御幸が食堂に入ると、亮介とクリスが頭を突き合わせて何やら話していた。聞くともなしに聞いていると、クリスのリハビリやトレーニングについて話しているらしい。クリスが携帯を取り出して、これがリハビリステーション、ほらこれがトレーニング道具、・・おそらく携帯で撮った写真を見せているのだろう、亮介も画面を覗き込みながらふんふんと頷いていた。俺も後で見せてもらおうかな、などと思いながら、適当な席に座り持参したスコアブックを開こうとした、その時だった。
唐突に奇妙な沈黙がクリスと亮介を襲った。
何だろう、クリス先輩に限ってエロ画像うっかり出しちゃったとかなさそうだしな、家族の写真とかかな?お父さんと仲良いもんなクリス先輩、友達にそういうの見られるのってちょっと恥ずかしいしな。御幸が他人事のように推測を巡らせていると、ふと、視線を感じる。
亮介に見られている。それはもう見られている。見えてるのかどうかわからない目だけど視線だけは蜂のように刺してくる。対してクリスはばつの悪そうな、気まずそうな、悪びれたようなそうでないような、何とも表現しがたい複雑な顔をしていた。え?今の流れで俺何かしました?何もしてないですよね?椅子に座っただけですよね?
顔中にハテナを浮かべていると亮介がちょいちょいと手招きした。訝しげに近寄ると、亮介はクリスの携帯の画面を御幸に向けた。
「御幸、いつの間にこんなもの撮らせたの」
そこには、自分の寝顔がばっちりしっかり映し出されていた。え?なにこれ?全く身に覚えがない。必死で記憶を手繰り寄せる。クリス先輩が俺の寝顔?の写真?いつ?どこで?クリス先輩・・・・・寝・・・・。
「あーーーーっ!!!!」
「御幸うるさい」
「なんでそんなもん撮ってるんですか!消してください!」
「・・やっぱり?」
「当たり前でしょうが!!」
顔中どころか頭の芯まで一気に熱くなる。恥ずかしくて真っ赤になっているのが自分でもわかるのに、同時に失態を掘り返されたことへの気まずさで心の中は真っ青だった。穴があったら入りたい。ないなら掘ってでも入りたい。
「クリス、ちょっと」
「ん」
亮介がクリスに何事か耳打ちをする。嫌な予感しかしない。御幸はやってくる攻撃に備え気を引き締めた。やがて作戦を伝え終わったのかこくこくと何度か頷くと、クリスは伏し目がちに何とも憐れがましい声で。
「・・せっかく御幸が可愛く撮れているから、消したくない」
「・・!な!に!を!言っ・・!!」
違う、これはクリス先輩の意思でなく亮さんの入れ知恵だ、クリス先輩にこう言わせれば俺が何も反撃できないと踏んでの作戦だ、惑わされちゃだめだ、気をしっかり持て俺。そりゃクリス先輩が本心からそう言ってくれているなら願ってもないことだけど、って違うそれは今考えることじゃない、上級生に嫌がらせされるほどの生意気スキルを今こそ発揮する時だだめだまともに見たらやられる目を合わせるなああクリス先輩ごめんなさいそんな顔しないで!
わなわなと震えながら、それでも絞り出すような声で、「消、し、て、くだ、さい」と御幸は告げた。
亮介は「やるねぇ」とでも言うように笑みを深くし、クリスはまたもや何か考えている様子だった。なぜそこまで俺の写真に執着するんですかクリス先輩。
「・・・・確かに、お前が眠っている隙を狙って写真を撮るのは、フェアプレー精神に欠ける行為だったな」
「!・・クリス先輩!」
フェアプレー云々についてはよくわからないが、ようやく自分の意思を聞き入れてくれる気になったのだろうと御幸が安堵したのも束の間。
「今度俺が居眠りしていたら、こっそり撮っても構わないぞ」
なるほどその手があったか、と亮介が頷いた。
結局御幸はクリスから出された交換条件にあっさり屈し、写真を持ち続けることを許した。むしろ御幸にとっては、自分の写真ひとつでクリスの隠し撮りを本人から直々に許可してもらえるなど、もはや交渉するまでもないほどの優良案件だった。災い転じて福となす。棚からぼたもち。七転び八起き。それは違うか。
ただ一つ、問題があるとすれば。
(・・クリス先輩が居眠りしてる時に遭遇できる確率って・・)
バスの座席だって常に必ず隣に座れるわけではないし、隣に座れたところで、クリスがあの時のように転寝してくれるとは限らない。ましてや寮での就寝時以外で、クリスが人目に付く場所で無防備に眠りこけている状況など考えられなかった。あまり真剣に考え込んでいるものだから、いつかの夕食時には「女にでもフラれたか」と倉持に笑われたほどである。微妙に核心を掠めていくのが気味悪い。
しかしそのうち考えてもどうにかなるものではないとようやく遅すぎる結論が見えて、御幸はこの件については一旦忘れることにした。
その夜御幸は枕を抱え、自分の部屋の前で見るとはなしに夜空を見上げていた。背後の扉一枚隔てた向こうからは、部員たちの騒がしくも愉快な声が聞こえてくる。
「御幸?」
風呂から戻ってきたのであろうクリスが、廊下にぼうっと立っている御幸に声を掛けた。
「どうしたんだ、そんなところで」
「あー、いつもみたいにゾノの部屋に逃げて寝ようと思ってたんスけど。今日はゾノが先輩たちに捕まってて、さすがに俺だけ奴の部屋で寝るのは悪いかなー、と」
背後の扉を指さして御幸は答えた。
「お前にもそういう人並みの遠慮というものがあったのか」
「・・あの、それクリス先輩に真顔で言われるとそこそこ傷つくんですけど」
「今夜は俺の部屋に逃げるか?俺は勝手に寝させてもらうが、起きとくなり寝るなり好きにしろ」
その言葉を理解するのにかなりの時間を要している御幸の答えも聞かず、クリスはさっさと自室に入る。扉の閉まる音が鳴ってやっと、御幸は「今の幻聴とかじゃないよな・・?」と我に返りドアノブに手を伸ばした。
「失礼します」
クリスと同室の金丸は既にどっぷりと寝入っている様子だった。「じゃあ俺はもう寝るから」と、クリスもベッドに潜りこむ。
「はい、おやすみなさい・・あ、電気は」
「点けといて構わないが寝る前には消しといてくれ。おやすみ」
ほどなくして、クリスの静かな寝息が聞こえてきた。他人の部屋で特にすることもないので、御幸も適当に横になろうかと思った時、携帯が震えた。倉持からのメールだった。見ると、ベッドに仰向けになって眠りこけている増子の上に、春市がおそらく先輩命令であろう、真っ赤な顔でうつぶせに覆いかぶさっている。本文は「トトロとメイw」。・・納得。
バカだなぁ、と思いつつもその微笑ましい様子に思わず頬が緩む。トトロとメイて。んじゃサツキは誰だよ・・あ、亮さんか。などと考えているうちに、あることを思い出した。
クリス先輩との交換条件。今なら。
途端にぴりっと緊張が走る。携帯を握っている手が汗ばんだ。ゆっくりと気配を殺して、クリスの眠っているベッドまで近づく。穏やかな寝顔がよく見えた。
御幸にとって、いつだってかっこよくて、強くて、優しくて、賢くて、・・そんなクリスの無防備な寝顔はとても新鮮で、あまりに見つめすぎて視線の強さで起こしてしまわないかと、おかしなことまで考えてしまう。
(いいよな、撮っても・・許可は出てるんだし)
こんなに真剣に写真を撮るなんて、いくら短い人生といえど生まれてきて初めてだ、と、心の隅で苦笑しながら。
カシャ、とシャッター音が鳴る。普段は気にならない程度の音がやけに大きく響いて聞こえて、御幸はそうっとクリスの様子を窺う。――起きてはいないようだ。
そうだ、一枚だけとは言われてないし、いいよな・・。続いて3枚ほど、寄ったり引いたりしながらさらに寝顔を撮って、御幸は詰めていた息をゆっくりと吐いた。汗で濡れた掌をシャツの裾で拭く。謎の達成感を感じる。撮った写真を確認すると、次は不思議な感動に包まれる。
(クリス先輩の寝顔・・・・マジか・・・・マジで手に入れちゃったのか・・・・。待ち受けにしたい・・・・。万一人に見られたら困るからしないけど・・・・っていうか他人に見せたくねぇ)
携帯の画面を見て、はぁっとため息をついて、また見て、またため息をついて、・・を暫く繰り返し、御幸は傍らのクリスの寝顔を再び見つめた。写真を撮るというミッションを達成した今、幾分か落ち着いてその寝顔を眺めることができた。
さわりたい。けど、さわりたくない。
そんな相反する感情が御幸の中に同居している。触れたいという純粋な欲求と、この完璧な光景に自分の存在を持ち込みたくない憧憬。しかし。
(・・髪なら、ちょっとぐらい触っても、うん。疚しい感じは無い・・よな。無い。そういうことにしておく)
折衷案を自分なりに見つけ出して、御幸はクリスのゆるく巻いた髪をほんの少し指で掬った。
うわー。やわらけー。ふわふわだー。かわいいー。
と叫び出したい衝動をどうにか抑え込み、心の中に留める。自分も癖毛だが、外にぴょんぴょん跳ねまくる性質の癖毛だ。真っ直ぐな分櫛も通りやすいし、適当に水で慣らすことのできる手軽さはあるが、この柔らかく緩い巻き毛の愛らしさはそれらと引き換えにしても特別だと思う。もちろん本人はたまったものではないのだろうが。
そんな感動に包まれて夢中で髪を撫で指で梳いたり絡めたりしていたものだから。
「―――――御幸」
低くそして限りなく小さな声に、心臓が跳ね上がるほど驚いた。
「・・・・」
錆びついたロボットのようにぎこちない動きで、御幸は髪を弄んでいた手を離した。クリスの視線が痛い。もうだめだ。絶対怒られる。いや、気色悪いと思われる?無理だ。耐えられない。どうしてこう先輩のことになるとダメダメなんだ、俺の馬鹿。
「・・・・」
御幸の何らかの弁明を一応待ってみるクリスと、頭が真っ白になって言葉が何も出てこない御幸の、沈黙の相対。どのくらい時間が経っただろうか、やがて根負けしたようにクリスが小さく息をついて。
「!」
御幸の髪に触れた。それは先程の御幸の手つきを真似るように、撫でて梳いて絡めて。
視線が離せない。瞬きもできない。呼吸が出来ているのかすらわからない。皮膚から伝わる指の感触だけが全て。永遠にも一瞬にも感じられるその時間は唐突に終わりを告げ。
「のわっ」
「お返しだ」
最後にわしわしと乱暴に髪を掻き混ぜて、気が済んだのかすっと手を離したクリスは、さっさと背を向けて再び眠る態勢に入った。かちかちに硬直した体からようやく力が抜けた時には、もうどのくらいの時間そうしていたのかわからないほど。
―――――こんな状態で寝られるかよ。
後日、亮介に携帯の画像フォルダを見せろと脅され、―否、せがまれたが、その対応がクリスとの交換条件を無事に遂行できたと認める結果になろうとも、御幸は頑なに携帯のロックを解除することはなかった。「どうせ1001とかでしょ」と言われた時は動揺のあまり携帯を握りつぶしそうになったが。
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