コンテナの影に隠れながら、春日は落ち着かない様子でポケットからスマホを取り出した。既に日は暮れており、下手な明かりは却って目立つと知っているハンは、スマホの電源が入る前に春日の手首を掴んで制止する。そこに普段行うスキンシップのような色気は微塵も無い。鋭い眼光で春日を見詰めると、ハンは静かに首を左右に振った。
言葉を交わさずとも恋人の意図を汲み取った春日は大人しくスマホをポケットに戻す。しかし、そうすると時計を所持していない春日は時間の確認が出来なくなる。眉を八の字に下げて不安げに辺りを見回す春日にハンはそっと耳打ちした。
「大丈夫ですよ。もう少し待ちましょう」
恋人から宥められ、春日はゆっくり頷く。
二手に分かれて一方は敵の陽動、もう一方は手薄になった敵陣に潜り込むのが今回の作戦だった。桐生が抜け、更に戦力を分散させるこの策に、大道寺は陽動班と潜入班に一人ずつエージェントを派遣してくれる。──事になっているのだが、春日たちの前に助っ人はまだ姿を見せていない。恐らく花輪から聞いた合流の時間は既に過ぎているというのに。
もしや、作戦が見抜かれたのではないか。エージェントは合流前に敵の襲撃にあったのでは。足立率いる陽動班は無事だろうか。春日は様々な最悪の可能性を思い浮かべては振り払った。今は皆を信じてひたすら待つしか無いのだ、と自分に言い聞かせる。
春日へ向けていたハンの視線が素早くコンテナ同士の隙間へと向けられる。他者の気配に聡い恋人に倣って、春日も同じ方向へ視覚と聴覚を集中させた。確かに革靴のような硬い足音がこちらに近付いている。敵である可能性も考慮して春日は愛用のバットを握り直した。
「あークソ。やーっと見付けたぞテメェら」
姿を見せる前に投げ掛けられた言葉に春日は息を呑んだ。数は一人。だが潜入作戦を遂行しにきた人間の声量ではない。
近付いて来るにつれて、影と化していた男の姿がハッキリと浮かび上がる。右目を眼帯で覆い、シンプルな黒のスーツを纏い、ドスを手にした男は花輪から聞いていたエージェントの特徴と一致する。安堵の息を吐く春日とは対照的に、ハンは恋人に勘づかれないように眉を顰めた。
「…あんたが西谷さんかい?」
小声で尋ねる春日を一瞥したかと思えば、西谷と思われる男は肯定もせずにハンの目の前で歩みを止めた。
「久しぶりだなぁ、ハン・ジュンギ!…あ、お前、偽物の方だっけ?…偽ハン・ジュンギ?」
挑発するような問いにハンは片眉を吊り上げる。
「本当に大道寺に飼われているとは思いませんでしたよ。…堕ちたものですね。西谷誉さん」
地を這うような声、とはこの事だろう。久しく聞いていなかった皮肉交じりの物言いに、春日の脳裏にハンと敵対していた頃の記憶が蘇る。
「マジで影武者用意してたんだなぁ、本物のヤツ。…馬鹿だよなぁ!先にくたばっちまったら意味ねぇってのに」
「おい、あんた…!」
嘲笑し、しげしげとハンを見やる男に春日が抗議の声を上げる。発言からして、この西谷という男は本物のハン・ジュンギと何らかの交流を持っていたのだろう。だが、それは恋人の敬愛する主を貶して良い理由にはならない。自分に当て嵌めるのなら、荒川真澄を侮辱されているのと同じだ。ハンと同じように尊敬する人間を持つ春日にはそれがどれ程の屈辱か分かる。
西谷は春日の苛立ちなど意に介さず、ハンに不躾な視線を寄越していた。かと思えば突然興味を失ったかのように振り返り、今度は春日に近付きながら抜刀する。
「…で?お前が春日一番?」
春日の頬を叩くようにドスの刀身をピタピタと当てながら、西谷は春日の顔を覗き込む。値踏みをされているような視線に、春日は不快そうに眉間に皺を寄せる。機嫌を損ねれば、或いはただの気紛れで刃が喉を掠めてしまいそうな雰囲気だった。
性格に難がある──花輪が作戦の前にエージェントについて語った言葉が今なら理解出来る。常人なら恐怖を感じるだろう西谷の態度にも臆さずに春日は睨み付けた。
関心の無さそうだった西谷の瞳が弧を描く。頬を叩く刀身の動きが止まるのと同時に、西谷の頭に冷たい銃口が突き付けられた。
「ッ! おい、ハン・ジュンギ!」
西谷にも恐れを抱いていなかった春日が声を荒らげた。いくら危うい人物といえどやり過ぎだと制止を促す。銃を向けたハンは汚物を見るような嫌悪感に満ちた表情のまま、西谷を銃口で小突いた。
「─────────ッ!!」
母国語でハンは怒鳴りつける。春日には恋人が何と言ったのかは理解出来なかった。が、その剣幕から罵詈雑言である事だけは分かる。カラン、と音を立ててドスが地面に落とされた。続けて西谷が降参の意を示すように両手を上げ──吹き出した。
「…え?」
突如、片手で顔を覆いながら笑い始めた西谷を、春日は困惑しながら見詰める。何が面白かったのか検討も付かない。助けを求めるようにハンに視線を移すと、銃を握ったまま冷めた目で西谷を見下ろしていた。
「はー…マジで面白ぇなアンタ」
一頻り笑い終えた西谷がハンを指差す。
「お上品ぶってた本物より、よっぽど良いぜ」
ハンは鼻で笑うと拳銃の引き金に力を込める。春日が止めるより先に発砲音が響いた。が、西谷は微動だにしない。放たれた弾丸は西谷ではなく、物陰から様子を窺っていた男の肩を貫いた。よく見れば複数の男たちに囲まれている。これだけ騒げば見付かるのも当然と言えば当然だった。
「大騒ぎする馬鹿の所為で見付かりました。責任を取って下さい」
「へーへー」
仲間が撃たれた事で自棄になったのか、男たちはスラングを発しながら一斉に距離を詰めてくる。西谷は気怠げに返事をすると落としたドスを緩慢な動きで拾い上げた。かと思えば男たちに向かって駆け出し、手にしたドスで素早く斬り掛かる。一応はハンの言う通り、責任を果たしてくれるのだろう。共闘に一抹の不安を抱えながら春日も加勢に入った。
「あ、そーだ。春日よォ」
「え?」
曲がりなりにも戦闘中だというのに西谷は余裕からか、狂気を感じる笑みを春日に向ける。
「さっき偽ハン・ジュンギが何つったか教えてやろうか?」
気にはなるが今する話ではない。後にしてくれ、と言いかけて春日は鉄パイプを振り下ろしてきた男の攻撃をバットで受け止める。
「アイツなぁ『その人に触るな。クソチンコ野郎』って言ったんだぜ!?ハハハッ!」
高らかな笑い声を掻き消すように西谷を目掛けて男が飛んできた。かなりの勢いだった筈だが、西谷は難無く男を躱す。
「あっぶねぇな〜。偽ハン・ジュンギぃ〜」
「黙れ。手を動かせ」
どうやら先程の男はハンが態と殴り飛ばしたらしい。短く文句を言うとハンは忌々しそうに舌打ちした。
「おー、怖っ。春日ぁ、なんであんなんと付き合ってんだぁ?」
頭上に放り投げたドスを空中で掴み、西谷は狼狽えた男の腹部を刺す。相手を弄ぶような戦い方を視界の端に映しながら、春日は内心で人選ミスでは、と憂いていた。
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