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いさき
2020-07-23 15:52:35
2319文字
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「Hiro」という少年の話 3
たぶんスコベル
「Hiro」という少年の話3
とあるスナップ写真がネットにアップされ、多くのメディアで話題となった。人々で賑わう街並みを写したその写真は、ネット上で別の話題を生んでいた。
写真の端に小さく写り込んだ一組のカップル。スラリとした黒髪の男性とその隣で買い物を楽しむ綺麗なブロンドを靡かせる女性。彼女が、アメリカで大女優の二世として華々しくデビューするも、五年前突然休業して以降メディア露出の一切ない女優、クリス・ヴィンヤードに似ている、と。
***
煉瓦造りの街を抜けて、小道をいくつか進んだら、白い壁に掛けられたプランターに色とりどりの花が咲く、まるで絵本に出てくるような小さなアパートに辿り着く。外観こそ少し寂れているものの、中はホテルのような最新設備で、難点は買い物に行く時に遠出しなければいけないことくらいだが、どうせ買い出しはいつも俺なので問題はない。
トン、トントンとドアをノックしてから鍵を挿し込む。もう夕方になると言うのに、中ではソファに腰掛けた彼女がバスローブ一枚でワイングラスを揺らしていた。
「クリス」
名前を呼ぶと、興味なさげな彼女の目線がゆっくりをこちらを写す。
「あ、作り置きしといたご飯食べてないじゃないか」
「ちょっと気分が悪くて」
「ワインばかり飲んでるからじゃないのか?」
下げていた紙袋から買ってきた食材を出しながら、一言だけ諫める。あんまり何度も指摘すると不機嫌になるので、注意するのは大体三日に一度くらい。
「私はこれが楽しみなの。放っておいて」
なんだけど、今日はちょっと御機嫌斜めみたいだ。
溜め息を吐いてから彼女の隣に座る。近くて、でも触れ合わない距離で。ゆっくり傾く夕日が窓から差し込む中、街の雑踏を遠くに聞きながら、静かに一日が終わって行くのを見守る。
簡単に作ったパスタと和えただけのサラダも、演技派の元女優の手に掛かれば高級レストランのフレンチにも劣らない。ステンレスの安いカトラリーも、無駄のない動きで美しい女性に使われて喜んでいることだろう。自分の作った料理が口に運ばれていく様子を見て、なんだか胸がいっぱいになる。
「じろじろ見ないでくれる? 視線が鬱陶しいわ」
クリスがじろりと俺を睨んだ。
「悪い、綺麗だなあと思って」
はは、と笑うもクリスは無視してフォークを動かす。何年経っても対応は変わらない。
つい癖でサラダに混ぜたセロリを、クリスは黙って端に寄せている。また残すつもりらしい。誰かさんとは逆だな、なんてつい口元を緩めてしまうけれど、懐かしさに思い出すその場所にはもう戻れない。自分から捨てたのだ、後悔はない。けれどたまに夢に見ることがあって、つらいと感じることもある。
クリスが赤く熟れたミニトマトを頬張り、咀嚼し、嚥下する動作さえ芸術作品のようで見惚れてしまう。俺の視線に嫌な顔をして、クリスは「そういえば」とフォークを置いた。
「あなた、また探偵の真似事なんてしてるの? 昼間、猫を追いかけているのを見たわ」
「ああ、趣味みたいなもんだよ」
「お金ならいくらでもあるんだから」
「気晴らしだよ、それくらいいいだろ?」
クリスはわざとらしく大きな溜め息を吐いて、皿をつつく。
「やると言ったら聞かないんでしょ」
クリスは嫌そうだが、オレだっていつまでもクリスのお金だけで生活するのはどうかと思うんだ。多分伝わらないから言葉にはしないけど。それに、体を動かすのは好きだ。ほとんど何でも屋さんみたいなもんだけど、わりと気に入っている。
食事が終わると、クリスはまたグラスを傾ける。今日は出掛けなかったみたいだけど、好きな時間に買い物をして、食事をして、酒を飲んで、たまには少し遠くまで足を向けてみたり。五年前まで騙し合い殺し合う生活をしていたなんて信じられないほど、平和な時間を過ごしている。
夜になるとアルコールに溺れるようにソファで眠るクリスを、彼女の寝室まで運ぶ。起こさないように、だらりと力の入らない身体をそっと抱きかかえる。
組織にいる時、ベルモットが近くに置く唯一の存在として、周りから嫉妬と侮辱を受けていた。俺が身体を使ってベルモットに近付いただとか、毎晩満足させているから手放せないだとか、そんな下世話な噂ばかりだった。特に気にしてはいなかったが、噂するほど気になっているのならそいつらに教えてやりたいくらいだった。俺は彼女に指一本触れる許可はもらっていない、と。最近になって、やっとこうやってベッドまで連れて行っても文句言われなくなったくらいだ。当時はこんなことをしたらすぐに風穴が開いただろう。
ゆっくり彼女をベッドへと寝かせると、彼女は眉を寄せて小さく唸った。透き通る髪を優しく掻き上げると、ハラリと落ちる様が美しい。
体重を掛けると、ギシリとベッドが軋む。顔を近づけて至近距離で見るクリスの睫毛は長く、肌も透明感がある。いくらメイクが上手くてもこんなに瑞々しいものだろうか。赤い唇はぷっくりとしていて、そっと指先で触れると弾力がある。
ガチャリと鳩尾あたりに固い感触がした。
「それ以上触れると、せっかく塞がった傷をもう一度右胸に作ることになるわよ」
肌の上を滑る銃口が俺の胸に押し当てられたので、慌てて両手を上げて身を引いた。
「いつから起きてたんだ?」
「寝てないわ」
それが本当なら、ベッドまで運んだことは許してもらえているのか、なんて考えるけど口にはしない。許される距離と許されない距離がある。それだけだ。
「悪かったな、おやすみ」
そう伝えて部屋から出るも、彼女からの返事はなかった。
その晩はソファに身を沈めて眠った。
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