いさき
2020-07-24 19:55:49
2438文字
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「Hiro」という少年の話 4

スコベルです

「Hiro」という少年の話 4

コツコツと革靴がコンクリートを叩く軽快な音がする。目に見える物すべてをコンクリートとアスファルトで囲んだこの街で、自然の緑を目にすることは難しい。人工物ばかりの世界でも息苦しさを感じないのは、街の便利さに慣れてしまったせいだろう。
マネキンの並ぶショーウィンドウのガラスはひとつの曇りもなく、はっきりと俺の姿を写し出す。段々目立つようになった白髪と増えてきた皺。年はもう四十にもなる。身体が重く感じるようになり、寝ても疲れが取れない。毎日体力が落ちたと感じる。動くはずだった脚は言うことを聞かず、時には痛みさえ伴う。
将来を考えることが増えた。いろいろな場所を転々としてきたが、そろそろどこかで羽を休めてもいいんじゃないか、と。落ち着いてしまいたい、と思うようになった。
探偵兼何でも屋さんで月に数件の依頼を受けて、コツコツと貯めていたお金のほとんど使ってしまった。このあいだ通りすがりに見掛けて、迷った末に購入したこれにポケットの中でそっと触れる。君に話したらなんて言うのかな。まったく予想出来ないけれど、それでもいいかと思ったんだ。

いつも通り一緒に食事をして、いつも通りに食後のワインを楽しむ彼女の隣に並んで座る。俺も少し貰って、ぐいとグラスを傾けた。緊張で落ち着いてなんていられなかったからちょっと弱気になって、酒の力を借りようなんて思ってしまった。ふわりと程良い熱が回る。
……ねえ、クリス?」
彼女は黙って瓶をこちらに向けてくれるので、「おかわりが欲しいんじゃないんだ」と笑ってしまう。
「もう、こうやって君と過ごして、十年になるよ」
……そうだったかしら?」
「うん、……俺も、随分老けちゃった」
クリスがグラスを傾ける。そんな彼女を見つめると「なあに?」なんて笑うのが綺麗で、そっと頬に触れる。
……君は、ベルモットの時から全然変わらないね」
添えた手に擦り寄ってくる彼女の、伏せる睫毛が揺れる。
「そうかしら?」
「うん、ずっと綺麗だ」
肌に触れても、自分のような肌の衰えは感じない。出会った頃から、ずっと変わらない。
「あまりに変わらないものだから、こんなに美しい君はもしかしたら人ではないのかもしれないと思ったこともある」
「それは失礼だわ」
頬を膨らませてぷいと拗ねる姿でさえも、きっと彼女の進まない時間の現れなのかもしれない。
……俺の方が、先に死ぬんだと思う」
俯く俺に、彼女は何も言わなかった。緊張でいつもより大きな鼓動が煩く頭に響く。
「それでも、俺の残りの時間を君と過ごせたらいいなって思うんだ」
震える声でそう告げる俺を彼女はどう思うだろうか。怖かった。とても。そんな俺を知ってか知らずか、彼女はいつものように人を馬鹿にするように鼻で笑った。
「人のことを化け物呼ばわりして、私より先に死ぬって言ってる男と一緒に生きろって?」
……そうだな、我儘なんだ、俺」
悪意のある言い回しだな、とか、でもそんなところが君の優しさなんだ、とか、なんだかそれだけで満たされてしまう。こんな彼女だから、隣で生きていきたいと思ったんだ。
ごそり、とポケットから小さな箱を取り出した。それを彼女の目の前でゆっくり開けると、俺の我儘な想いだけを詰めた指輪がキラリと光った。
「受け取って欲しい。受け入れてくれなくてもいいから」
彼女は喜ぶでも怒るでもなく、不快を滲ませるのでもなく、ただまっすぐに俺を見て、また馬鹿にするように笑った。
「私があなたのことを嫌いだなんて、言ったことある?」
それは彼女がなんでもない時に見せる、本当の彼女の笑顔なんだと思う。そんな笑顔に見惚れていたら、彼女にケースごと指輪を掠め取った両腕を広げて抱きつかれ、思わず身体が倒れそうになるのを必死に堪えた。恐る恐る彼女の背中に腕を回すと、彼女の腕により力強く抱きしめられた。
……初めて会った時言ったじゃないか」
「覚えてないわ、そんな昔のこと」
彼女の前髪が俺の顔に当たるほど近くにある。
……あなたって本当に我儘なのね」
こんなに近付いたのは初めてで、目の前に広がる翠の瞳に吸い込まれてしまうのではないかと本気で思った。
「あなたの瞳と、同じ色じゃない?」
彼女が指輪を眺めながら呟いた。だから選んだんだ、なんて恥ずかしくて言えなかったが、彼女が満足そうに笑うので、本当にそれだけで幸せだった。

唇の感触を想像したことがないわけじゃなかった。初めて触れる彼女の唇はそれ以上に魅力的で、何度も何度も貪った。触れる肌は温かく、しかしその艶めかしさに、彼女に流れる時間は他とは違うものだと感じた。
同じベッドで横になると段々落ち着いてきて、なんだかまだ夢の中にいるようで怖かった。色の抜けた金髪に触れると、彼女がこちらに目線を寄せた。
……名前を、聞いてもいいかな?」
彼女は寝転んだまま頬杖をついてこちらを覗き込む。
「ベルモットもクリス・ヴィンヤードも、君の本当の名前ではないんだろうと思っていて、さ、」
「人に聞く前にまずは自分から、なんて思わないのかしら?」
「ああ、……俺はヒロミツ。諸伏景光」
彼女は「知ってるわ」なんてクスクス笑う。下を向いて垂れた髪を耳に掛けると、彼女は俺に小さな声で囁いた。
「私の名前は、」

*

真夜中、燃えるような熱さで目が覚めた。身体中が汗だくで、骨が溶けるように熱かった。意識が遠のきそうなほどの痛みが全身に広がり、息をするのも苦しい。心臓が酷く傷んで、胸を握りしめて踠き、のたうちまわった。全身から湯気のように蒸気が出て、遂に呼吸すら難しくなり、空気を求めて開いた喉から掠れて音にならない声で彼女の名を呼んだ。
……遂に来てしまったようね」
彼女は俺の隣で優しく囁いた。
「大丈夫よ、あなたのことは私が守るわ」
遠のく意識の中で、彼女の声だけが、ゆっくりと小さくなっていった。