灰色から濃紺へと徐々に染まっていく静謐な街並みは、その名前の通り、砂糖をまぶしたかのように美しかった。久しぶりに暖かいという感覚を全身で味わいながら、オデットはヒヤリと冷たい窓ガラスに手を当てる。
「……なんだか、やっと一息ついた気分です」
女性陣のために確保した四人部屋は、二階という立地もあって眺めもよく、広々としている。しかし、今はそこにいるのはオデットだけだ。
ヤルマルは所用で出かけており、サルヒはルーシャンの様子を見守るために男部屋に残っている。ゲルダは足りない毛布をもらうために、宿の主人に案内されて階下に行ってしまった。
オデットの付き添いをしていたノエも、今はこの場にいない。きっと、今頃オデットがおとなしく寝ていると思っているのだろう。
「でも、せっかく新しい街に来たのに寝てばかりはつまらないですから」
ノエの言いつけを破っていることに後ろめたさはあるものの、少しばかりの背徳感はオデットの冒険心をくすぐってもいた。
オデットは手に持っていた空の薬瓶を指先で弄びつつ、冷えた窓辺の曇りを指先で払う。冷たい水滴が垂れ、代わりに少しだけ外の景色がくっきりと浮かび上がった。
門前の押し問答を終えたノエたちは、チョコボ車を貸してくれた行商人に別れを告げ、自分たちのチョコボを専門のチョコボ貸し屋に預けると宿を探し始めた。
幸い、大きな街であるために旅人向けの宿場も多く、一行は賑やかな大通りから少し外れた宿の部屋を首尾よく確保できた。
宿について早々、ノエたちはエーテルの枯渇に効く錬金薬を求めて、行商人が教えてくれた錬金術師の元に向かおうとした。だが、そこに居合わせた客が「あの人なら昨日から出かけてて留守だよ」と教えたことにより、彼らは出鼻を挫かれることになった。
だが、不運もあれば幸運もある。宿の主人が、自分が保管していた薬を譲ると言ってくれたおかげで、一行は当面の危機を乗り越えられたのだった。
しかし、いくら宿の主人が「かまわない」と言ったところで、ただで薬をもらうのは気が引ける。そこで、オデットとルーシャンが提供された薬を飲み、部屋で休息を取っている間に、ノエたちは宿の雑用を引き受けると申し出た。結果、彼らは主人に頼まれて現在買い出しに出掛けている。
「明日は、わたしたちの分の買い出しもしないといけませんし、使った錬金薬を買い直す必要もありますよね」
早速明日の予定を考えて、オデットは胸を弾ませる。
どんな小さな村であろうと、新しい土地に来ると、ここでは何が売られ、どんな人がいるのだろうと心が浮き足立つ。それもまた、冒険者業の醍醐味なのかもしれない。ヤルマルが「旅暮らしも悪くない」と以前話していたのも分かるような気がする。
もっとも、本当ならばオデットはベッドの中で体を休めていなければならない身だ。
しかし、退屈に負けて彼女は数分前からベッドから抜け出し、部屋の様子を確認したり、窓の向こうの景色を眺めていたりと落ち着きなく過ごしていた。
移動の最中もずっと横になっていたので、肉体的な疲労はほぼない。薬のおかげもあり、活力がみなぎるというほどではないものの、少しずつ体に力が入るようにもなっている。そうなると、今度は元気が有り余ってしまう。
「そうです。散らかったままですし、兄さんたちが戻ってくる前に、荷物の片付けを済ませておきましょうっ」
ヤルマルとサルヒが帰ってきたら驚かせようと、オデットが意気揚々と入り口近くに置いていた荷物に手をかけた時だった。
「オデットー。布団もらってきたよー……って、何してるの?」
扉を開く音、毛布を抱えて姿を見せたのはゲルダだ。そして彼女の視線の先には、荷物の紐をほどき始めたオデットが、固まったまま視線を交わしている。
「……オデット、何してるの?」
「え、と……少し元気になったから、荷物の整理を……」
「たしか、ノエは寝ているようにって言ってたよね」
「うっ」
出会った頃は距離感を掴みかねていたが、共に過ごした日々が十日も過ぎれば、少なからず話をする機会もある。
まして、オデットにとってはここまで長い間共にいた同年代はほぼ初めてと言ってもいい。先だっての手当ての際にそばにいたこたもあって、オデットもこの新しい同行者の考えなどが分かるようになっていた。
そして、今の表情から察するに、
「ノエは寝てないといけないって言ってたのに、どうして起きてるの?」
純粋なる疑問の形をしているが、言葉の奥にある心は不安に揺れている。その気持ちの理由がわからないほど、オデットは朴念仁ではない。
「まだ顔も白いし、手だってこんなに冷えてる。それなのに、起きていていいの?」
「……あまり、良くないと思います」
「じゃあ、まずは体を温めようよ」
ごもっともな論法にぐいぐい押されて、オデットは自分の寝床と決めた寝台に腰を下ろす。
ゲルダが持ってきた毛布を押し付けられ、オデットは毛布を抱えたまま、目を白黒とさせていた。
「でも、起きていても辛くはありませんし、ずっと寝ていても退屈ですから……」
「オデットがまた倒れるの見るの、私はだめだって思う。皆が悲しそうな顔になるし、オデットも苦しそうだったから」
ゲルダはオデットから布団を受け取ると、ばさりと広げてオデットを包み始める。大柄なエレゼン族用の布団ではハーフエレゼンのオデットに大きすぎて、少女は布団から顔だけをひょこりと出すような形となった。
「あのときはすみません。ゲルダさんには、たくさん心配させてしまいましたよね……」
ゲルダとの同行の経緯はどうあれ、自分より同年代か年下の子供が目の前で何度も倒れられたら、普通なら心配にもなるだろう。自然な流れとしてオデットがそう言うと、
「私、心配をしていたの?」
ゲルダは、大きなルビーのような瞳をパチクリとさせた。まるで、自分の行動に『心配』という表現が使われるのが、完全に予想外であったかのように。
「え、と……わたしはそう思ったのですけれど……。違ってたらすみません」
思い上がりだっただろうかと、オデットがすかさず謝ると、
「ううん。違うとか、違わないとか、そういうのじゃなくて」
ゲルダは、オデットの隣にちょこんと腰を下ろす。そうしていると、彼女はオデットと対して変わらない年頃の普通の娘に見える。
異端者から逃げてきたばかりの頃は、少し汚れた装いをしていたが、見るに見かねたヤルマルが買い与えた防寒具のおかげで、今のゲルダは厚手のワンピースを着ている。この娘が、かつて異端者のグループに加わっていたなどと、誰が気づくだろうか。
(普通の女の子……のはずなんですけど)
見た目の点は別として、オデットはゲルダからわずかな違和感を覚えていた。ちょうど今言葉を交わしている間にも、その違和感が少しずつ膨らんでいる。
「心配しているってどういう状態なのか、私にはよくわからなかったから」
「どういう状態、ですか」
「うん。オデットは私が心配しているだろうからって言ったけど、どうしてそう思ったの?」
「え……と、それは……」
ゲルダの発言の意図は、オデットにも直ぐつかめず、二人の間に微妙な間がうまれる。
(ゲルダさんはドラゴン族のお母さんに育ててもらったと言っていました。竜に育てられたから、人間の気持ちの表し方がわからないのでしょうか)
オデットとて、記憶を失った直後にノエに出会えなかったら、己の情動に名前をつける方法を身につけられなかったかもしれない。何が楽しいか、悲しいか、というのは周りの反応と言葉から学習することだとは、オデットもぼんやりと理解していた。
そのうえ、ゲルダのこれまでの発言から鑑みるに、彼女は人間と交流した機会自体が少なかったようだ。
しかも、その相手が母竜を嫌う人間か、異端者のようにゲルダを利用しようと近づいた者か、などという二極化された相手ともなれば、対人関係は記憶を失った直後のオデットよりも狭小だ。
「そうですね……。わたしが倒れるのは嫌だなって思う気持ちが、心配なのだと思いますよ」
オデットは自分を包む毛布の片側を開き、隣に座るゲルダを巻き込むように抱き寄せる。
オデットと比べるとヒヤリとした肌が、彼女の二の腕に触れる。
「わたしも、兄さんや他の皆さんが倒れたら、とても嫌です。悲しい気持ちになります。早く元気になってほしいって、何でもしたくなります。それを『心配』だと思うのです」
「じゃあ、私のこれは『心配』?」
ゲルダの問いかけは、まるで子供が知らない単語について訊ねているかのようだった。
オデットは、今度こそ確信を込めて頷き返す。
ゲルダは、オデットの言葉を形として受け取ったかのように、しばし自分の手のひらに視線を落としていた。
「ゲルダさんのお母さんは、そういうお話はされなかったのですか?」
「そういうって?」
「その……たとえば、ゲルダさんが今何を感じているのかを言葉にする、とか」
ヒトは、周りの言葉を聞いて育つ。ノエのいうように竜が知性のある存在であり、人間と会話ができるのなら、娘に対してそれぐらいの言葉は投げかけるものではないか。
オデットはヒトの物差しでそのように考えてみたが、ゲルダは「うーん」と首を捻るばかりだった。
「小さいときからずっと、そうだったのですか?」
「小さいときから? 私、物心ついたときからずっとこの姿のままだよ」
「……え?」
再びの沈黙。しかし、今回の沈黙は答えに迷ったからではなく、言われた言葉が予想外だったからだ。
「でも、物心ついたときから、その……お母さんの竜と一緒にって話してましたよね」
周りに聞こえたらまずかろうと、オデットは声を潜める。それをどう勘違いしたのか、ゲルダも声を小さくして、
「うん。気がついたら、私はとても寒い場所に転がっていて、そこにお母さんがやってきたの。お母さんは、私を寒くないところに運んでくれた。食べ物もくれた。話し方も教えてくれた。それから、お母さんとずっと一緒に過ごしてたの」
「じゃあ、その前は……?」
どうやら、自分の想像していたものと、ゲルダが説明したつもりになっているものは違うらしい。薄々察しながら、オデットはおずおずと問う。
「その前? お母さんと出会う前のことは……よく分からない」
「覚えてない、ということですか」
「そうなるのかな? 私の最初の思い出は、お母さんと出会ったところからだから」
呆気にとられて、オデットは思わず口も目も開いたままゲルダをまじまじと見つめる。
(まさか、ゲルダさんが本当にわたしと同じような境遇だったなんて)
オデットもノエも、ゲルダが小さい頃に何らかの不幸に巻き込まれたところを、たまたま竜に助けられたと思い込んでいた。
だが、ゲルダの「物心ついたころ」という言葉は違う時期を指していた。何かの事故に巻き込まれたという想像はあっているのだろうが、それはゲルダが幼少期に起きたことではない。彼女は、事故の際に本来持っているべき多くのもの――ヒトとして生きてきた頃の思い出や知識を落としてきたらしい。
ちょうど、オデットがそうだったように。いや、感情の機微すらも忘却したとなると、それよりも酷いかもしれない。
「……驚きました。まさか、ゲルダさんが本当にわたしと同じだったなんて」
「同じなの?」
「わたしも、昔のことをよく覚えていないんです。わたしの中には今、わたしが思い出せているところと思い出せなくて曖昧なところが入り混じっているんです」
「じゃあ、オデットを知っている人を探しているってノエが話していたのは、そのことだったんだ」
ノエは行きずりの同行者であるゲルダに対して、オデットの知り合いを探しているという説明だけをしていた。
無理に隠すほどの内容でもなかろうと、オデットは自分の境遇を簡単に説明する。
「今は思い出せている部分もあるんですが、もっと前は何も分からないままでした。目を覚ましてすぐに感じたのは、何か怖いことがあったから逃げなくちゃ……って、ただそれだけの気持ちでした」
運よくノエに出会い、オデットは自分の恐怖を宥め、それ以外の感情を知る機会に恵まれた。
安心と不安、喜びと悲しみ、安らぎと苛立ち。決して楽しい気持ちばかりではなかったが、その一つ一つの情動を受け止めて自分の中で整理ができたのは、ひとえにノエや仲間たちが、オデットが穏やかに暮らせるように尽力してくれたおかげでもある。
「兄さんに助けられたからこそ、わたしの今があります。だから、わたしは兄さんのためなら何でもしたいって、そう思うんです。……それは、きっと、ゲルダさんがお母さんのために何かしたいって思うことと一緒だったのかなって、前々からそう思っていました」
その選択が結果的に良いか悪いかは、一度棚に上げてしまおう。
オデットはそう思っていたが、ゲルダは細い眉を下げて、ゆっくりと首を横に振る。
「でも、私が街から連れてきた人にしたことは、皆を悲しい気持ちにさせることでもあった。私は、誰かが悲しくなったり怒ったりするのは嫌なの。だから、あれは間違っていたんだよ」
「……わたしも、ゲルダさんが考えていたことの全部が正しいとまでは、言えません」
ですが、とオデットは続ける。
「大事な人が虐められないように何かしたいと願い、行動することまでは、間違いにしたくありません」
毛布に包まれた二人分の影が、最初よりも少しずつ縮まっていく。
「……お母さんは、間違いは正すべきだ、償いをするべきだっていつも言っていたよ。償いっていうのは、間違った人のために、その人が喜ぶような何かをするってことでしょ。私は、いっぱいの人を悲しませたのに、あの人たちを喜ばせる方法が分からない。やり方も……全然」
「お母さんは、ゲルダさんに責任を持つことが大事であると教えたかったのだと思いますよ」
辿々しさが目立つのに、性急さも感じさせるゲルダの言葉をオデットはやんわりと受け止める。
「ひとつひとつ、探していくしかないのだと思います。見つからなかったとしても、最善だと思う方法を」
「見つからなくても? 探しているだけでいいの?」
「探そうと頑張ることにも、わたしは意味があると思いますよ」
今のノエがまさにそうなのだろうと、オデットは心の中で付け足す。
グレンの命を止める最大のきっかけになった自分が、これから何をすべきなのか――彼は今も、どこかに答えを求めて手を伸ばし続けている。
たとえその先に何もなかったとしても、暗闇の中を手探りで歩くノエの旅路を無意味だとオデットは言いたくなかった。
「……私、そんな話初めて聞いた」
「お母さまは、こういう話はしなかったのですか?」
「あんまり。お母さんは、私に生きるために気をつけることとか、注意するべき魔物は何かとか、そういう話をしていたから」
どうやら、母竜はゲルダに実利的な生存手段を叩き込んできたらしい。それもまた、雪原で生きるには必要だったのだろうが、感情の名前すらわからないゲルダには、他にももっと必要な学ぶべきことがあるはずだ。
「あれ。でも、この前はわたしたちに、異端者に追われているって助けを求めてましたよね。あれは、迫真の演技に見えたのですが」
「あれは、前にリーダーが教えてくれたの。私は子供だから、そうやって振る舞えば相手が油断するし、好感を持ってもらいやすいからって。異端者はどういう風に思われているかとか、どんな風に行動したら相手が私に親切にしてくれるかっていうやり方は、リーダーが教えてくれたんだよ」
そして、その異端者のリーダーとやらが、竜を慕う気持ちだけを抱いていた娘に、竜の血を飲ませれば竜とヒトが和解するかもしれないと吹き込んだのだ。
ヒトが竜との間にどれほど長く戦ってきたのか、子供のように真っ白なゲルダは知らずとも彼らなら知っていたはずだ。
だが、彼らは竜の血が欲しいがために、ゲルダと母竜の繋がりを利用した。
知識だけは与えられていたとしても、誰かを異端者にするという事実を実感として知らなかったゲルダは、突然当事者に立たされたのだ。
そのうえで、自分の行動が間違いだったと己自身はそのように結論づけた。誰かの嘆きを聞いて、理屈は理解できずとも感情で間違っていると判断して、彼女は行動した。
その一点だけでも、ゲルダは思考を他者に委ねるような無責任な人物でないことが分かる。
(誰かが悲しむのが嫌だって思える人を、こんな気持ちにさせるなんて)
ノエたちなら、また違う意見を抱いていたかもしれない。だが、ここにはオデットしかいない。
そして、今のオデットは、自分を心配してくれた『友人』を騙した異端者へ怒りを抱いていた。年若いがゆえの正義感に満ちた気持ちではあるのかもしれない。けれども、それが若さとして一蹴するのも躊躇われる輝きも持っていた。
以前はゲルダが異端者の側にいたと聞いて怒りを覚えていたところもあった。だが、既に自分の過ちを振り返り、それに対して向き合おうとしている者に追い打ちを掛けられるほどオデットは非情にはなれなかった。
オデットの思考とはよそに、ゲルダは自分の頬を両手で挟み、
「ねえ、オデット。私って、変なのかな?」
「変……ですか?」
「うん。私がお母さん以外の人で一番長くお話ししたのは、リーダーなんだけど。その人、私の態度が『変わってる』って言ったから」
だから、彼女はリーダーとやらが言う『相手が油断する天真爛漫な少女』の振る舞いを意識することにした。実際、そのように意識すると、これまでよりも言葉を交わす相手が困惑する回数が減ったとゲルダは言う。
「コーディも、リーダーが教えてくれた話し方の方が安心できたみたいだった。でも、ノエたちは異端者の活動とは関係ない人だから、リーダーの教えてくれたやり方は要らないかなって思ったんだけど」
ゲルダは頬を揉む手を止めて、オデットをじーっと見つめる。
「オデットが話しにくいっていうなら、振る舞いを変えた方がいいのかなって。だって、えーっと」
小首を傾げて数秒。あ、と声をあげて、
「そう、心配。心配するなら、やめようかなって」
「別に心配になってはいませんよ。それがゲルダさんにとって自然な振る舞いなら、無理に変える方が心配になってしまいます」
オデットとしては、それは偽るまでもない本心だった。何気ない発言のつもりだったが、ゲルダはふと目元を下げて、
「……なんだろう。それ聞いたら、何だか体が暖かくなってきた気がする。毛布の中にいるからかな」
「ゲルダさん。それはきっと違います」
オデットよりも年上に見えるのに、どこか幼さの残るその手を取り、オデットは言う。
「それは、心が嬉しいからだと思いますよ」
口角を持ち上げ、少しばかり目を細めるゲルダの表情――初めて目にした、自然に浮かんだ笑顔を目にして、オデットは今度こそ友愛の念を抱き、ゲルダの手をぎゅっと握った。
***
毛布に身を寄せ合い、いい機会だからとオデットはこれまで自分が見聞きしてきたことをゲルダに語った。かつて、自分がヤルマルやノエにそうしてもらったように、自分が語れる側に回ったのは、オデットにとって何やら不思議なような、誇らしいような妙な気分だった。
グリダニアでいっとき行動を共にしていたモーグリ族の話が終わりかけたころ。タイミングよく、こんこんとノックの音が響く。
「はーい」
オデットが呼びかけると、扉が開きサルヒが顔を出していた。
「オデット、具合はどう」
「だいぶん落ち着きました。ふらふらする感じも無いですし、頭痛もおさまって、寝ているのがちょっと……退屈なぐらいで……」
言葉が尻すぼみになったのは、ノエからは「寝ているように」と言われたのに、今の自分はどこからどう見てもおしゃべりに真っ最中にしか見えないからだ。
ノエの言いつけを破っている気まずさがオデットは小さくなっていたが、サルヒは意に介した様子もなく、
「オデット。下に降りられそうなら、階下に降りてみる?」
「えっ、いいんですか」
「宿の人が、オデットと旦那様のために特別に軽食を用意してくれた。オデットも旦那様も、昨日今日とほとんど食事をとれていない。いきなり夕飯に重いものを食べたら、お腹を壊すだろうからって」
サルヒの説明によると、最初に声をかけられたのはルーシャンたちの方だった。軽い食事の準備ができたから、よかったら談話室で暖炉の火を囲みながらノエたちを待ってはどうか、と誘われたのである。
その頃にはルーシャンも立って歩ける程度には回復したので、サルヒはまず彼を階下へと連れて行った。そして、続けて女性の部屋に入れるサルヒがオデットたちに声をかけたのである。
サルヒの説明がちょうど終わったころ、オデットのお腹からくるるる、と切ない音が漏れた。瞬間、オデットの顔が火で炙った以上の勢いで真っ赤になる。
「オデット、さっきの音は?」
「……お腹が空いていたのを思い出したんです」
どこか子供のような雰囲気を残すゲルダからの無垢な質問に、オデットは穴があったら入りたい気持ちになっていた。
「じゃあ、二人とも下に降りよう。焼きたてのイシュガルドマフィンを使ったサンドイッチと、とても甘いお茶が出されたから」
それを聞いて、オデットは苦笑いをこぼしながらノエのことを思う。甘いお茶が苦手な彼は、しばらく渋い顔をしているかもしれない、と。
***
丸太をそのまま横にしたような太い手すりで体を支えながら、石造りの階段をオデットは慎重に降りて行った。
ゲルダと毛布にくるまって休んでいる間も、飲んだ薬は効果を発揮してくれていたらしい。宿に来た当初はあれほどオデットを苛んでいた眩暈や倦怠感は、嘘のように落ち着いていた。魔法を全力で使うのはまだ無理だろうが、歩き回るくらいなら問題あるまい。
そして、それはオデットだけではなかった。
「おう、オデットも立って歩けるぐらいには回復したんだな」
「ルーシャンさんこそ、ずっと顔色が良くなっています」
「見ての通り、美味い飯と暖かい部屋のおかげだな。寒空の下にずっといるのは年寄りには堪えるってことだ」
案内された談話室は、随分と華やかな印象を見るものに与える部屋になっていた。
暗い色味が目立つ石造りの壁や床は、色鮮やかに染められた分厚い絨毯や布織物で隠され、寒々しい空気を遠ざけようとしている。
和やかな空気の中で食事ができるように、木製の椅子や机が並び、今もいくつかの席は埋まっている。赤々と燃え上がった暖炉の周りはくつろげるようにソファや揺り椅子が置かれていた。談話室というより、食堂として使われている場所のようだ。
ルーシャンは、一番暖炉に近い椅子に陣取り、ひと足さきに食事を済ませたようだ。空になった皿を前にして、彼は慣れた手つきで木製のカップを揺らしていた。
「薬の効果もあったのだと思いますよ、旦那様。あまり無理をしないでください」
「分かってるって。薬を作ったのは、よほど腕のいい錬金術師なんだろうな。あれを見たら、ウルダハの錬金術師ギルドの連中も作り手が知りたくてたまらないんじゃないか?」
ルーシャンがそこまで賞賛するのだから、薬の効き目はかなりあったのだろう。言われてみれば、普段流通している薬よりも効果が高かったようにも思う。
オデットはサルヒに促されるままに、ゲルダと共に席についた。小さな丸机を二つ並べれば、臨時の大机の完成だ。
タイミングよく、目の前にサンドイッチが置かれる。顔を上げれば、目尻に皺を浮かべたエレゼン族の男性――宿の主人がオデットを見つめていた。
近頃は大柄な男性を見ても、体がすくむことも減った。自分の心の成長に感謝しつつ、オデットはぺこりと頭を下げる。
「お嬢さんも元気になったようで、よかったよかった。先生の薬はよく効いただろう?」
「はい。譲っていただきありがとうございます」
座ったままであったが、オデットは更に深々と頭を下げた。主人は「気にしなさんな」と笑うと、
「お客さんがたは、今日来たところだったという話だったね。近頃はよく冷えるだろう。せっかくだから、人が集まる場所でじっくり温まっていくといい」
続けて、彼は琥珀色の液体をカップに注ぎ、オデットの前に置いた。例の甘いお茶だろうと、オデットは覚悟を決めて唇をつける。イシュガルドのお茶は、砂糖を飲むかの如く甘い場合もあり、今回はまだ渋みが残っている方だった。
「そういえば、旦那さんよ。検問のところにいた神殿騎士団の詰所ってどこにあるか知ってるか?」
オデットが暖かなお茶の甘さに心を和ませている間に、ルーシャンが現在確認しておかなければならない事項――騎士団の詰め所の場所について尋ねる。滞在費の代わりに仕事を手伝えと言われた以上、流石に無視はできない。
「詰所かい? それなら……ああ、あった。この辺にあるよ」
宿屋の主人は、懐から古びた地図を取り出して机の端に広げる。よく道を聞かれるのか、折り目の癖がついたそれの中から、彼は詰め所の場所を指差した。入り口からは少し距離があるが、宿からはさほど遠くなさそうだ。
「この街の通用門は、あの大きな門以外にあるのか?」
地図を眺めつつ、ルーシャンが更に尋ねる。
「もちろんあるとも。だが、大門以外は通行証を持つ住民と一緒じゃないと入れないようになってる。もっとも、子供だけが知ってる抜け穴やら、壁が崩れたところから忍び込む、という例はいくつかあるようだけれどね」
「壁の補修が間に合ってないの?」
あれだけ騎士団の活動費について強調している割には、補修に手を抜いているのかとサルヒは眉を寄せた。
「壁の修繕については知らないが、時々どうやってか街の中に忍び込んで、そのまま住み着いている者はいるようだよ。そういう連中が集まった貧民街には、昔から住んでいる者は誰も近寄らないようにしている」
お嬢さんたちも気をつけなよ、と主人はゲルダとオデットをそれぞれ見やる。
「そいつは穏やかじゃない話だな。この街、そんなに治安が悪いのか?」
すると、宿の店主は苦虫を飲んだような顔をして、
「……悪いってほどじゃないんだが、ちょっとピリピリしてるのは確かだな。近頃は景気が良くない話が続いてるだろう」
「竜の襲撃と、この寒さか」
「そうさ。邪竜ニーズヘッグの覚醒に引っ張られて、竜の動きも活発化している。その上で、この寒さだ。全く、イシュガルドはこの先どうなるのやら」
長らく続く竜との戦いに加えて、この寒冷化は苦しみの上塗りである。宿の主人だけでなく、イシュガルドで暮らす人々の多かれ少なかれが同じような気持ちを抱いているのだろう。
「さいわい神殿騎士団の方々が魔物や竜を徹底的に追い払ってくれているから、少しは安心して暮らせているが……」
「へえ。あの連中、口だけかと思ったが最低限の仕事はしているんだな」
ルーシャンの毒の混じった言葉に、宿の主人は「おや」と眉を持ち上げる。
「お客さん、騎士団の人と何かあったのかい」
「何かあったも何も、滞在費だなんだって難癖つけて、法外な通行費を求められたんだぞ。こちらが病人を抱えてるからって足元見やがってな。あわや、宿の宿泊費まで無くなるところだったんだ」
やや大袈裟な物言いになってはいるが、ルーシャンの発言に間違いはない。
切り札であるノエの父の印章を示されても、譲歩をするどころか自分優位の交渉を進めようとする姿は、呆れを通り越して賞賛したくなるほどだ。
「神殿騎士団とはいえ、あんな横暴な真似をしてたら商人が来なくなると思う」
サルヒは、ルーシャンの背中を軽く叩いて彼を宥めながら、言葉を添える。彼ほど面と向かって不満は口にしなかったものの、温厚なノエでさえ騎士団の態度には困惑と嫌悪を滲ませていたとオデットは覚えている。
しかし、宿の主人は驚いたように眉を持ち上げ、
「そうなのかい? 行商で街に来る人はいるが、そんな話は聞いたことがないが……」
「どういうこと?」
宿の主人が騎士団を庇っているようには見えない。怪訝そうな顔をする一行に主人は言葉を足す。
「この街にも、外から旅人が来ることがあるんだがね。確かに多少の支払いは必要としているが、騎士団の人はごく常識的な額を徴収していると思うよ」
「じゃあ、どうして私たちはあんなにあれこれ言われてたの?」
「それは――……」
「そりゃ、お前さんたちが戦える人間だからだろうよ!」
談話室の片隅から聞こえてきた声に、一行の視線がそちらに向かう。
団欒室のソファには、浅黒い肌の痩身のエレゼン族の青年が座っていた。寛いでいるように見えて隙の見せない佇まいから察するに、さしずめ商人や旅人の護衛を務める傭兵といったところか。本人の言葉を借りるなら『戦える人間』だ。
「あの騎士どもは、自分たち以外が魔物や竜をやっつけて成果を掻っ攫われるのが嫌なんだろうよ。貴族お抱えになった騎士によくあることさ」
「貴族というとニヴェールさまのことですか。その方が、この土地の管理をされているのですよね」
ここはニヴェールという貴族の領土と聞いている。ノエたち一行にとっては、数ヶ月前にニヴェール家の子息を交えたひと騒動に巻き込まれたので、その名前は全く知らない名前というわけでは無い。
ノエの父のように自領の私兵として騎士団を雇っているのか、とオデットは思っていたが、傭兵は首を横に振った。
「違う違う。嬢ちゃんが言ってるのは、ご本家様のことだろ?」
「この辺りは、ニヴェール様が管理を任せている他家の方が管理を受け持っているそうなんだよ」
傭兵と主人が、それぞれ口を揃えて説明する。
そうなると、イシュガルド正教会から派遣されているとはいえ、先ほどの兵士たちの上司は領地を管理している貴族になる。
上司に自分たちの働きを見せる最善の方法――それは、やはりどれだけ戦果をあげられたかという点になるだろう。なるほど、冒険者のように腕の立つ者は、騎士たちにとっては自分たちの功績を横から掠め取る盗人に思えるのかもしれない。
それでも、彼らの行動原理が道徳的とは言い難いことに変わりはない。ルーシャンは不愉快そうに唇を曲げ、サルヒも目を伏せてゆっくりと首を横に振っていた。
(兄さんのお父様の領地にいた騎士様は、わたしたちにも協力的でしたのに)
とはいえ、万事がそのようにうまくいくわけではないのだろう。世知辛い世の中のあり方にオデットが思いを馳せていると、
「あの人たち、私たちに怒っているみたいだったよ」
今まで黙ってお茶をぽつぽつと飲んでいたゲルダが、不意に言葉を発した。
「怒りもするだろ。金を払わずに押し通ろうとしてたんだからな」
「ううん。そういうのとは少し違う気がする。あの人たちは私やオデットに怒っている感じはしなかったけど、ノエたちを見たとき、怒る感じが増えた気がしたから」
「やっぱり、戦う力を持っているから、手柄をとられると思ったのでしょうか」
「そういう嫌な感じは……しなかった、と思う。うまく言えないけれど、私たちが嫌いだっていうより、嫌なことを思い出してるような……そんな、少し違うことを考えているような顔だったと思う」
自分自身の感情表現さえ覚束ないようだが、ゲルダは周りの感情に鈍感なわけではないらしい。むしろ、その代わりのように周囲の反応をよく見ているようだ。
ゲルダの言葉が正しいなら、騎士たちはノエや傭兵らを通して何か苦い経験を思い出し、結果としてそれが辛辣な態度や法外な通行料に反映されているようだ。
「そう言われてもな。初対面の俺たちには、奴さんらに怒られる理由もないだろうよ。ともあれ、変に目をつけられなきゃいいけどな」
ノエの父が治めていた街では、一行は比較的のびのびと過ごすことができた。それもこれも良き治世を心がけるベルナールの人格あってのことであり、ノエが彼の息子であるという後ろ盾があるからこそでもあった。ノエ自身は受け入れたがいだろうが、事実として、彼の血筋が少なからず有利に働いた部分はある。
だが、この街において、先だってのような後ろ盾は存在しない。しかし、この規模の街ならば情報も潤沢に潜んでいる以上、ただ通り抜けるというのも惜しい。
長く滞在すればするほど厄介ごとに巻き込まれる確率は跳ね上がるが、今回は目を瞑るしか無いだろう。
(以前のように、夜遅くまで外にいるのは避けたほうがいいかもしれませんね)
話している間にサンドイッチを食べ終えたオデットは、隣に座ってお茶を飲み終えた様子のゲルダを見やる。竜に育てられた経緯のせいか、どこかぼんやりとした所もある彼女のことだ。治安の悪さが危険につながるという考えも薄そうである。
(わたしが、ゲルダさんを守ってあげないと。前みたいに悪い人に騙されるようなことがあってはいけません)
オデットが心の中で気合を入れている一方で、宿の主人は他の机に向かっていた。
代わりに別の影が机に落ちる。やってきたのは、先ほど話に加わった傭兵だった。
「よう。随分面白い取り合わせみたいだが、どんな用でこの街に来たんだ?」
情報収集と暇つぶしを兼ねて声をかけてきたのだろう。どっかりと隣の椅子に腰を下ろした彼に、今回はルーシャンが応対を買って出た。
「探しびとを訪ねて三千ヤルムってところだな。こちらの嬢ちゃんの古い知り合いがイシュガルドにいるって聞いて、ほうぼうを訪ね歩いているところだ」
嘘ではないが真実でもない微妙な境目となる回答であゆ。とはいえ、オデットの記憶喪失の件を正直に話して妙な勘ぐりをされたくもないので、この辺りが普段旅の理由を問われた時の一行の妥当な回答となっていた。
「尋ね人か。とはいえ、イシュガルドは広いぞ。適当に歩き回っているだけじゃ見つからないんじゃないか?」
「ニヴェール様の領土がある方角に向かった、という情報は得ているから、そのうち出会うだろうか」
「ニヴェール様の領土も広いからなあ。十年だったか十五年前だったかに、血縁の貴族の領地を吸収したんだよ。四大貴族様ほどじゃないが、かなりの広さの領地をその時に自分のものにしたそうだ」
その言葉を聞いて、サルヒは悟られないように傍に座るルーシャンを見やる。もっとも、当の本人は「へえ、そうなのか」と相槌を打っただけだった。
「そちらさんは、この街に滞在して長いのか?」
「そろそろ一ヶ月ぐらいってところだ。もっとも、俺の雇い主はもうしばらくしたら出発するみたいだがね」
治安が良好とは言い難いのは事実のようで、商人たちも近頃は長居を好まなくなったと男は語る。いくら用心棒を雇っていたとしても、いつ背中を刺されるかわからないような情勢では、のんびりと腰を落ち着けるわけにもいかないようだ。
「じゃあ、もののついでに一つ質問だ。あんた、『ミラベル』って司祭の名前を聞いたことはないか。そっちのお嬢ちゃんの知り合いを知っているかもしれない人物なんだ」
ルーシャンの質問は、これまで何度も出会した旅人に向けて投げかけられたものだった。
それに対する返答の八割は『知らない』であり、残りの二割は司祭が旅立ったことを伝えるものだった。
今回もそのどちらかだろうと、その場にいる四人が全員そう思っていた。
――しかし。
「ああ。あの司祭なら、貧民街の境目にある孤児院に滞在しているよ」
「えっ、それは……本当ですかっ!?」
思わず、オデットはカップを握る指に力を込めて尋ねる。傭兵はオデットの勢いに驚いたのか、瞼を数度瞬かせると、
「お、おう。本当はもっと早く旅立つつもりだったんだそうだが、ここ最近物騒な話が多くて、孤児院に勤めてる教会の連中が引き留めてるとかどうとか……」
傭兵の話が終わらないうちに、オデットは立ち上がり、駆け出そうとしていた。
だが、その腕をサルヒの細い手がつかみ、見た目によらない強い力で引き止める。
「サルヒさん、わたしは――」
「手がかりが見えたのなら、会いたくなる気持ちもわかる。でも、もう外が暗い」
言われて、オデットも窓の向こうを見やる。ぽつぽつと街灯こそ点っているものの、周囲はすでにとっぷりとした闇に覆われている。奇しくも、先だってオデットも『夜道を歩くのは危険』と考えていたところだ。
「ノエたちが戻ってきたときに、行き違いになっても困る。その人がすぐにいなくなるわけでもないなら、日を改めた方がいい」
サルヒの理論的な説明を聞いて、オデットは立ち上がっていた体を再び椅子に座らせる。それでも、彼女の心臓はいつもより早く鼓動を続けていた。
「……すみません。その人が近くにいるって分かったら、なんだか急に焦ってしまって」
「気持ちは分からんでもないが、焦って接触しても向こうも困るだろ。司祭様ってことは、相応に忙しいだろうしな」
ルーシャンにやんわりと宥められて、オデットは小さく頷く。動揺と興奮で汗ばむ背中を、ゲルダがそっと撫でてくれるのがわかる。ノエのいない今、オデットの気持ちに寄り添ってくれる人が近くにいるのはありがたかった。
「オデット、そんなにその人に会いたかったの?」
「……分かりません。今までも名前は知っていましたし、探している人だっていうのも分かっていたはずなんですが」
ただ追いかけるだけでなく、会えるかもしれないと具体的な邂逅が手に届きそうになった瞬間。
(どうして、わたしはこんなにも胸を弾ませているの……? どうして、こんなにも)
どくどくと跳ねる心臓は、喜びや興奮だけのものではない。他ならぬ、自分自身だからこそわかる。
(わたしはその人に会うのを、怖いと思っているの……?)
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.