中華街で昼食を終えた春日は浜北公園のベンチに座り、煙草に火を付けた。休憩時間はあと十分程だ。潮風を浴びながら煙を吐き出す。午後の仕事に備えて存分に息抜きをしてから、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。そろそろ会社に戻ろうと春日は腰を上げた。
「…お」
公園を出る直前、歩道を歩く見覚えのある横顔に気付いた春日は思わず顔を綻ばせた。今日は運が良い。密かに好意を寄せる相手に図らずも会えて浮かれていた。
春日は声を掛けようとして、顔の横まで上げかけた腕を下ろす。珍しくセットしていない銀糸のような髪を揺らしながら歩く男の隣から、女性が顔を覗かせた。緩くウェーブが掛かった金髪の女性は一目見ただけで美人と分かる顔立ちをしていて、美形の男と並んで歩いていても見劣りしない。筋肉質な腕に女性の細腕が絡み、楽しそうに笑う姿はどう見ても恋人同士のデートに見える。前言撤回。今日はとてつもなく運が悪いようだ。元々両想いになれるとも思っていなかった為、告白する気も無かったが、春日の密かな片想いは唐突に終わった。
午後からの仕事は散々だった。何をしていても昼休みに見た幸せそうなカップルが脳裏を過ぎって集中出来ない。気付けばぼんやりとしてしまい、えりに風邪を引いたのではと何度も心配された。大丈夫だ、と言いながら軽率なミスが多く、仕事が滞ってしまった。
残業で何とか今日のミスを取り戻した春日は気持ちを紛らわそうとサバイバーに立ち寄った。いつもは仲間の誰かが来ていないかと期待して扉を開くが今夜は違う。自分以外に客が居ない事を確認すると春日は安堵の息を吐いた。カウンター席について普段飲む酒より度数の高い酒を注文する。
「春日」
「はい?」
「…飯、食ったのか?」
表情や注文から春日が沈んでいる事を察知したのか、マスターは酒を注ぐと突拍子も無い事を尋ねる。
「え?…いや、食ってませんけど…」
「分かった。ちょっと待ってろ」
聞かれて漸く春日は夕食を摂っていない事を思い出す。だが、空腹の筈なのに食欲が湧いてこなかった。おそらく昼間のあの光景の所為だ。
「いや、悪ぃマスター。俺、今ちょっと食欲無くて…」
「…腹減ってるから色々考えちまうんだよ。まずは食え。丁度、一食分だけ余っちまったんだ」
皿に米飯を盛り付けたマスターは鍋の蓋を開ける。一気に漂うスパイスの香りに中身が何か直ぐに分かった。一食分だけ余った、と言う割には鍋底とレードルがぶつかる音がしないまま一人前のカレーライスが春日の前に置かれる。
「安心しろ。俺の奢りだ」
「…マスター…ありがとうございます」
スパイシーな香りに減退していた食欲が戻ってきて、春日は料理の前で手を合わせた。
「いただきます」
米飯にカレーが掛かった部分を掬い取り口に運ぶ。市販のカレールーでは再現出来ない味を噛み締めながら春日は鼻をすすった。
「…代わりと言っちゃなんだが、店番頼めるか。ちょっと買い出しに行ってくる」
「へへっ、勿論良いっすよ」
空元気の笑顔を見せるとマスターは速やかに店を後にした。買い出しというのはおそらく嘘だろう。そっとしておいてくれる優しさに、春日は思わず泣きそうになってしまった。じわりと溢れ出てきた涙をスーツの袖で乱暴に拭って春日は再び鼻をすする。
「っ!…あれマスター、早……!!」
カラン、と入口の扉が開く音がして春日は肩を跳ねさせる。平常心を装って振り返り、そこに居た人物に息を詰まらせた。
「こんばんは、春日さん」
日中、恋人とのデートを楽しんでいて、春日の終わってしまった片想いの相手で、今最も春日が会いたくない人物──ハン・ジュンギだった。最悪だ、と再び落ち込む春日に気付かず、ハンは隣へ座る。あまり見たくない相手から目を逸らそうと、春日はカレーに意識を向けた。
「おう、こんばんは」
なるべくぶっきらぼうな言い方にならないよう気を付けながら春日は返事をする。
「…マスターなら買い出しに行ったぜ」
「そうですか」
二人きりの空間が気まずくて仕方無い。何故か上機嫌で見詰めてくるハンに居た堪れなくなった春日は、勝手に入る事を内心でマスターに謝罪しながらキッチンに入る。棚からグラスと自分のキープボトルを取り出し、氷とボトルの中身を注いでハンに差し出した。
「おや、良いんですか?」
「良いぜ、気にすんな」
「フフ、ありがとうございます」
席に戻るとグラスを持ったままのハンがまた春日を見詰めていた。
「…何だよ。飲まねぇのか?」
「春日さん、乾杯しましょう」
いつもなら春日から発せられる言葉だ。普段と違う事を察知されないよう、慌てて春日は外側に水滴がたっぷり付いたグラスを持ち上げ、軽くぶつけ合わせる。
「乾杯」
酒を一口飲み込み春日はグラスを置いた。いつもの酒と違って今グラスに入っているのは一気に飲めない強い酒だ。喉に焼けそうな熱さを感じながら春日は再びスプーンを手に取る。
「…春日さん」
「ん?どうした?」
「何か…ありましたか?」
溶けてしまわないよう大き目に切られたじゃがいもを口に入れようとして春日は手を止める。普段であれば誤魔化しの言葉などいくらでも出てくる口が、酒の所為か上手く回らない。
「…いや、別に」
視線を逸らす姿に、やはり何かあったと確信したハンが食い気味に尋ねる。
「話しては貰えませんか?話せば楽になる事もありますし…あ、いえ、その…春日さんが私などに話しても良ければ、ですが…」
強引に迫り過ぎたと気付いたのか、途中からハンの語尾が小さくなっていく。普段の慇懃無礼な振る舞いは鳴りを潜めて遠慮がちに気遣われ、春日は根負けした。
「……失恋したんだよ」
「え」
長い沈黙とため息の後、春日から告げられた言葉にハンは硬直する。いい歳して失恋なんかで悩んでいたなんて、と思われたのだろう。そう自虐的に思いながら春日はスプーンに乗ったままだったじゃがいもを咀嚼した。
「…ですか…?」
「ん?」
「相手はどこの誰ですか!?私が知っている人間ですか!?い、いつから春日さんはその相手の事を──!」
突然まくし立てるハンに、今度は春日が呆気に取られる。興奮状態から我に返ったハンは態とらしく咳払いをした。
「…失礼しました。それで、そのお相手というのは──」
「悪ぃけど、その辺の詳しい話はちょっと…」
「…そう、ですか」
相手が誰なのかをやけに気にするハンに辟易しながらも返答を避ける。何せ相手というのは今、目の前に居る人物だ。春日はどうあっても正直に答える訳にはいかなかった。
拳を握りしめ、暫くわなわなと震えていたハンは何度か深呼吸を繰り返す。
「…春日さんから告白されて応じないなど、お相手は理想が高過ぎます」
どうやらハンは相手に本気で怒ってくれているようだった。そこまで言われると過大評価され過ぎていてむず痒いが、彼なりに精一杯慰めてくれているのだろう。この優しさに惹かれたのだと改めて自覚し、春日は苦笑いを浮かべた。
「ありがとな。けど…俺はそんな風に言ってもらえるような人間じゃねぇよ」
「っ、いえ!決してそんな事は…!」
「それに告白してフラれたって訳じゃねぇんだ」
「え?…で、では失恋というのは…?」
「相手に恋人がいたんだよ」
脳裏に焼き付いてしまった仲睦まじい美男美女の姿がチラついて、春日は目に涙の膜が張るのを誤魔化すように酒を呷る。いつも気丈に振る舞う男の泣き出しそうな姿にハンは目を見開いて驚くと、悔しそうに歯噛みした。
「…つまり、そのお相手は恋人が居るにも関わらず、敢えて春日さんに思わせぶりな態度を取って惑わせた、という事でしょうか?」
「違うって」
どうしても相手を悪者にしたいらしいハンに、春日は即座に否定する。
「俺が…恋人が居るのかどうかも知らずに、勝手に好きになったんだよ。…だから、相手の事を悪く言わないでやってくれ」
ハンは春日に想われていた事など気付いていないのだろう。だからこそ春日を庇い、徹底的に相手の方が悪いと主張する。それは素直に有難いのだが、本人とはいえ好きな相手を貶されるのは嫌だった。
「……失礼、しました」
春日が本気で誰かに恋慕していた事が分かったのか、ハンは謝罪をすると俯いて押し黙る。沈黙が気まずくて春日は残り半分程になったカレーをスプーンで掬って見せながら笑顔を作る。
「まぁ、終わっちまったもんは仕方ねぇしな!マスターのカレー食ったら元気出てきたし!やっぱ腹減ってると良くねぇよな!うん!」
事実ではあるものの、美味い美味いと少し大袈裟に言いながら春日はカレーを食べ切る。いつもより大きな声でご馳走様、と手を合わせた。無理をしているのは明白で、ハンはますます肩を落とす。
手持ち無沙汰になるのを恐れてか、春日は再びキッチンに入ると先程食べたカレーの皿を洗い始めた。食器用スポンジで皿を擦りながら、時々ハンの様子を盗み見る。上手く慰められなかった、とでも思っているのか俯いたまま何度もため息を吐いていた。
洗い終えた食器の戻し場所が分からず、皿をシンクに置いて春日は席に戻る。多分、マスターが戻ったらあの皿はもう一度洗われるのだろうが、ルーがこびり付いて中々落ちない、という事は防げる筈だ。
食器の汚れとは対照的に、未練を残したまま春日は隣の男に顔を向ける。ハンはカウンターに肘を置いて両手で頭を抱えていた。同調してくれているのだろうが、これではどちらが失恋したのか分からない。
「…春日さん!」
「うおっ!?」
意を決したようにハンは顔を上げて春日に向き直る。突然大きな声で名を呼ばれた春日は驚きで肩を跳ねさせた。
「…傷心する貴方に付け入るような真似をする事をお許し下さい。本当はもっと時間を掛けてからお伝えするつもりでした」
「はぇ…?」
ハンが何を言いたいのか理解出来ず、春日は間の抜けた声を出しながら何度も目を瞬かせる。
「失恋した、と言っても貴方の想いは未だにそのお相手に向いているのでしょう。…いつか…貴方がその方の事を過去の人だと思えるようになるまで私は待ちます。だから…!」
春日の膝に乗っていた右手を掴むと、ハンは両手でそれを握る。
「私と、お付き合いして下さい…!私は貴方の事が…好きなんです…!」
「え」
ハンは真っ直ぐと春日へ視線を向けて返事を待つ。普段の澄ました様子からは想像も出来ない必死な姿に、春日は暫く呆然としていた。
「……いや、あんた恋人いるよな?」
「はい?」
良くて言葉を濁され、悪ければ拒絶されるとしか考えていなかったハンは身に覚えのない質問に、思わず聞き返す。
「今日の昼頃、金髪の女の人と腕組みながら浜北公園の辺り歩いてただろ?」
「…あぁ、あれですか」
途端にハンの表情が曇る。ゆっくり春日の手を解放すると深く皺を刻んだ眉間を指で押さえた。
「あの女性は今回の護衛任務の対象だったんですが…やけに気に入られてしまいましてね。髪を下ろせだの腕を組ませろだのあれこれ指示されて、レンタル彼氏のように扱われたんですよ。本来は居る事も悟られぬように影から護衛したかったのですが……春日さん?」
余程、鬱憤が溜まっていたのかハンの口は流暢に嫌な思い出をため息と共に吐き出す。話を聞いている内に赤くなってきた顔を春日は両手で覆い隠した。恋人だと思っていた女性は護衛対象で、それを勝手に勘違いして泣きそうな程、落ち込んでしまった自分が恥ずかしい。顔から火が出そうだった。
告白に対しての反応、と考えるには少し遅めの赤面にハンは首を傾げる。自分はただ、あの女性は恋人ではないと伝えただけだ。考える内に、自分にとってあまりにも都合が良過ぎる答えに行き着いたハンは口元が緩みそうなのを何とか堪える。
「春日さん。失恋したお相手というのは、もしかして…」
「ぅわあああっ!!聞くなって!!」
耳まで赤くして春日が叫ぶ。防音対策が整った店舗内とはいえ、屋外に聞こえていないか不安になる声量だったがハンは怯まない。寧ろ逃がしてなるものか、と春日の手首を掴んで顔から引き剥がす。
「ぅわ、ちょっと、待っ…!」
「春日さん…教えてもらえませんか?」
甘えるように答えを求められ、春日は観念して目の前の男の名を口にした。
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