他校との試合を終え、部員を乗せたバスの中。心地良い揺れに誘われて転寝をする者、イヤフォンで音楽を聴いている者、先程の試合の内容を反芻している者―静かな車内に、ぱらりと紙の捲れる微かな音が聞こえ、御幸は左隣に声を掛けた。
「・・クリス先輩。ずっと思ってたんですけど、車の中で文字読んだら酔いますよ」
一拍の間。言ったところで聞き入れないような気がして、これまで黙っていた御幸の予想はしかし外れ、クリスは曖昧な苦笑いを浮かべながら素直にスコアブックを閉じた。
「さすがに目ざといな」
「学校着く頃いつも顔色悪いですからね」
にししと笑う御幸に、敵わないなとでも言うように軽くため息をついて、目が疲れたのか眉間を指で軽く揉む。やる事を無くしたクリスはどこを見るでもなく空中に視線を漂わせる。それきり会話も無く、御幸も窓の外へ視線を移して今日の試合の反芻を再開した。
どのくらいの時間が経っただろうか。左肩がじんわりと重さを増して、御幸は再び思考の海から覚醒した。え、まさか、という思いが一瞬頭を掠めて、しかし左側に視線を移すとそれは現実のものであった。
バスの揺れに誘われて転寝しているクリスの体が、御幸の体に傾き、その体重を無防備に預けていた。
二人の逞しい体格と、きちんと正面を向いた体勢では、肩を枕にされるような状態ではなかったが、それでも至近距離であることには変わりない。かくんと下を向いた頭の、二房の前髪が、御幸の視線の斜め下でゆらゆら揺れていた。
品の良い寝顔を凝視する御幸の表情は「無」であった―というより、昂揚とそれを上回る驚きと動揺と諸々々々の複雑な感情が一気に襲い掛かり表情筋が仕事放棄した。
先輩どうしてこっちに傾いてるんですか起き、いやいや起こしちゃいかんだろ馬鹿か俺は、ていうか近い。この近さはない。ナイナイナイ。いやあってもいいけどなんか心臓的なものがもたない。つーか寝てる時もキレーなカオして寝、いやそういうことじゃなくて。
やたら早口な一人漫才を脳内で繰り広げていた御幸だったが、クリスの寝顔にわずかな疲労が滲んでいることに気付き、我に返った。少し痩せたのだろうか、頬のラインは硬く、目元の翳は以前よりも深くなっているように感じられた。
・・そりゃ、そうだよな・・。朝練やって授業受けて部活して、その上リハビリ通いに監督や部員とのミーティング、他校への視察、試合の記録とまとめ、選手のサポート・・。
いくら自己管理がしっかりしているクリスといえど、バスの中で転寝して、うっかり後輩に凭れかかってしまったとしても不思議ではない多忙な日常である。御幸は己の浅はかな動揺を恥じた。
そもそもちょっと寄りかかられたぐらいで、何をそんなに慌ててんだ俺は。反対側の席の沢村なんて何をどうやってんのか知らんけど降谷に見事に乗り上げて爆睡しているし(ごくろーさん)、哲さんと純さんは、なんというかアレはもう年単位で見慣れた光景だし今更だったな・・。思い出さなきゃよかった・・。ほっとこほっとこ。
俺の肩で少しでも休めるんなら、いくらでも。・・なんて、ガラじゃねぇか。御幸は小さく笑って、できる限りクリスを起こさないよう、ゆったりと座席に体を預けて安定させた。
ふっ、と意識が覚醒する。・・ああ、いつの間にか寝ちまってたか。眼鏡が斜めにズレた視界は妙に傾いている。・・え?
え。
ぼんやりした頭が一気に覚醒し全身は硬直しどっと汗が噴き出す。目下に見える脚は自分のものと、それから。
「・・御幸?」
普段よりなお小さい声が、御幸の後頭部を掠めた。ギシギシと音が聞こえてきそうな、非常にゆっくりとしたぎこちない動きで、御幸はクリスに預けた体重を元に戻した。
「・・・・」
「よく寝てたな。学校まではまだ少し時間があるが。二度寝するか?」
「・・あの・・す、スイマセ・・・・」
「ん?別に構わないぞ。俺だってお前に寄りかかっていたしな」
いつの間にか自分が眠りこけて、あまつさえクリスの肩を思いっきり枕代わりにしていたとは。御幸が凭れやすいように気を遣ったのだろう、クリスは少し肩を落とし斜めに体を傾けて座っていた。
「どうした?ひどい顔色だぞ」
「大丈夫です・・」
「・・ならいいが・・」
クリス先輩に凭れかかって眠るなんて俺は何てことを、何てこと?いや先輩は何とも思ってないんだから気にする必要はないんじゃないか?しまったそれなら「んじゃお言葉に甘えて二度寝しまーす♫」とか何とか言ってくっつかせてもらえればよかった!!いややっぱり俺の心臓がもたないから無理だな!!
などと再びハイスピード一人漫才を繰り広げるのに忙しく、御幸は表情一つ繕うことも、目の前のクリスの表情に気付くことさえできなかった。
「嫌だったか?」
その言葉にはっと顔を上げる。どこか淋しそうな微苦笑がそこにあった。
「いえ、あの、嫌とか・・じゃ・・」
「・・そうか」
「本当に!」
まさか「ぶっちゃけラッキーでした」などと言えるはずもなく。
「右肩、だったんで・・それでちょっと気になっただけです」
そう言い訳を取り繕った。決して上手な言い訳とは言い難かったが、神妙な御幸の表情にクリスもその言葉を信じたようで。
「・・これくらいでどうこうなるわけないだろう。気にしすぎなんだ、お前は」
見慣れた微笑みが戻ってきて、御幸はようやくほっと息をついた。
その夜―おやすみ、と同室の後輩たちと声を掛け合い、暗闇と静寂が包み込む部屋。クリスは自分のベッドに横になり、スウェットのポケットから携帯電話を取り出した。画像フォルダを表示する。灯りの消えた部屋の中、ぼんやりと画面に浮かび上がる、その写真。
(なんだか珍しくて、つい撮ってしまった・・)
そこには、クリスの肩に凭れて眠る御幸の姿があった。わずかに開いた口、閉じた瞼を縁取る睫毛。普段は勝ち気に吊り上った眉も、穏やかな曲線を描いている。今にも寝息が聞こえてきそうだ。
しばらくじっと見つめていると、いつもとはあまりに違う無防備で無邪気な寝顔になぜか笑いがこみあげてきた。
(かぁっわいーな・・)
あの人を食ったような笑みと鋭い眼光で普段はわかりにくいが、こうして見ると顔立ちは存外子供っぽい。体格の問題もあったが、そういえば中学時代は小学生かと見紛うほどだった。なんだかおもしろいことに活用できそうだと、やたら愉快な気分になる。クスクスとひそやかに笑いながら、クリスは携帯電話を枕元に放った。
―その写真の存在を本人が知り、顔を赤くしたり青くしたり白くしたりして喚き散らす様子をからかわれるのは、まだずっと後の話。
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