いつものカウンター席ではなく、ピアノ側の席に着いた春日はなるべく目立たないようにグラスを傾ける。今夜は珍しく春日の仲間たちではない、見知らぬ客たちでサバイバーは賑わっていた。若い二人の女性客がテーブル席で談笑し、サラリーマンらしき三人の男性客が仕事の悩みを吐露しながらカウンター席で飲んでいる。
店の入口を開けた瞬間は少し気まずさを感じたものだが、酒が入ると直ぐ慣れた。たまには仲間以外の客で賑わうサバイバーも悪くない。
「…いらっしゃい」
ドアベルと共に扉が開き、マスターが声を掛けた。今日は本当に客が多い日のようだ。また知らぬ人だろうかと考えながら、春日はつい来訪者に目をやる。
「よぉ」
「こんばんは、春日さん」
会えるとは思っていなかった仲間の姿に春日は小さく手を振った。女性客の一人が来店したハンの容姿にイケメンだと小さく、しかし興奮した様子で声を上げる。
「隣、良いですか?」
「おう。勿論良いぜ」
ハンが近付いてくるにつれて、ふわりと良い香りがした。酒の匂いとは違う、石鹸のような清潔感のある香りだ。もしかしたらシャワーでも浴びて来たのかもしれない。空いている左隣の席に座ると、ハンも春日と同じ酒を注文した。
「なぁ、乾杯しねぇか?」
「いいですよ」
ハンの元に酒が置かれるのと同時に、中身がもう半分ほどになってしまったグラスを差し出して春日が尋ねる。快く了承したハンは軽くグラスをぶつけ合わせた。隣の美形が動く度に爽やかな匂いが春日の鼻腔を擽る。
「…何か…あんた、良い匂いするな」
「フフ、ありがとうございます」
褒められて嬉しそうなハンは自分のポケットから細長い円柱状の容器を取り出した。化粧品のような見た目のそれを春日は不思議そうに見詰める。
「今日は香水を付けてまして」
「へぇ、いつも洒落たモン付けてんだな。流石イケメンだぜ」
ハンはアトマイザーを再びポケットにしまうと、苦笑いを浮かべてグラスに口を付けた。
「仕事の邪魔になるので普段は付けていないんですよ」
ハンは未だに裏社会の人間だ。汚れ仕事を請け負う事もある。そんな時、ハンにとって香水は不要どころか邪魔な物だ。対象に匂いで存在を勘づかれる可能性や、周囲の人間の記憶に残ってしまうリスクが増える。
「じゃあ休みの日だけ付けてんのか?」
「いえ」
ハンは自信に満ちた笑みを春日へ向ける。
「意中の相手を口説く時に、付けています」
昔、ホストクラブで磨いたであろう物言いに、様になるなと思いながら春日は笑う。整った容姿と聴きやすい声、それに香水の温かみのある香りが合わさり、ハンの魅力をより一層引き立てている。これで落とせない相手はいないだろうと思えてしまった。現に後ろの女性たちが先程から頻りに格好良いとはしゃいでいる。離れた席にいる初対面の相手があの有様だ。実際に口説かれる相手は胸をときめかせながらハンの一言一句を逃さないよう耳を傾けるだろう、と春日は自慢の妄想力を働かせた。
「…へっ、じゃあ今日はこれからその意中の相手を落としに行く…って訳だ」
物陰から見守りたい気持ちもあるが、明らかに邪魔だろう。流石に春日もそこまで野暮では無い。もし、相手をこの場に呼んでいるのなら速やかに支払いを済ませて退店しようと考えていた。
「少し、違いますね」
自分が関係あるとは露ほども思っていない春日の反応に、こみ上げてくる悔しさを抑えてハンは冷静に返す。
「今から貴方という意中の相手を口説き落とすんですよ」
「……へ?」
驚きで口を開いたまま、春日は瞬きを繰り返す。真意を勘繰るようにハンの顔を覗き込むが、冗談には見えなかった。
「驚いた表情も愛らしいですね」
「…えーと、酔ってんのか?」
「酔ってません」
即座に否定され、春日は視線を彷徨わせる。目の前の整った顔を見ていられない。気まずさを誤魔化す為の酒を飲む事すら出来ずにいると、テーブルに置かれた春日の無骨な手にハンの手が重ねられた。肩を跳ねさせ、友人に向き直ると真剣な瞳から目が逸らせなくなる。気付けばハンが纏う香りは清潔感を感じるものから、官能的で柔らかな甘さのある香りに変わっていた。
「ちょっ…ちょっと、タンマ…!」
「駄目です。待てません」
何とか逃げ道を作ろうと思考を巡らせる春日の訴えをハンが退ける。
「私は…いつも貴方を想っています」
考える時間など与えないとばかりに、ハンは抱え続けた自分も想いを伝える。
「どうか、このまま私の言葉に頷いてください」
重ねていた春日の手をハンは優しく包み込むように握る。ただでさえ煩かった春日の心拍数がますます速く、大きくなっていく。
「私とお付き合いして頂けませんか?」
何も言えないまま、小さく遠慮がちに春日は頷いた。罠のような魅力的な香りに、目眩がしそうだった。
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