彼に恋をした時のことは、ほとんど霞がかってあやふやで思い出せない。確かに俺はあの迷宮で強烈に恋をしたはずなのに、恋人同士になった今でもはやる心ばかりが先行して、一番大切な瞬間だけが焼き切れてしまったようなのだ。だって思いだせるあの人は光を背にしていて、その涙すら朝露のように輝いていて、俺の目を貫いているんだから。
そう、あの人は光だった。目を焼く光。まぶしすぎて、まばたきの瞬間に些細だが重大な変化を見逃してしまうような光。めくらまし。とにかく、俺にとってあの人――ミスルンという男はその存在だけで俺を盲目にしてしまった。もう逃げられない。足を進めるごとに俺は彼の中に沈み、あとは溺れるだけだ。今も俺は彼に溺れている。長命種の彼を不幸にすると分かって溺れている。溺れながら見る水面は泡で埋め尽くされ何も見えなくて、ただ彼の気配だけを感じる。そして彼に溺れて息絶えるとき、俺はそれを幸福と思うのだ。
ミスルンさんに口付けながら、俺はベッドとともにしつらえられた天蓋から伸びるカーテンを解いた。それはサイドテーブルに置いたランプの灯りを消してしまったけれど、俺は夜目がきくたちだったから、彼の輪郭を辿るのに苦労はしなかった。それに、彼の身体のラインがどう滑らかなのかは手が覚えてしまっていた。ミスルンさんがどこで感じ入るのか、俺はこの数ヶ月で覚えてしまっていた。
彼の欲望を呼び起こしたのが他でもない自分だということに、俺は喜んでいた。まるで彼に第二の性を与えたような気すらした。自分がミスルンさんを作り替えてしまったことに、傲慢にも喜びを感じていた。
「カブルー……」
切なげに俺を呼ぶ声は、でも欲望に彩られている。薄闇の中でも最も深い色をした瞳は俺を見つめ、さざなみのようにゆらめいている。俺は何度もその瞳にキスをして、彼の顔中にキスをして、身体中に残る、自分で自分を傷つけたのであろう引き攣れを舐める。赤く火照った傷跡は敏感で、俺が舌でなぞる度腰が震えた。ミスルンさんの過去に触れていることに、俺は麻薬を吸ったみたいに興奮していた。
そんなふうに彼に溺れるうちに俺たちは繋がって、やがて朝を迎える。朝日を拒む天蓋のベッドの中で、朝食の準備ができたと使用人がやって来るまで抱き合って余韻に浸る。その時初めて、俺は、この人が一緒に溺れていてくれたと知るのだった。朝日の中で、夜の香りを嗅ぎ、安心するのだった。
ミスルンさんが、果たして俺のことをどう思っているのかは知らない。ただ、最初のうちは隠していた傷跡を自分から差し出すようになった時、俺は彼に初めて求められた気になった。それが勘違いかどうかはまだ分からない。ミスルンさんは表情が硬い人だったから、笑みを浮かべるようにはなったものの、まだ自分の中の苦しい何かを押さえ込んでいるような人だったから。
「お前と初めて会った時の夢を見た」
「迷宮の夢を?」
朝になって衣をまとう頃、ミスルンさんはそう言いながら髪を手櫛でといた。俺はそれを聞きながら、ミスルンさんに恋をした時のことを思い出そうとして、やはり何かがまぶしくて失敗した。相変わらず思い出の中のミスルンさんは光で薄れ、記憶として残っているはずなのに曖昧だ。
「あぁ、昨日まで潜っていたからかもしれない」
「それで、俺はどんなでした? あなたを悦ばせられた?」
俺が夜を揶揄してそう尋ねると、ミスルンさんは呆れた顔をしてからこう言った。
「最初のうち、お前はもっと、昔の私に近いものだと思ってた」
「他人を見下す高慢ちきな?」
「そうじゃない。何かを失った目をしてると思ったんだ」
「俺が母さんや友だちを亡くしたことを見抜いてたんですか?」
俺はミスルンさんの髪を撫で、少しだけ日に焼けた赤い首筋をなぞる。するとミスルンさんはくすぐったそうに腰を引いて、こう続けた。
「分からない。でもなんとなく、何かが近づいてくる気がした。思えばあれがお前に初めて抱いた不思議な感情の一つだったよ」
「へぇ、恋じゃないんですか?」
「分からない、あの時の私は、欲望を失って枯れた木みたいだったから」
そう言うミスルンさんが肌を覆ってゆくのを見つめ、俺はようやく起き上がる。そろそろ、俺もここを出なきゃならない。でも、彼が俺に最初に抱いた感情は何だったのだろう。俺はそれを尋ねたくて、けれど聞けなくて、黙々と服を着込んだ。
「じゃあ何度でも夢で俺に出会って、芽生えた欲望でその感情を思い出して俺に教えて」
「何度でもお前に出会って、告白を受けろって?」
ミスルンさんがからかうように尋ねる。俺はそれに何も言えなくなってしまい、そうですね、と短く答えるだけだった。
ミスルンさんは今日、俺とともに黄金城を訪ねることになっている。彼は探索した自然迷宮の報告に行くのだ。同じ馬車に乗って、夜の空気を薄皮一枚だけまとって。
「さぁ、そろそろあなた以外も食べないと腹が減ってきました」
「私もだ」
ミスルンさんがカーテンを開け、外界から差し込む光の中に立つ。俺はそれに、彼と出会った時のことを思い出す。そしてまた、深いところに流されたことを知る。
俺はミスルンさんに溺れている。きっと出会った時からずっと、これから先もずっと、俺は命を終えるまで、この人に溺れるのだ。それはきっと出会った時から決まっていた運命で、俺にはそれを変える術はない。魔術もきかない。
俺はただ沈んでゆく。深い海溝に落ちてゆく。空から差す、彼に似た銀色の光の中で、息ができない中、この人に酸素をもらって生きながらえるしかない。
でも、それにすら俺は溺れている。彼と繋いだ手を水に流されそうになりながら、俺はミスルンという男に溺れているのだ――ずっと前から、まるでここに至るまでに敷石が丁寧に敷き詰められていたみたいに彼を愛しているのだ。
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