分かるだろう。彼なら。定之なら、分かっているのだろう。
「人間って恋をすると、なんで変わっちゃうんだろうね」
 固まったまま動かない定之を見下ろして、笑ってみせた。
「変わらないまま、そのままで恋をして好きになって……なんて、できないんだろうね。定之くんも、ちょっとだけ変わったかも」
 変わることが良い、悪いなどと言えやしないけれど。
「俺……変わった?」
「そう見えるけど……。どうかな。俺の願望かもしれない」
「菊司サンは、変わってほしい?」
「うーん。どうだろうね。変わるっていっても変わんなきゃいけないってわけじゃない。自然なことだからね。変化は。芋虫がきれいな蝶になるみたいに。自然の摂理さ」
 窓辺に立っているとさすがに寒くなってきた。開けっぱなしだった窓を閉めると、彼に向き合うように立つ。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。もう9時になっちゃうし」
「うん」
 パイプ椅子の足もとに置いてあった荷物を持ち、定之が立ち上がる。
 自分は白衣を脱いでハンガーに掛け、PCの電源を落とした。
「あ……
 ふと思い当たり、くちびるを指で触れる。
「tiny_1969。このPCの起動パスワード。よかったら覚えておいて」
……どうして?」
「俺以外知らないから。きみと俺の共通の秘密。なんて、ロマンじゃない?」
 定之はかすかに困ったように立ちすくんでいるように見えた。
「フフ、なんてね。忘れてもいいよ。アポロ11号が月面着陸した1969年7月20日。ちいさタイニーな、偉大な一歩。今じゃもう、月に住もうって奴らがいるんだから」
「覚えておく」
――そう。ありがとう」

 定之を先に廊下に出してから、研究室の明かりを消した。あっという間に暗くなって、簡単にしんと静まりかえる。
「菊司サンは、それで、いい?」
「ん?」
「俺が、分からないままで」
 きゅっと磨かれた廊下が鳴った。
 菊司は眉をハの字にして「そりゃ」と言った。
「分からないままより分かってくれたほうが嬉しいけど。でも、無理やり分かってもらおうなんて思わないよ。きみをねじ曲げてまで……俺を好きになってほしいとは思わない」
……
「俺が一緒に生きたいと思ったのは定之くんだからだよ。どれだけ変わっても変わらなくてもいいけど、曲げるのは違う」
 俺のために曲げないでほしい。と、思う。少なくとも菊司は。
……うん」 
「難しいね。人間って」
 くすりと笑って、定之の頭をごしごし撫でる。
 外に出ると、もう街灯がなければなにも見えないくらい暗かった。
「もうじき、イルミネーション飾られるかもね。このへん、すっごい派手になるんだよなぁ」
「うん」
「クリスマスツリー見たり、クリスマスマーケット行ってみたりする?」
「うん。いいよ」
 約束。
 それは重たければ重たいほどいい。喉に骨がつっかえる程度の痛みでは物足りない。忘れてしまうから。
 約束してもいい、と伝えると、定之はこくんと頷いてくれた。