文章を読むとき、頭の中で音読するタイプと無音のタイプがいる。映像的なイメージが見えるタイプもいるそうだ。もちろん、複合型もいるだろう。人間の認知というものは多種多様で面白い。
アベンチュリンは音読タイプである。母語であるエヴィキン語には文字がなかったから、幼少期は自分がどちらかなんて知らなかった。近縁のツガンニヤ語の文字を習得したとき、文字を目で追いながら頭の中で声が聞こえて、そういうものなのかと思っていた。音読タイプは無音タイプより読む速さで劣るというけれど、特別不便は感じていない。なので、そのままで構わなかった。今までは。
長引いた会議を終えてオフィスに戻ると、待ち合わせをしていたレイシオはいなくなっていた。会議中に遅れると連絡を入れたとはいえ、忙しい人を待たせすぎたのだから仕方ない。
溜め息をついて持っていた資料をデスクに置く。椅子に腰かけて据え置きのディスプレイに向かうと、そこに一枚の付箋が貼り付けられていた。
レイシオの流麗な筆跡でメッセージが書かれている。彼の故郷の文字だ。興味が湧いて文字や文法を少し齧ってみたものの、音でいくつかの単語を聞いたことがあるだけで語彙がないから、共感覚ビーコンがなければ読めない。それなのに、筆跡を綺麗だと感じるなんて不思議だと思う。書き慣れて荒れてもいいはずなのに、こんなメモでも文字の大きさや間隔が揃っていて、定規を当てたように平行に並んでいる様が彼らしい。それでいて線の強弱やカーブの膨らみ方などに表情もある。あの大きくて美しい手の豊かな動きが感じ取れるようで、アベンチュリンはレイシオの手蹟が好きだ。
『技術開発部に呼ばれたので顔を出しに行く。戻ったら連絡をくれ』
そのメッセージは共感覚ビーコンを通って、アベンチュリンの脳内でレイシオの声で再生された。何の変哲もないよくある内容である。が、何かが脳を引っ掻いた。付箋の単語一つ一つに注目して読み返してみると、疑問は解けた。解かなければ良かった。
『お願いだ』
アベンチュリンはドッと汗をかいた。かあっと頬が火照り、心拍数が上昇するのを感じる。スラックスの前が少し窮屈になり、腹の奥にジンと痺れるような疼痛の錯覚が起きて呻いた。バカ、アホ、マヌケ、※ツガンニヤスラング※、※博識学会スラング※、※博識学会スラング※。案外、博識学会には罵倒語のスラングが多いな、やや婉曲なきらいはあるけれど。言葉を武器にする戦士がひしめく組織だから当たり前か。いやいやそんなこと今はどうでもいい。レイシオ、あのやろう……!
アベンチュリンとレイシオには、二人で決めた禁止ワードがある。絶対に耳に入るところで使わないようお願いして、レイシオは了承した。それは、レイシオの第一言語で『お願いします』『~してください』を意味する言葉。ごくありふれた、言語を学ぶにあたり最優先で取り上げられるであろう頻出単語のひとつ。他の言語なら構わない。似たような意味の別の単語でもいい。ただ一つこれだけは絶対にやめてほしいと約束した。
付箋のメッセージは紙に書いたのであって、口に出してはいない。アベンチュリンは今見るまでその単語の綴りを知らなかった。しかし、意味も文法的な使い方を見ても間違いない。共感覚ビーコンを経由して、音だけ知っている単語が文字と結びつけられるなんて盲点だった。
付箋を剥がしてデスクの引き出しに放り込んだ。ひとまず目に見えない場所に葬りたかった。禁止ワードの約束をしてから、レイシオはアベンチュリンの前で第一言語で話さなくなり、間違っても耳に入らないようにしてくれていた。それなのに、こんな油断をするなんて思わなかった。
頭から振り払おうとしても、目で覚えてしまった単語は容赦なく浮かび上がってきてアベンチュリンをおかしくさせる。これが例えば小難しい文章の合間なら、音読はレイシオではない声で聞こえただろうから問題なかった。けれど物はレイシオの手書きである。レイシオの筆跡はレイシオの声で聞こえるに決まっている。
アベンチュリンはそれから一システム時間ほど仕事に逃避して、気を落ち着ける努力をしていた。レイシオから確認の連絡がきて、会議から戻った連絡をしていなかったことに気づいた。
禁止ワードを設けた理由は、そんなに深刻な話じゃない。後で笑い話になると思う。ただ、今はまだとてもじゃないけど笑えない。
レイシオとは、あるときちょっとした理由で体の関係を持ってから、なんとなく声をかけあってそういうこともする友人の関係に落ち着いていた。それは友人でいいのか? 友人なんてほとんどいたことがないので正直よくわからない。便宜的にそう呼んでいて、レイシオも否定しなかった。無理矢理や取引ではない自分から望んでするセックスは、レイシオとしかしたことがない。気持ちよくて、距離感もちょうどよくて、都合がよかった。
ところが、そのままの関係でよかったのに、うっかり恋心らしきものを自覚してしまった。
きっかけはとある取引相手との雑談で、レイシオを娘の結婚相手に紹介しろと言われたことだった。父親は無神経で欲深く自信過剰な男だったが、娘さんは父親に似ずとても感じが良かった。でも二人がお似合いだとは思わなかった。可愛らしいお嬢さんの相手にするには、レイシオはアクが強すぎる。あの石膏頭だけでもなかなかパンチが効いていて初見殺しだろう。彼はお見合いには向いていない。
とはいえ、レイシオは素晴らしい功績によって有名で、定収入もそれ以外もあって、とんでもないお金持ちで、見た目が抜群に良い。マナーや所作や好みから育ちの良さが垣間見えるし、性格は……ところどころおかしいけれども、相性と慣れの問題だ。人間どこかしらデコボコしているもので、許容できればそれでいい。これほどの好物件のそれなりの年齢で、決まったパートナーがいないのはどういうわけだろう。仕事人間だからだろうか。
パートナーはいないとしても、諸々を発散したいとか、見聞を広げるとか、そんな理由で軽く遊ぶことはあるんじゃなかろうか。そう、アベンチュリンと夜を過ごすみたいに――と思い至ってとてもモヤっとした。今まで他に相手がいる可能性を考えなかったなんて、バカじゃないのか。レイシオを誰かと共有するのが嫌だと思うなんて、アホじゃないのか。これはちょっとよろしくない、恋心らしきもの由来の独占欲ではないのか。とまあこれが自覚の始まりである。
とはいっても、恋をしたいとは微塵も思わなかった。そこに割くリソースはアベンチュリンの中にない。恋愛感情はカンパニーに飼われている死刑囚の手に余る。特に初恋は振り回されて面倒だと聞く。回避一択である。気持ちを突き詰めずにモヤモヤで終わらせればセーフだ。そうか? きっとセーフだろう。
恋のようなものを知るのは悪くない。何事も知らないより知っていた方が対処できる。寝られるんだから嫌われてはいないだろうけど、レイシオはアベンチュリンに特別な気持ちなんてない。アベンチュリンのスタンスをわかった上で、手近で面倒がないから今の関係に落ち着いたに違いない。ベッドの上では甘ったるい睦言でじゃれあっても、お互いに外では淡白なものだ。彼好みの表現をするなら、「よく弁えている」。であれば、レイシオの許容範囲を逸脱しない程度に疑似恋愛を味わって、経験の足しにしよう。そのうち飽きて、アベンチュリンのモヤモヤも晴れるだろう。
そんな腹積もりで、アベンチュリンはレイシオに偽物のデートを持ちかけた。そこでレイシオに気持ちの端っこを見せてみた。自分でもまだ掴み所のない確信できない感情だ、気づかれないくらいでいい。こまめに吐き出せばガス抜きになる。
それはまったくもって甘い考えだった。アベンチュリンは完全にレイシオの気持ちを見誤っていたのだ。
アベンチュリンが小出しにしてごまかそうとしたものを、レイシオは前々からしっかり隠して抱え込んでいたらしい。こちらに少し気持ちがあると見るや、大きく育ったそれを一気にまな板の上に乗せてきた。その質量に圧倒され、その引力でアベンチュリンの中のものまで表に引きずり出された。恋は引き合う。ためになったけれど、身をもって知りたくはなかった。
その夜、めちゃくちゃ口説かれた。興味本意で口説かれてみたいと思い、虎穴に飛び込んだせいだ。バカなことをしたと思う。完全に引き際を間違えた。恋人になりたくないなんて、とてもじゃないが言えなかった。
レイシオは褒め言葉と思いの丈を伝える情熱の洪水でアベンチュリンを押し流し、勝手知ったる体を籠絡した。心も体もへとへとになって逃げられなくなったところで、恋人関係を結ぶよう求められた。禁止ワードにした「お願い」である。体を高いところに押しやられたまま、頭の中に繰り返し繰り返しねじ込まれた。快楽で焼き切れて意識が朦朧とした脳みそは、やがて共感覚ビーコンの翻訳をろくに受け取れなくなった。そこから先は、繰り返されたせいですっかり覚えてしまった言葉を生の音で直接刷り込まれ続けた。
そんな無茶苦茶な夜が明けて翌昼、最中に気を失ってからたっぷり寝て意識を取り戻したアベンチュリンは、レイシオと話し合いをした。ベッドから起き上がれない情けない状態では、しらばっくれて逃げることもできやしない。
付き合う、恋人になる。言質を取ったとレイシオは言うけれど、アベンチュリンには全く記憶がない。しかし、同じく記憶になかった件の単語は深く無意識に刻まれていて、聞くとパチンとスイッチが入って体が極限状態を思い出してしまうことがわかった。一気に体温が上がり、全身が快感に痺れ、触れてもいないのに前が兆し、お腹の中が勝手にうねる。特定の単語だけとはいえ、レイシオの声に反応するパブロフの犬だなんて、最低最悪の状況証拠だ。悶えるアベンチュリンを見てレイシオが申し訳なさそうにするものだから、余計にいたたまれなかった。かといって、罪悪感を理由に二人の関係について譲歩してくれるような男ではない。
アベンチュリンは観念した。自由な関係でいることより、問題の解決を重視した。というわけで、お付き合いすることを条件に、禁止ワードを取り決めるに至ったのだった。
以上がことのあらましである。また思い出して体がびくりと震えた。キリがない。せっかく忘れていられたのに、一度思い出したらこれだ。
「……なんて顔をしているんだ、ギャンブラー」
「君のせいだ」
入室するなり顔をしかめたレイシオは、デスクを挟んでアベンチュリンの前に立った。こちらを見下ろして戸惑っている。そりゃそうだろう、こちとら顔を赤くして、汗をかき、震える体を押さえ込んで、あちこちで生まれる疼きに耐えている。職場でだ。泣きたい。
引き出しから付箋を取り出して、苛立ちを込めてデスクの上に叩きつけた。小さな紙片を一瞥したレイシオは、不思議そうに首を傾げた。アベンチュリンは腕組みしてレイシオと付箋が視界に入らないように顔を逸らし、忌々しい恋人への文句を頭の中で唱えて意識を逸らした。バカ、アホ、マヌケ、愚鈍、身勝手、ごうつくばり。
「あの単語、使わないって約束したじゃないか」
「文字なら問題ないかと……もしかして君は頭の中で文字を音読しているのか?」
「ご明察」
「付箋のメッセージは僕の声で?」
「そうだよ! おかげさまでこのとおり、人と顔を合わせられないし、この部屋から出られない」
ああもう、やっぱり顔を見て文句を言ってやらなきゃ気が済まない。レイシオを見上げると、手のひらで口を覆って何やら考え込んでいる。眉間に皺を寄せて難しい顔を作ってはいるけれど……もしかして、嬉しそうじゃないか? どこに喜ぶ要素があったのかさっぱりわからないが。
「状況は理解した。全面的に僕が悪かった、すまない」
「それ、本当に悪いと思ってる顔かな」
アベンチュリンが目を細めて睨むと、レイシオはすいっと目を逸らした。コホンとわざとらしく咳払いをして、今度こそ真面目な顔を作ってみせた。
「ところで、条件反射は上書きできる。君の希望でトリガーを遠ざけていたが、逆に荒療治を試してみないか」
「条件と別の結果を結びつけるってことかい?」
「そうだ。今まで何かへの依存から脱却した経験はないか。恐怖を克服するのでもいい。この質問に君の過去を聞き出す意図はない。もし経験があれば可能だとわかるはずだ」
「ふうん……」
それなら心当たりがある。なにしろ元奴隷だ、恐怖で支配されるのは基本中の基本。実験動物のように扱われることもしょっちゅうで、いちいち心身を削られていたら持たなかった。
だからこそ、条件反射を新しく覚えてしまったことに動揺したのだ。どんな薬物も刷り込みも強情ひとつで突っぱねてきたのに、まだ自分にそんな素直さが残っていたのかと驚いた。
慣れていることなのに、今までのような対処を思いつきもしなかった――いいや、対処から目を逸らしたのだ。なぜなら、この記憶を薄れさせたり嫌なことにしたくなかったからだ。
レイシオに与えられた快感も、ひたすら浴びせられた想いも、全部嬉しかった。ひと欠片も忘れずに、思い出として刻んだままにしたかった。いつかレイシオと喧嘩をしても、どんなにひどいやり方で道が別れたとしても、この記憶があればレイシオを嫌いになることはないだろう。こんなに無様に表面化せずにいたなら、大事に隠し持っていられたのに。
「そうだね、やってみてもいい。結果的に反応がひどくなったとしても、今と状況は変わらないし」
「悪いようにはしない、おそらく」
レイシオは予定していた仕事の話を簡単に済ませると、付箋を持ってオフィスを出ていった。今度はレイシオの家で待ち合わせである。アベンチュリンはさらに一システム時間を心頭滅却に費やし、ようやく表向きの平静を取り戻してからオフィスを後にした。
手が離せないから合鍵で入ってこいと指令を受けて、アベンチュリンは小さなカードキーを手の中で弄んだ。電子キーを端末に入れるとカンパニーに筒抜けになるからいらないと拒否したら、わざわざ作ってキーホルダー付きでくれたのだ。まだ友人の頃のことだった。便利だから、で思考停止して意味なんて深く考えずに受け取ったけれど、今にして思えば、外堀を埋める石の一つだったんだろう。
そのとき家の中のものはなんでも好きにしていいと信じられないことを言われたので、書斎の大切なものを持ち出すかもしれないよと警告した。レイシオはやれやるものならやれと軽く言って取り合わなかった。アベンチュリンの損得勘定を信頼しているから何も心配していない、そう言われてしまえばぐうの音も出ない。自分でも半信半疑な情を信じられるより、はるかに的確だった。
解錠して家に入ると、キッチンの方からいい香りが漂ってきた。
「食事を用意してくれてるのかい? 匂いをかいだらお腹すいてきた」
ひょこりとカウンターの中を覗き込むと、部屋着のレイシオが木べらで鍋をかき混ぜていた。傍らに画面の大きな端末を置いて文書に目を通しながら。
火を弱めて振り向いたレイシオは、小さなチーズの欠片をアベンチュリンの口に押し込んだ。その動作についてきた濃厚なトマトの香りが鼻をくすぐり、腹の虫が鳴き声をあげる。ホロホロと崩れて消えてしまうチーズの濃厚な旨味は、食欲の呼び水にしかならない。
「もう少し煮詰める。シャワーを浴びて着替えてこい」
「今日は泊まらないよ?」
「家に呼ぶのはそのためだけではないと何度言えばわかる。ただ楽な格好をして寛げ」
「はーい」
恋人になってからこの家に来ることが増えたけれど、体を繋げる回数はむしろ減ったかもしれない。性欲の代わりに食欲と睡眠欲がおおいに満たされている。レイシオのテリトリーにいると不健康ではいられない。
シャワーを浴びてきれいさっぱり装甲を剥がし、ゆるい部屋着姿で、普段より多めの食事を頬張る。ミートソース大好き。今日は特にレイシオの謝罪の気持ちがこもっている。アベンチュリンは生まれてからずっと、凝った料理を食べられる環境にいなかった。カンパニーの社員食堂で初めてミートソースを食べたときに感動したものだ。しかし、レイシオの手作りはそれを軽々と越えた。挽き肉の存在感が圧倒的で、野菜もたくさん入ってる。採算度外視、なんていい響きだろう。料理に使ったワインの残りを片づけるティント・デ・ベラノもけっこう嬉しい。
食後、リビングのソファにだらしなく座って膨れたお腹をさすっていると、レイシオが顔くらいの大きさのアヒルを持ってきて隣に座った。パツパツに空気を詰められて丸々と太ったビーチボールである。なぜか長い睫毛が描かれていて妙に色気がある。
それを顔の前に構え、レイシオはコホンとひとつ咳払いをした。なんとなく、アベンチュリンも座り直して姿勢を正した。レイシオは躊躇ってから、おもむろに口を開いた。
「《こんばんは、僕はアヒルのベリタス・レイシオ》」
その一声でアベンチュリンはむせた。なんということでしょう、レイシオが裏声でアテレコを始めたではありませんか!
「は? 頭でも打ったのかい!?」
「《僕は極めて正常だ》」
「ちょっと待ってよ、なにが始まったの?」
「《アヒルの僕の声を覚えてくれ》」
「どうしよう、斜め上すぎてついていけない……ふはっ」
これのために夕食に酒を出したんだろうか。飲まなきゃやってられない気持ちはわかる。だけど、べつにアベンチュリンがやらせたわけじゃない。見せられてるアベンチュリンだって、ほろ酔いじゃなかったら笑えたかわからない。
声のインパクトで気づくのが遅れたけれど、今話しているのは久しぶりに聞くレイシオの第一言語だった。もちろん翻訳がないと意味はわからない。でも、いくつかの知っている単語と音の波で判別はできる。
アヒルのレイシオは、アベンチュリンが笑いをこらえて戸惑っている間も喋り続ける。聞いている内に、レイシオが何をしようとしているのか悟った。あの夜の上書きだ。リビングのソファに並んで座り、体を向きあって、間に挟んだアヒルの口からこれでもかと口説き文句を浴びている。あまりにもバカバカしかった。甘い空気なんて一ミリもない。アヒルの顔を見続けるおかしさに耐えられなくなって顔を逸らすと、「《こっちを見ろ》」と怒られる。こんなの正視に耐えるか、バカも休み休み言え。挙げ句の果てには、そんなにずっと裏声で話していて喉がつぶれないか心配になってきた。
「《僕を君の恋人にしてくれ、お願いだ》」
じわ、と滲んだ感覚は、笑いの発作に負けた。繰り返し、繰り返し、お願いだと、セクシーな顔のアヒルが高いトーンで囁く。もうお腹いっぱいだと思い始めたところで、その声が低くなった。
「お願いだ」
アヒルを膝の上に置いて、項垂れたレイシオが一度だけ素の声で言った。上目遣いでじっとアベンチュリンの目を見て、それきり口を開かない。
アベンチュリンの頬が上気する。体が熱くなって、満腹のはずのお腹が寂しくて、目の前の男が欲しくてたまらなくなる。百歩譲ってもしこのバカげた手段に効果があるとしても、そんなに簡単に効いたら苦労はない。
「アヒルはもういいのかい?」
「やってみてわかった。これはない」
「やる前に気づいてほしかったな」
アヒルを床に落として落ち込んでしまったレイシオを、そっと抱きしめた。よしよしと頭を撫でて慰める。おかしいな、夕食を作ってくれたところまではただのカッコいい恋人だったのに、どこでネジが飛んじゃったんだろう。
「あのねレイシオ、僕は君の捨て身の戦いに感動した。これで上書きするよ。条件反射を書き換えるのは得意なんだ」
「やめろ、忘れてくれ」
「やだね、絶対忘れない」
ポンポンと広い背中を叩いてあやしながら、新しい思い出を反芻する。うん、悪くない。これなら大切な記憶と引き換えにしてもいい。
「頑張るから、僕がいいって言うまで禁止ワードは使わないでね」
「一生使わない」
「なにもそこまで」
「僕が恥ずかしくて耐えられない」
ああ、本来の目的はそっちだったのか。アベンチュリンは縋るように伏せたレイシオの頭を肩に受け止めて、堪えきれずに笑った。おかしくて笑ったんじゃない。可愛くてたまらなくなったのだ。レイシオはアベンチュリンにだけ負担を強いたりしない。こんなバカみたいなトラブルに真剣に向き合ってくれた、その思いやりが嬉しかった。まあ、やり方はともかくとして。バカになっちゃうところもまた可愛いということで。
「一生聞けないのは寂しいよ」
「許してくれ」
「付箋を返してくれたら考える」
「読めないのに?」
「読めるようになってみせるよ。君の字が好きなんだ」
夜色の髪に鼻先を埋めて仄かに残るトマトの香りを深く吸い込み、はあっと熱い吐息にして無防備に晒された首にかける。レイシオの膝に乗り上げて、ゆるく兆している下半身をすりつけた。
「ところで、君のせいでこうなったんだけど、今日はやっぱり寛ぐだけ?」
途端にむくりと起き上がる硬い存在を太ももに感じて、アベンチュリンは耳元に囁いた。
「しよ?」
「する」
即答したレイシオの少しうわずった声にアヒルが見え隠れしていて、あやうくせっかくの空気を台無しにするところだった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.