当然と言えば当然だが、ピノクルは人を殴ることに慣れていなかった。殴るに限らず暴力全般。だからダウトの体には、殴打による青痣よりも、爪が擦れて出来た蚯蚓腫れのほうが多かった。
初めてピノクルがやって来た時、彼は能面のような顔で「ダウト」と一言目の前の男の名を呼び、次の瞬間呼ばれた男の左頬に衝撃が走った。慣れていないからか、本気を出していないのか、それとも単に力がないのか、不意打ちで殴られてもダウトは体を少し傾げただけだった。痛みも、想像していたほどではない。しかしダウトはピノクルの手首を掴み、最初で最後の抵抗をした。
「首から下にしろ」
それを聞いたピノクルは、漸く感情を思い出したように、泣きそうに顔を歪めて笑った。
今日もピノクルは飽きもせず、感情が昂ると律儀にダウトの部屋にやって来て、まるでクッションか何かを殴るように馬乗りになって腹やら肩やら腕やらを殴り続けていた。2日と空けることなく繰り返される行為に、ダウトの体から細かい傷が消えることはなかった。
雨のように降り続ける拳は、一打一打がさほど重くないとはいえ、痛くない訳ではない。一度、着ていた服が破られたことがあってから、上半身は裸でピノクルの暴力を受け入れていた。受けるダメージは増したが、ダウトは歯を食いしばり拳を握りしめ無言で耐えていた。
どれくらいそうしていただろうか、殴り疲れ、気分が静まったピノクルの手が止まり力なく垂れ下がる。ダウトは漸く体の緊張を解いて、上体を起こし、魂が抜けたように色のない頬を撫でる。これから触れるぞ、という合図だ。特に変わった様子がなければ、自分の太腿の上にへたり込んでいるピノクルを抱きしめて、さらさらと指通りの良い髪を撫でる。暫くそうしていると肩口から嗚咽が聞こえはじめ、ダウトはピノクルが泣き疲れて眠るまで、頭を撫で続けているのだった。
そんなやり取りを何日か繰り返していると、いつしかピノクルは、ダウトを殴りながらぽつぽつと独り言を零すようになった。やがて笑いながら泣きながら拳を振るうという器用な芸当を見せるようになった。しょっぱい雫は胸に落ち様、降ってきた拳に弾き潰される。壊れたテープのように繰り返される一連の出来事を、ダウトはどこか他人事のような目でただ見つめていた。
「フリーセルがね」
「今日はフリーセルが」
「ひどいんだよフリーセルったら」
彼の口から零れる言葉も、壊れたテープのようだった。フリーセル。フリーセル。フリーセル。あまりに何度も繰り返されるものだから、ふと「フリーセルとは何だったろうか」と時折訳が分からなくなる飽和状態に陥る。
「今日はね、カイトからメールが届いたんだって。次日本に来た時は、俺の家に泊めてやるよって。フリーセルがね、すごく嬉しそうに僕にそう言うんだ。見たこともないような笑顔だったよ。何年も傍にいるのに僕じゃあんな風に笑わせてあげられなかったんだ。それくらい素敵な笑顔だった」
一定のリズムで降ってくる拳は一点を殴り続け、とうに毒々しい紫色に鬱血したそこをさらに抉る。
「聞いてる?」
独白だと思って聞き流していたのだが、どうやらさっきはそうではなかったらしい。「…聞いている」とダウトは低く返した。
「ぐっ!」
ピノクルはダウトの鎖骨に拳を振り降ろした。骨を殴られるのはかなり堪えるな、と、痛みで圧迫された頭で思った。
「フリーセルは僕以外にも友達がいて、大切なものがあって、きっと一人で歩く力を持ってるんだ。だってフリーセルだもん。きっとやろうと思えば何でもできるんだ。でもね、僕がついてなきゃ。フリーセルは少しマイペースすぎるところがあるから。僕は好きだけどね」
笑いながら、泣きながら、壊れた蛇口のように喋り続ける。ピノクルの言葉は誰が聞いても自分に言い聞かせているものだとわかったが、その事実を突きつけるほどダウトは無神経でも冷酷でもなかった。
やがてピノクルの手が止まり、糸が切れた傀儡のように頭を垂れて動かなくなる。いつものようにダウトは上体を起こし、はらはらと涙を流し続けるピノクルを抱きしめた。
不毛だ。
ピノクルの頭を撫でながら思う。
何がどう不毛なのかは気付いてしまうと二度とこの痛みに耐えられなくなりそうな予感がしたから、敢えて目を背けた。
このままこんなことを続けていてもピノクルを救うという大義は為せないのだろう。しかしそれ以上に、この行為を不毛だと思う理由が、自分にはあるような気がしたけれど、とりあえず今はそれを自分の指先と一緒にピノクルの髪の中に埋めた。
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