誰かの目の前に道を作るのは得意だった。もちろん、そこにその人を誘導するのも。それが生まれつきのものなのか、それとも生育していく上で必要に応じて得たものなのかは分からない。ただ俺は人を自分の思うように動かすのが得意で、それを誇りに思ってすらいた。俺を利用した人々はそんな男を褒めたし、俺だってそんな自分を誇ってすらいたので。
でもあの人の前に立つと、俺はすっかり交渉ごとができなくなってしまう。できてもお願いごとが関の山で、俺はほとんど彼にひれ伏している。寡黙で、表情があまり豊かでない、何を考えているのか時折分からなくなるあの人に、俺はひれ伏しているのだ。
ミスルンさんが怪我をするのは、ほとんど日常ごとと言ってよかった。なにせ彼は繰り返し迷宮に潜り、そこで起こる全てを記録していたからだ。ミスルンさんはとても強い人だったけれど、それだって迷宮では何が起こるのかは分からない。強大なモンスター、壊れかけ、崩れかけている建造物、おまけに文献が残っていない自然迷宮なら、何が待っているのか分からない。だから彼は生傷が絶えなくて、俺はそんな治癒魔術でも手に負えなかった傷に巻かれた包帯や、消毒液くさい腕に口付けるくらいしかできなかった。そう、それくらいしか俺にはできなかった。流されるようにして、けれど自分から宰相補佐となった身では、彼とともに迷宮に潜ることは許されなかったから。
俺はミスルンさんの恋人だったけれど、共寝するくらいには親しかったけれど、カナリア隊を辞した彼が、どうして迷宮にこだわるのか、それについてはいまだに問い詰められないでいる。いっとき迷宮の主だった彼にはやはり自責の念があるのかと思いはしたけれど、それを尋ねるのは彼を傷つけるような気がしたし、それにミスルンさんがどこかで俺と自分の間に線引きをしているような気がしたから。だから踏み込めなかったんだと思う。それは長命種と短命種の違いからかもしれないし、単に俺が若造で、物を知らなかったからかもしれない。ミスルンさんは俺よりも、ずっと長く生きていた。俺が見てきた醜いものたちよりずっと醜いものを見て、俺が見てきた地獄よりもずっと苦しい境遇にいた。俺はそんなあの人を助けたいと思う。
でもそれが無理なのも分かっていた。ミスルンさんはきっと、命を落とす可能性があったとしても迷宮に潜り続けるのだろう。いや、彼は危機管理をきっちりしている、そんな時はきっと引き返す、でも、ミスルンさんはぎりぎりまで粘って、そしてまた怪我をするのだろう。治癒魔術で傷は治せても、跡は残る。痛みは残る。俺はそんな彼を癒したかったし、もう迷宮に潜らないでくれと言いたかった。いつものように、かつて誰かに道を示し続けてきたように、彼をコントロールしたかった。でも俺は彼を愛していたから、そんなことできるわけがなかった。
彼の包帯が巻かれた身体を隅々まで切り開き、隅々まで愛し終えたその時、ミスルンさんはため息をついて俺にしがみついた。そして互いに達してしまうと、俺たちはようやくくっつくのをやめて、笑い合ってキスをした。またいけないことをしちゃいましたねって、偉い人にいたずらをして、それがバレなかった子どもみたいに。ミスルンさんは表情の変化が分かりづらい人だったけれど、それでもこういう時はいつもより柔らかく、豊かな笑みを俺にくれた。俺はそれが嬉しくて、何度も、何度も彼に口付けた。
俺たちはしばらく裸のまま毛布にくるまって抱き合い、くだらない会話をした。今日の夕飯に出たシチュー、まるでバロメッツみたいな味がしましたね、あれを出したらライオスさんは喜ぶんじゃないかな、馬鹿、あれはただの蟹だ、王の舌は誤魔化せまいよ。
俺たちは笑ってキスをして、お互いに人には見せない顔をした。でもミスルンさんからは夜の匂いに混じって消毒液の香りがして、俺はそれにとてつもなく苦しくなった。だから多分、こういうことを聞いてしまったんだと思う。普段なら聞かないことを、尋ねてしまったんだと思う。
「いつぐらいまで、迷宮に潜るんですか?」って。
するとミスルンさんは不思議そうな顔をして、「身体の自由が効くうちは」と答えた。まるでそうすることが当然みたいに。俺はその答えに何も返せず、そうか、と思った。
彼に交渉ごとを持ちかけるにしても、俺はこの人の意思を覆すほどのものを持たない。だから多分、迷宮に潜らないでって言ったって、俺の意思は通らない。考えるだけ無駄な話だった。なのに思ってしまうんだから、しょうがないといえばしょうがなかったけれど。
「なんだ、私に潜って欲しくないのか?」
「いや、そんなことはないですけど……。ちゃんとした女王からの命だとは知っていますし、ミスルンさんも潜りたいんでしょう?」
そんな会話をするうちに、さっきまで二人の間に漂っていた甘い香りが消えてしまった気がした。俺はミスルンさんが察してくれたことが嬉しかったけれど、それでもお願いごとはできなかった。彼に嫌われたくなかったし、この人にはどんな時も自由でいてほしかったので。
「そうだな。でも、お前が潜るなというんなら、潜らないかもしれないぞ」
「なんだか卑怯じゃないですか? それ」
俺はぎゅうっとミスルンさんを抱きしめる。多くの人よりもずっと苦しんできたこの人には、幸せで、安全で、約束された自由な人生を送ってほしい。迷宮に執着しないで、新しい何かを見つけてほしい。でもそんな願いは叶わない。だって、それをこの人は望んでいないんだから。
「恋人の言うことは頭に入れておくさ。少なくとも、今日みたいな馬鹿はやらないようにする。それくらいじゃあお前は満足しないんだろうが」
「ミスルンさん……」
俺はもっともっと、ぎゅうっと彼を抱きしめる。交渉ごとに臨むまでもなく、この人は俺の願いを理解してくれた。それがとても嬉しかったし、愛する人の人生に自分がいるようで嬉しかったのもある。ミスルンさんは迷宮に潜り続けるだろう、そこに危険があっても、潜り続けるだろう。それは俺も変わらない。どんな危険があっても宰相補佐はやめないし、やがてこの国を背負う気概はあった。お互いに、譲れないものがあった。
でもまぁ、俺はこの人にひれ伏していたので、彼が隠すものを奪い去った時からこの人を愛すると決めていたので、本当はミスルンさんの全てを受け入れたかったのだ。それが叶わなくたって、俺は彼を愛していた。
俺はミスルンさんの傷跡に、もう一度口付ける。包帯から香る消毒液の匂いを嗅いで、愛してる、愛してるって繰り返す。それは心もとなかったけれど、俺の心からの願いだった。愛してるが願いになるなんて、本当に不思議だったけれど、それが俺の答えだった。愛してます、ミスルンさん、あなたを心から愛してる。どうか俺のいないところで傷つかないで、ずっと傷ついてきたあなたがこれ以上傷つくことがないよう、俺はいつだって祈っているから。
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