熱でボーッとする頭を押さえながら春日は自宅の扉を開ける。土曜でも開いている病院は込んでいて、予想よりも受診に時間が掛かってしまった。室内に入り、靴を脱ぐ前に一旦その場にしゃがみ込む。身体が怠い。咳が出る。昨日までは少しくしゃみが出る程度だったというのに、症状が悪化している。大きく息を吐いて何とか立ち上がると、土鍋からナンシーが顔を覗かせた。
「ハハ、心配すんなよナンシー…大丈夫だから」
笑い掛けようとするが上手く口角が上がらない。ピィという鳴き声を上げてナンシーは相棒の様子をじっと見ていた。
薬局で受け取った処方薬をビニール袋ごと床に置き、春日はシンクの蛇口を捻る。手を濡らしてからハンドソープをよく泡立てて丁寧に洗った。帰ってくる度やってたんだけどな、と内心でぼやきながらコップに水を汲んでうがいをする。
「…あ」
不意に思い出して春日は冷蔵庫を開ける。やはり殆ど何も入っていない。通院の為に外に出たのだから、ついでに何か買ってくるべきだったと後悔した。流石に今からもう一度出掛ける気力は残っていない。久しぶりに引いてしまった風邪は春日から自慢の体力を根こそぎ奪っていた。
先程置いたビニール袋から薬袋を取り出す。食後に飲むよう書かれているが、食材も無ければ食欲も無い。規定量の薬を取り出すと再び汲んだ水で一気に飲み干した。これで後は休めば治るだろう。なるべく楽観的に考えるようにして春日はベッドに向かった。ドサリ、と音を立てて寝台に倒れ込む。もう動きたくない。身体は熱いのにゾクゾクと寒気がする。早く寝てしまおう、と春日は乾いた咳をしながら目を閉じた。
意識が浮上して瞼を開くと、窓から差し込んだ西日で室内がオレンジ色に照らされていた。咳の所為で寝付くまで時間が掛かったが、寝る前よりは大分具合が良い。これなら食材の買い出しにも行けそうだと春日は緩慢な動きで身体を起こした。何故か流水音が聞こえて台所に視線を向ける。
「…ん、あれ…?ハン・ジュンギ…?」
シンク前に立つ見覚えのある後ろ姿に声を掛ける。ハンは特に驚いた様子もなく一瞬後ろを振り返ると、蛇口を閉めて春日に歩み寄ってきた。
「おはようございます。春日さん」
「あぁ、うん…おはよう」
濡れた手をハンカチで拭き終えるとハンは身体を屈め、ベッド縁に座る春日の額に手を当てる。先程まで水に触れていた恋人の手はひんやりとして気持ちが良い。春日は思わず目を細めて息を吐いた。
「まだ熱が高いようですね」
「ん…あんたの手が冷たいからじゃねぇか?」
額から手が離れていくのを春日は名残惜しそうに目で追う。
「食欲はありますか?」
「…まあまあ」
昼間に何も食べなかった所為か多少は食欲も回復してきた。唸るような声を出しながら、脚に力を入れて春日は立ち上がる。普段ならなんてことの無い動作がやけに怠い。
「でも冷蔵庫の中、なんにもねぇから買いに行かねぇと…」
「ご心配なく。春日さんはあちらで座っていてください」
続けて立ち上がるとハンはリビング代わりの場所にあるソファを指し示す。今になって気付いたが、不揃いな椅子に囲まれたテーブルの上には中身が入った大きめのビニール袋が置かれている。薬が入った袋では無い。あれは床に置いたままだ。首を傾げつつも春日は素直に従い、ソファに座る。
「念の為にと思って買ってきました」
大きめの袋からハンがレトルトのお粥と即席スープを取り出す。飽きないようにと気遣ってくれたらしく、様々な味や種類の物が袋内を満たしていた。
「…ありがとな、ハン・ジュンギ。すげぇ助かった」
伝染してしまう可能性を考慮し、春日は恋人から距離を取りながら礼を言う。病魔に侵されてなければそのまま抱き着いているところだ。目論見が当たり、役に立てたのが嬉しいのかハンは得意げな笑みを見せる。
「フフ、このくらいお易い御用です」
袋の中身を見せながらどれが食べたいか問われ、春日は玉子粥とわかめスープを指定した。
「分かりました。すぐ用意しますね」
「あ、いや、そんくらい自分で出来…」
わざわざ買い物に行ってくれた恋人に食事の準備までさせる訳にはいかない。パウチを持って台所へと向かうハンを引き留めようと春日は緩慢な動きで腰を上げようとした。
「風邪なんですから春日さんはちゃんと休んでいて下さい。…ねぇ?ナンシーさん」
味方を作るようにハンはすぐ傍の土鍋内にいる春日の相棒に呼び掛ける。ナンシーはピィピィと鳴きながら頷いたかと思えば、春日に向けてシャーと鳴いて威嚇するようにハサミを見せ付けた。
「…分かったよ。お言葉に甘えさせてもらうぜ」
幼少期に風邪を引いて尚ゲームをしようとして父に怒られた記憶と今の状況が重なり、春日は再びソファの背もたれに身体を預ける。
ハンは取り出した片手付き鍋に水を入れると、空いている方のコンロに置いて火を付けた。湯が沸くまで手持ち無沙汰になったのか、水切りカゴから食器を取り出し、僅かに残っている水分を布巾で拭き取る。
「…なぁ、その食器ってシンクに置きっぱだったやつ…だよな?」
「えぇ」
どうせ自分しか使わないから、と溜め込んでから食器を洗う生活をしていた春日は申し訳なさそうに眉を下げた。
「悪ぃ、溜め込んじまってて…。洗ってくれてありがとな」
数日放っておいた食器はさぞ洗いにくかった事だろう。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる恋人に何かお返しをしたいが、今の春日には礼を言う以外に返せるものが無い。
「私がしたくて勝手にしただけです。気にしないで下さい」
「治ったらあんたの頼み、何でも聞くからな」
何でも、という言葉に反応してハンの手が一瞬止まる。つい掘り下げて問い詰めたくなったが、どうにか堪えた。発言を撤回されても困る。
「…えぇ、楽しみにしていますよ」
浮かれた声が出そうになるのを抑えてハンは拭いた食器を重ねた。水が沸騰し始めたのを確認してからパウチを入れて中身を温める。立ち上る湯気をじっと見詰めるナンシーに鍋の中へ入らぬよう忠告すると、馬鹿にするなと言うように威嚇された。
湯煎した玉子粥を茶碗に盛り付け、即席スープの小袋をマグカップに入れてポットの湯を注ぐ。スプーンで溶け残った粉末をかき混ぜ、粥にレンゲを添えてハンは春日の元へ戻ってきた。
「お待たせしました。春日さん」
マグカップが一旦テーブルへ置かれる。
「ん、ありがとな」
今日、何度目かの礼を言いながら、春日が玉子粥が入った茶碗を受け取ろうと手を伸ばす。しかし、ハンはそれを渡さないまま隣に座った。
「…あの、ハン・ジュンギさん?」
何故か楽しそうに微笑む恋人に、春日は恐る恐る問い掛ける。ハンは一口分をレンゲで掬うと息を吹き掛けて粗熱を取り、春日の口元へと差し出した。
「はい、春日さん。あーん」
幼少期にもされた事の無い行動に、春日の顔面に熱が集中していく。
「い、いやいいって!自分で食えるから…!」
断ってもレンゲを下げない恋人に春日は諦めて口を開いた。煮込まれた米の甘みと玉子に付けられた出汁の丁度良い塩気が口内に広がる。
「美味ぇ…!」
良く咀嚼して感想を言う春日の口へ、ハンが先程同様に冷ました粥を差し出す。おそらくもう何を言っても恋人は引く気が無い、と悟った春日は大人しく受け入れた。
「あ、のさ、ハン・ジュンギ」
「? あぁ、スープを飲みますか?」
「いやそうじゃねぇ」
茶碗をマグカップに持ち変えようとする恋人を止めて、春日は言い淀む。
「…その…いつも、こっそり会いに来てくれてありがとうな」
裏社会の人間は表の人間と関わるべきでは無い、というソンヒの主張を受け入れ、ハンはかつての仲間たちとの連絡を絶った。──事にしている。実際にはこうして人目を盗んで何度も春日の所に会いに来ていた。おそらく上司であるソンヒにはバレている、と春日は踏んでいるが、お咎めが無いので敢えて気付かないフリを続けている。
「俺がこんな事言うから、あんたは距離置きたくても置けねぇんだと思うけどよ…」
もし、自分が原因でハンの地位が危うくなるのなら、春日とて会えなくなるのを受け入れようと考えている。今のように恋人に甘えているようでは信じて貰えないかもしれないが。
春日の言葉に制止したままだったハンは嘆息すると、粥が入った茶碗をテーブルに置いた。
「私は貴方と離れたくありません」
はっきりそう告げ、ハンはまだ熱っぽい春日の頬に触れる。近付けて来る顔に流されかけて、春日は慌てて恋人の胸を押した。
「おい待てキスは止めろ!伝染っちまう!」
「…チッ」
舌打ちするとハンは渋々元の位置に戻る。不満げではあるが素直に言う事を聞いてくれた恋人に、春日は安堵の息を吐いた。看病に来てもらった上に、伝染してしまう訳にはいかない。暫く同じ空間に居るので既に手遅れかもしれないが、粘膜同士を直接触れ合わせるよりはマシだろう。
「…私は春日さんを愛しています」
拗ねた表情のまま、ハンがぽつりと呟く。
「会わなくなってもモニター越しに貴方の姿を見る事は出来ます。ですが、それだけではもう満足出来ないんです」
「えぇと…ハン・ジュンギ?」
戸惑う恋人の手にハンは自分の手を重ねた。
「貴方に触れて、名を呼ばれて、その視界に私を映して欲しい。でなければ私は満たされない。…例え命令だろうと、私は貴方を手放すつもりはありません」
何度聞かされても慣れない愛の言葉に、春日は更に顔が火照るのを感じた。
「…何か、また熱出た気がする」
「おや、それはいけませんね。食べ終えて薬を飲んだら暖かくして休んで下さい。食器は私が片付けますから」
誰の所為だ、と言いたいのを堪えて春日は手で額を押さえながら恋人を睨み付ける。対照的に涼しい顔でハンは再び茶碗を手に取ると、まだ温かい粥をレンゲで掬った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.