いさき
2020-10-10 10:23:27
2219文字
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「Hiro」という少年の話 6

ベルとスコ



古くなったアパートの錆びた階段を上る。一歩体重をかけるごとにギッギッと音が鳴る階段をゆっくりと上がって、並んだ扉の一つをノックした。
「ただいま」
重い扉を開けると奥からベルモットが出てきた。室内に広がるワインの香りを連れて寄ってくる。
「今日は何をして遊んできたのかしら?」
後ろ手に扉を閉めて、足を叩くように靴を脱いだ。
……家事代行と、万引き捕まえたくらい」
ベルモットは、へぇ、と目を細める。何か裏があるのを探るように見られても、実際それ以上のことはないし、俺はその視線に気付かないフリをした。
「ベルモットが世界中で誰かになりすまして持ってる金ばかり使うのは嫌だから」
お金に不自由はしてない。それは全部、ベルモットのおかげ。わかっている。だからこそ、彼女に依存する生活は嫌だと感じていた。そうでなくとも、今俺の見た目は高校生、いくらベルモットが若く見えると言っても二人で並べば彼女は俺の保護者に見えるだろう。
俺にとって、組織がなくなって、ゼロを、警察を裏切ってから、まだ一年も経ってないのに。何よりもベルモットの手を選んでしまうほど特別だと思っていたのに。
空白の記憶と、変化。
変わっていないはずなのに、変わっていないのは俺の中身だけ。動いていたはずの時間は俺の中から綺麗さっぱりなくなって、俺は彼女の隣に並んでも以前のような関係ではない。彼女は姿形が変わらない、別の人間になっていた。
俺だけが、取り残されている気がしてならない。

彼女に生活を依存したくなかったから、日雇いのバイトを始めた。記憶をなくす前、本当の逃亡一年目も行っていた何でも屋のようなことだ。高校生のような見た目が幸いしてか、以前のように怪しまれることも少ない。大した額にはならないが基本は家事代行で、いつもと変わらないことをするだけだった。
住処に帰るとベルモットにも食事を用意しなければならないので、またキッチンに立つ。彼女は目立つ見た目をしているせいかあまり外に出たがらない。変装も、必要最低限しかしなくなった。
何もない、平和な日々。これを平和と呼んでもいいのかわからないけれど、きっと以前よりはずっと緩やかな時間が流れている。

カチャリ。カトラリーが皿に当たる音だけが響く。
最近、ベルモットが俺の行動に規制を掛けようとしてくる。まるで俺の本当の保護者のようだ。
沈黙が続いていた。重い空気。それならばいっそもっと重くなっても変わらないだろうと、俺はゆっくり口を開いた。
……俺から聞きたいことがある」
ベルモットが視線をこちらに向けて応える。俺はそのまま続けた。
「俺が目を覚ました時、あんたは“俺が三十より長く生きている”と言った。確かにそれは間違ってはいない。自分の生年月日から考えると俺は今四十年以上生きていることになる」
そうね、と彼女は小さく肯定する。伝えていなかっただけよ、なんて言うつもりなんだろうか。俺は目を伏せて続けた。
「あなたの見た目が変わっていないことも驚きだが、俺の記憶がない空白の十年には一体何があったのか、教えてもらいたい」
十年。それは決して短いとは言えない。それほどの時間に何も起こっていないはずがない。しかしベルモットは平然と答える。
……何も? ただ、私と貴方が追手から逃れて暮らしていただけ」
こちらを見ずに答える彼女に、俺は震える声で続ける。
「その、指輪は」
びくり、とベルモットがほんの一瞬動きを止めた。尋ねる前に、その一瞬の変化が答えの全てではないかと、そう、思った。
……あなたは、俺の記憶にある限り、そんな指輪をつけたことがない。あなたが自分で選びそうにないシンプルなデザインだ。その上、あなたはそれを左手の薬指に嵌めている。そんな関係の相手が、いたようには思えない」
声が震える。ゴクリと唾を飲み込んだ。冷や汗が背筋を滑る。
「その指輪を、贈ったのは」
—————俺なのか?
ほとんど確信している問いだった。ただ、今の自分からはなかなか想像に易くないそのことを、肯定されたいわけでも否定されたいわけでもなかったが、聞かずにはいられなかった。
自分から聞いておいて答えを聞くのが怖いだなんて、馬鹿げたことがあるだろうか。膝の上で握りしめた拳が震えていた。
「Sh——,」
顔を上げると、ベルモットは真っ赤な唇を持ち上げて、人差し指をそっと当てた。
「A secret makes a woman woman....」
ベルモットは肩口の髪を後ろへさっと流して、組織メンバーとして活動していた頃のような怪しげな笑みを浮かべた。
「女の秘密を暴こうとする男はモテないわよ、スコッチ」
長い睫毛を振ってウインクまで飛ばされる。彼女はそのままゆっくり左手の指輪に視線を移すと、光にかざされた指輪がキラリと光った。
「安心して頂戴、これはスコッチとは別の男から押し付けられた呪いみたいな物よ」
呪い、なんて言いながら、ベルモットは今まで見たことのない優しい顔をしていた。
胸の奥が痛んだ。指輪の送り主が自分ではなかった安堵と失望、そして彼女がそんな表情で思い出す相手に怒りのような嫉妬を抱いた。
十年。俺はこの十年を失ったことで彼女との時間を失い、同時にこれまであった彼女への気持ちの一部も失ってしまった。変化の中に取り残されて、モヤモヤした気持ちが溢れ出てしまいそうだった。