急がなければ、と思いながら目的地まで走る。もう待ち合わせの時間はとうに過ぎていた。角を曲がって漸く恋人の姿が見えた。近付いてくるハンに気付いた春日は上機嫌で手を振り返す。どうやら怒ってはいないらしい。つくづく優しい人だ。
目の前まで辿り着き、謝罪もそこそこに恋人の手を握る。行きましょう、とハンが声を掛けて春日の隣に並んだ時だった。
耳を劈くような銃声。発砲者の位置を探る為にハンが周囲を警戒するのと同時に恋人の手から力が抜けていく。まさか、と見開いたハンの目に映ったのは額から血を流し、糸が切れた操り人形のように倒れていく春日の姿だった。
代わりになるどころか見る事すら叶わなかった筈の主の死に様と重なる。誰が、どうして春日を、という疑問を置いてハンは膝をつき、恋人を抱き起こす。血液が循環しなくなった身体は酷く重かった。
自分の速く喧しい心音で目が覚めた。眼前には見慣れた二段ベッドの底板。部屋が暑い訳でもないのに全身にじっとりとした嫌な汗をかき、呼吸は短くて浅い。まざまざと見せ付けられた恋人の死に様の所為で、先程のは現実ではなく夢だったのだと理解するまで時間を要した。
現実で走った時よりも乱れた息を整えながらハンは横に腕を伸ばす。だが、狭いベッドだというのに手が恋人に触れる事はなかった。代わりに温かみの無いシーツの感触に、ハンは青ざめて飛び起きる。
まだ窓から差し込む光は弱々しく、朝と言うには早過ぎる時間の筈だ。こんな時間から恋人は自分を置いて何処へ行ったのだろうか。
床に脱ぎ散らかしていた衣服を拾い上げて素早く纏うと、ハンは古ぼけた暖簾をくぐった。
「…おっ、おはよーさん」
ソファや不揃いな椅子でテーブルを囲んだリビング代わりの場所に春日は座っていた。指の間に煙草を挟み、気の抜けた表情と声で挨拶する。あまりにも普段通りの恋人の姿にハンは安堵の息を吐くと、その場にしゃがみこんだ。
「どっ、どうした!?」
服を着込んで慌てた様子だったので、てっきり恋人が急な呼び出しを受けたと思っていた春日は動揺しながら腰を上げる。仕事絡みでなければ、直ぐに春日の傍に寄ってくるというのに今日はそれも無い。まだ長い煙草を灰皿に置くと、春日は急いで恋人に駆け寄った。
「ハン・ジュンギ!どうしたんだ!?具合悪いのか!?」
焦りの表情を浮かべながら春日はハンに近付き、屈んで肩に手を添える。問い掛けに、銀色の髪が擦れ合う音を立てながら首が左右に揺れた。
「…立てるか?」
ハンは小さく頷くと、項垂れながらも立ち上がる。同じように春日も立ち、肩に添えていた手を背中へ移動させた。本来なら手から伝わってくる筈の恋人の体温が、自らの纏う分厚いコートの所為で分からない。
「なぁ、大丈夫か…って、ぅおわぁあ!?」
様子のおかしい恋人を気遣っていた春日は突如その恋人から抱き締められ驚愕の声を上げた。慌てていたが仕事では無く、元気が無いが体調不良でも無い。理由が分からず首を傾げている春日の存在を確かめるように、ハンは腕の力を強めた。何も着けていない掌に触れる恋人の背が温かい。春日の髪や首元に鼻を埋め、ハンは恋人の匂いを吸い込んだ。擽ってぇ、と言いながらも春日はハンを振りほどかない。
「…貴方を喪う夢を見ました」
「……そうか」
先程からハンが気落ちしている理由に漸く合点がいった。春日はそれ以上何も言わずに、幼い子供をあやすような手付きでトントンと恋人の背中を優しく叩く。
「夢から覚めても...傍に貴方が居なくて...」
「...悪ぃな、目ぇ覚めちまってよ。ちょっと煙草吸ってたんだ」
普段は決して見せようとしない弱気なハンの姿に、つい可愛いと思ってしまう。ハン・ジュンギのイメージにそぐわないから、という理由で本人は嫌なのだろうが、春日としてはこの年下の恋人をいつも甘やかしたいという気持ちがある。
「…独りに、しないでください」
「おう。...ごめんな?」
よしよし、と言いながら春日は銀糸のような髪を撫でた。流石に子供扱いされている気がしたのか、ハンは少し拗ねた顔を上げる。どちらともなく唇を重ねると、漸くハンは表情を綻ばせた。
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