夕食後、水音が響くリビング。御幸が食器を洗っているキッチンからは、ソファに腰掛けてホットココアを飲んでいるクリスが見えた。わざわざ鍋で作ってホイップクリームを乗せたそれは、彼の好物のひとつである。初めて御幸がそれを作った時、「喫茶店で出るココアみたいだ」と、クリスがいたく感動していたのをよく覚えている。今日の夕食も美味い美味いと言いながらぺろりと平らげてくれた。胃も心も満たされて寛いでいるクリスを満足そうに眺めていると、ふと視線が合った。
「やっぱり何か手伝おうか、一也」
泡で滑って手から皿が飛び出しそうになるのをぐっとこらえ、御幸は「‥‥大丈夫です」と返した。
一緒に住み始めたのだし、名前で呼び合おうとクリスが言い出したのは数日前のことである。もちろん名字でもミドルネームでもない。ちなみに同棲を始めたのは半年ほど前で、その間ずっと下の名前で呼び合う機会を待っていたのだろうかと思えば、「俺はもっと前からずっと一也って呼びたかったぞ」と早速名を呼ばれた。御幸とて、同棲している恋人同士が名字や「先輩」という敬称付きで呼び合うのはそろそろ変えるべきだろうとわかってはいるのだが、もう何年も「クリス」で呼んできているのだ、すぐに「優」のほうで名を呼ぶのはいささか困難であった。そして、呼ばれることも。
「大丈夫か一也」
「一也、悪いがこれ頼めるか」
「痛くないか、一也」
名を呼ばれるたびに、困っていることも頼まれたことも痛いことも全部飛んで行ってしまうほど恥ずかしい。照れくさい。慣れない。耳元で甘く低く呼ばれると腰が抜けるというのも悩みの一つだが、それはまぁ置いておくとして。
クリスが名前で呼ばれたがっているというのがわかるだけに、自分でもどうしようもない己の不器用さがもどかしかった。
「困らせてるな」
苦笑とともにクリスがそう言ったのは、風呂上がりに二人でソファに身を預け麦茶を飲んでいる時だった。
「え?」
「無理して名前を呼んでくれと言ったつもりはなかったんだが」
「‥すみません」
「謝ることじゃないだろう」
かちかちとばつが悪そうに御幸はコップの縁を噛む。
「でも、先輩は名前で呼んでほしいんでしょう?」
「だからって、こっちが名前で呼ぶたびに複雑そうな顔をされるのも、あんまり気持ちのいいものじゃないしな」
う、と小さく唸ると、クリスは「ほら」と小さく笑った。
「負担にさせてしまっていたな。あまり気にしなくていいから」
「でも、あの、俺、‥呼びたいです、名前」
名前を呼ぶ、ただそれだけの簡単なことで、好きな人を喜ばせることができるのなら、恥ずかしくても、照れくさくても、叶えてあげたかった。
「‥そうか。じゃあ、練習してみるか?」
「練習、ですか?」
「うん。自然に呼ぶのは難しいだろうから、とりあえず名前だけ呼んで慣れてみるとか」
「‥‥わ、かりました。やってみます」
御幸はコップを机に置いて、深呼吸し、気持ちを整えた。
「‥‥何もそんなに緊張しなくても‥‥」
「うぅ‥‥」
「本当に、無理しなくていいんだぞ?」
「嫌です。やります」
いよいよ眉間に皺を寄せ始めた御幸の肩に、クリスの手が伸びる。そのままぐいっと抱き寄せられた。
「そんなに硬くなるな。リラックスリラックス」
まだ少し湿った髪をぽんぽんと撫でられると、少し緊張が解けた。さらに体の力を抜こうと、御幸は体重を預け、クリスの肩に頭を凭せ掛けた。深く息を吸うと、風呂上がりの清潔な香りが胸を満たす。――力を抜きすぎて、もはや名前を呼ぶことより、こうしてくっついている状況が気持ち良いということで心がいっぱいになってきた。
「‥‥なんか」
「ん?」
「くっついてたら気持ちよくなってきました」
「ふふ、そうだな」
「あったかいなぁ、‥‥優さん」
頭で余計なことを考える前に、勢いに乗せて、彼の名を声に出してみた。すると突然肩を抱いていた手が解かれる。何でだろう、俺何か間違えたかな。そう御幸が不安に思っている間にクリスは背中を向け顔を掌で覆ってしまった。
「‥‥あ、あの、‥‥クリス先輩?」
「‥‥」
「ご、ごめんなさい、俺何か変なこと‥‥言いましたか‥‥」
クリスは無言でふるふると頭を横に振った。尚更わけがわからない。
「‥‥悪い。その‥‥」
「はい」
「もう一回呼んでくれるか」
「えっ!?‥‥えーっと‥‥さっきみたいにくっついてくんないと、難しいッス‥‥」
「‥‥お前はどうしてそんなに‥‥!!」
がばっと振り返ったクリスは耳まで真っ赤だった。ああ、照れていたのか、と思った途端に御幸もぐわりと顔に血が昇る。もう付き合い始めて数年は経つのに、今更名前を呼ぶの呼ばないので二人して照れまくっているこの状況は一体なんなんだと、クリスも御幸も呆れ気味に思った。
「‥‥これはまずい。こんな風に日常的に呼ばれたら心臓がもたない」
「何言ってるんスか今更‥‥俺だって同じですからそれ‥‥」
「心臓が強いなお前は‥‥」
「いやそういう問題じゃないと思う‥‥」
顔を真っ赤にして狼狽えるクリスは御幸にとって新鮮であった。悪戯心がむくりと湧き上がる。御幸はクリスの耳元に唇を寄せた。
「‥‥優さん」
ぐるり、視界が回ったと思うと目の前には天井を背にしたクリスがいた。押し倒されたのだと認識するまでに数秒かかった。
「‥‥あんまり」
見上げる貌は欲情に歪んでいた。ここまで余裕のないクリスは珍しい。御幸の呼吸がふるりと乱れた。
「いじめないでくれるか、一也」
衝動を必死に抑え込んでそう言うクリスが可愛くて仕方なかった。好きにさせてあげたいと強く思った。
「‥‥俺は、‥‥‥‥いじめられたいかな」
唇が乱暴に塞がれ舌がねじ込まれた。声も出せないままシャツの中に手を差し込まれ、肌を撫で回される。
「んっ、んーっ!‥‥っは、ちょ、ま、ベッド!ベッドで!」
「うるさい」
「ちょ、ほんと危ないですからここ!机!‥‥ぅわっ」
再び乱暴に腰に腕を回され、ほとんど荷物を抱えるように寝室へと引きずり込まれた。ベッドに押し倒されながら御幸は、今夜は名を呼ぶことでクリスを翻弄できそうだと、愉快そうに笑った。
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