心地良い香りにハンは恋人の耳元に顔を寄せた。二人でソファに座り、背後からハンに抱き締められたままゲームに勤しんでいた春日は擽ったさに何事かと振り返る。
まだ夜と言うには早く、春日が住むアパートの窓からは夕日が差し込んでいた。時間が出来たので会いに行く、と事前に連絡を受けていたので色々と準備は済ませているが、まだベッドに縺れ込むには早過ぎないかと春日は緊張で身体を固くする。
「...良い香りがしますね。香水ですか?」
普段、春日は香水を付けない。珍しい事もあるものだと思いながらハンは恋人が纏っている香りを楽しむ。自分が直ぐに認識できる匂いなど血や硝煙くらいで、使われている香料が何かまでは分からないが、好きな匂いだ。爽やかでほんのり甘さのある香りが春日に似合っている。
「あぁ、貰いモンなんだ」
春日の胸や腹を撫で回していたハンの動きがピタリと止まる。確かに珍しいとは思ったが、貰い物とは思わなかった。動揺するハンを他所に春日はポーズ画面を解除してゲームに戻る。
「誰から、ですか?」
青筋が立ちそうなのを堪えながら、ハンは冷静を装って尋ねる。渡したのが仲間たちならまだ良い。だとしても後日、どういう意図で送ったのかを問い質すが。
「調香師だっていうネーチャンから」
数日前の事だ。しつこく女性に言い寄っていた男たちを春日はいつも通り、親切心と腕っぷしで追い払った。礼がしたいと女性が勤める香水の専門店まで半ば強引に連れて行かれ、あれこれと簡単な質問を受けた。なんでも、質問は香水作りに必要なのだという。香水は付けないのだと伝える暇もなく、女性は見慣れないカタカナが書かれた瓶を選んで楽しそうに調合していく。試行錯誤を繰り返し、ようやく完成した香水は礼として貰ってほしいと渡され、春日は有難く受け取った。
「...なるほど、それで」
一連の流れを説明され、ハンは少し不服そうに相槌を打った。つまり、お人好しな恋人が懲りもせず厄介事に首を突っ込み、他者から好かれて帰ってきたという話だ。その優しさを愛おしい、魅力的だと思う反面、自分だけに注いではくれないかという独占欲が湧き上がってくる。
「俺をイメージして作ってくれたんだと」
ハンは春日を抱き締める腕に力を入れ、もう一度深く息を吸い込んだ。時間が経ったからか甘い香りが増している。たかだか数時間交流しただけの人間に春日の何が分かる、とは思うものの、つい先ほど賞賛した口でそんな事は言えなかった。
押し黙った恋人を不思議に思った春日はセーブをするとゲーム機の電源を切る。もしやゲームばかりで拗ねてしまったのだろうかと気にしながら、自分を離さないハンの腕を撫でた。
「...どうした?」
「いえ...モテる恋人を持つと気苦労が絶えないなと思いまして」
「何だよそれ、あんたが言うのか?」
自分なんかより、ハンの方が余程モテるだろうと春日は笑う。恋人の相変わらず低い自己評価に、ハンは痛み出すこめかみを押さえた。自分に言い寄ってくる人間など、どうせ容姿目当ての薄っぺらい好意しか持ち合わせていない。逆に春日に擦り寄る人間は皆、彼の人柄に惹かれて好意を向けるというのに。
「私は丁重にお断りしていますから」
それより、とハンは続ける。
「春日さんは誰彼構わず愛嬌を振り撒くから心配です」
無意識に他者を誑し込むから、この恋人は恐ろしい。ハンは付き合っている相手が多方面から愛されているのを見て、平然としていられるほど心が広くは無い。いつか、誰かに手を引かれて自分の元から去ってしまうのではという憂いを抱き続けている。
「...人を浮気者みたいに言うなよ」
ようやく恋人が嫉妬している事に気付いた春日は一度ソファから腰を上げると、ハンと向かい合うように足に跨る。照れくさいのか頬が赤く染まっていた。
「俺が好きなのはあんただけだからな」
異論は認めないとでも言うように春日はそのままハンの唇を奪う。ただ重ねただけで離れようとした頭を押さえつけ、ハンは舌を捩じ込んだ。
「ん"ッ!んんぅッ〜〜ッ!!」
予想外の事に逃げる春日の舌を捕まえ、執拗に絡め取る。本当に嫌なら自分を殴り飛ばせば良い、とハンは常々思っている。力は春日の方が上なのに、そうしないから都合よく解釈して好き勝手してしまう。
「ッ...はぁッ...は、ぁ」
キスから解放してやると息を切らせた春日と目が合った。かと思えば、表情を隠すようにハンの背に腕を回し、肩に顔を埋める。体温が上がったからか、耳裏に付けたであろう香水の甘い官能的な香りが広がった。
そういえば、とハンは口を開く。
「嗅覚は記憶と強く結び付いているそうです」
「?」
不思議そうに顔を上げた春日を、ハンは抱き締め直す。
「だから先程のご自身の言葉、忘れないでくださいね」
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