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ぷの
2024-10-23 20:36:38
10144文字
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レイチュリ
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レイチュリワンウィーク - 恋煩い・やきもち
好き避けというにはちょっと重苦しい🦚の恋煩いとやり直しの話。
これはれっきとしたアベンチュリンの初恋だ。なにぶん初めてのことなので、勝手がわからない。
この気持ちを恋と自覚する前は良かった。レイシオに会えると嬉しい、顔が見えると嬉しい、声を聞くと嬉しい。しまいには名前を見聞きしただけで心が浮き立って、世界に感謝し全てに寛大になれる気がした。
自覚したきっかけは仕事中だった。レイシオ専用の着信の振動を感知して、アベンチュリンはふと口元をゆるめた。些細な変化だったはずだ。けれどそのときの取引相手は目敏かった。
『あら、イイ顔。私にもひと欠片くださらない?』
動揺して瞬きが増えたアベンチュリンを見て、上品な装いの老婆は、落ち着いた色の紅を引いた唇の端をくうっと吊り上げた。
『報酬は要らないわ、代金のかわりにお話を聞かせて』
ご冗談を、と返す前に端末の通知が鳴って、支払済みの安くない信用ポイントをまるごと返金された。余所事に気を取られた一瞬の無礼のせいで取引を破棄されたか。そんな初歩的なミスをするなんてと内心慌てたけれど、そうではなかった。お茶のおかわりを出され、茶菓子も追加され、向かいからずいっと身を乗り出した彼女は少女のような期待に満ちた顔をして、アベンチュリンが口を開くのを待っていた。どうやら悪い話の流れではないらしい。
取引を円滑に進められるならと考えたアベンチュリンは、無自覚だった恋心を売った。一見無邪気な老婆の話術に、いつのまにか根掘り葉掘り聞き出されていた。といっても特別なエピソードなんてなく、小さなことの積み重ねだ。その一つ一つを彼女は丁寧に洗浄して磨き、ころんころんとアベンチュリンの心の天秤の片方に乗せていった。やがて天秤は傾ききって限界を迎えた。
『あなた気づいてなかったのね。それはね、恋よ』
すぐには飲み込めずにいるアベンチュリンに向かって、老婆は嬉しそうに微笑んだ。恋心の発掘は楽しかった、おかげで若返ったと言い、また遊びに来てねと念を押された。絶対に、二度と、顔を合わせたくない。
後日、約束どおり品物は納品されたが、再び振り込むつもりだった信用ポイントは宙に浮いた。口座がなくなっていたのだ。連絡も取れなくなっていた。彼女との取引がカンパニーを挟まない個人的なもので良かった。こんな顛末、とてもじゃないが報告できない。
そんなふうに不慮の事故で恋を自覚してからも、浮かれ模様は続いていた。レイシオからメッセージが来れば、その辺の誰かに飲み物やスナックを奢った。通話をすれば、反芻して笑い声が漏れてしまいそうになるのを口の中を噛んで堪えた。おかげでしょっちゅう口内炎ができていた。それすら甘い余韻のように感じていたのだからお手上げだ。医者でも湯治でも治らないとはこのことか、つける薬もない。
そんなふうにふわふわしていたので、ご機嫌ですねと言われることがちょくちょくあった。気持ち悪いとトパーズに眉をひそめられることも。
しかし、その浮わついた期間はあまり長くは続かず、あるとき気分が一気に奈落に落ちた。レイシオがあまりにも美しく眩しく輝くので、自分の汚れて嫌な臭いを放つみすぼらしい実態が照らし出されてしまったのだ。釣り合う釣り合わないなどと考える次元ではない。
私用で会うなんてとてもできないし、仕事で一緒のときも同じ空間にいてはいけないと足が竦みそうになる有り様だった。声をかけないでくれ。こっちを見ないでくれ。いないものとして扱ってくれ。意識から閉め出してくれ。それでやっと息ができる。
しかしそんなことでは仕事にならない。レイシオと合うときは恋心を頑丈な箱に無理矢理押し込めて、鍵をかけて鎖でぐるぐる巻きにして凍らせて心の隅の隅に蹴飛ばした。それでも左手は無様に震えたので、左のポケットに音の出る硬い物を入れられなくなった。中で指がうろつかないようにハンカチを握ってやり過ごす。何もなしにきつく握ると手のひらに痕が残ってしまうから。
そんな状態でいながら、レイシオの顔を見るのも、声を聞くのも、名前を見聞きするのも、相変わらず嬉しかった。
彼が気に入りそうなものを見かけたら、写真におさめたり買い求めたりした。プレゼントするためではない。そんなふうに自分をレイシオの中に残したくはない。ただの、そう、グッズのようなものだ。
集めたものたちをベッドの横に並べて眺めていると、あっという間に朝が来た。小さな洞穴に祭壇を作り、禁止された神に祈る隠れ信者のようだ。其はこちらを見ていなくてよい。しがないしもべはただその存在に感謝を捧げたいだけなのだ。
隠れていれば穏やかでいられた期間もそう長くはなかった。うっかり顔を合わせてしまわないよう、レイシオが技術開発部に来ているときは絶対に周辺と通り道に近寄らないようになった。顔が見たくて用事をこしらえては近くをフラフラしていた頃とは大違いだ。
なぜなら、レイシオが自分以外の誰かとなごやかに過ごす姿を見たくなかったのだ。なんと、汚れて卑小な身なれど、いっぱしに嫉妬を覚えたのである。自分の都合でレイシオを避けているくせに、手に入れるどころか想いを明かす気もないくせに、誰のものにもなってほしくなかった。
相手のことを本当に好きなら幸せを願えるはず。そんな綺麗事はアベンチュリンには実装されていない。周回遅れの初恋に振り回されるビギナーにはまだまだ到達できない高次の概念である。であれば、見ないですむように己を遠ざける他ない。
カンパニーにレイシオが来る日をチェックして、出仕事を入れるか、オフィスから一歩も出なくて済むように調整した。その日だけは、部下たちも含めアベンチュリンの個室エリアへの入室申請は一切通さなかった。やるなら徹底的に、言い訳に使える機密ならいくらでも持っている。
それでも一緒の仕事だけは避けられない。物問いたげな様子をまるっと無視して、仕事以外の話をかわし続けた。自分に関心を向けるレイシオを感じて喜びに震えていながら、それをひた隠しにする。とてつもない労力だ。
レイシオに向ける凍結した態度とは裏腹に、恋心はすくすく肥え太り、どんどん醜くなってアベンチュリンを苛んだ。
いつか来るとわかってはいたが、はっきりとした肉欲を覚えた瞬間は最悪だった。ほとんど空の胃を絞るように吐き、いっそ罪悪感で死ねないだろうかと益体もないことを願った。
この中も外も余すところなく汚れきった体のほんの一部でも彼に触れたら、自分を通して奴隷を欲望のままに扱うクズどもの手垢が移りそうじゃないか。そんなことは絶対に許せない。けれど夢はアベンチュリンを裏切って、見てはいけない幻を見せてくる。
もうレイシオを思い出すよすがを近くに置くことはできず、端末の中身もベッドの回りも全て片づけた。夢を見たくなくて一睡もできない日が続いたが、それでは体がもたなくなり、何日かおきに薬を服用して意識を刈り取ることにした。
そこまで制御を失っていても、なればこそか、レイシオに関われて嬉しい気持ちは消えなかった。レイシオの顔も声も名前も、温かくて甘く、恋しくて愛おしかった。彼を欲しがる気持ちと彼の目の前から永遠に消えたい気持ちがカチカチとめまぐるしく切り替わり、荒波が立つ海のようにいつも胸の奥が不規則に揺れて、船酔いを起こしていた。
仕事に没頭することで多少意識が逸れるので、これ幸いと、積んでいた必須ではないタスクを片っ端からやっつけた。また、仕事を理由にして、メッセージの返信が遅れがちで簡潔になっていった。心の検閲官は頭の中で散らかる言葉を厳しく黒塗りにして、短い一言以外許さなかった。
この頃になると、レイシオとケンカしたのかと訊かれることが増えてきた。ケンカするほど仲良くないよと答えれば、相手は口をつぐんだ。心配はありがたいが、人の口からレイシオの名前を聞くのは苦痛だった。ジェイドからは苦言を頂戴した。しっかり体裁を整えなさいと。
アベンチュリンが無自覚にふわふわしだしてから早数ヵ月、なにかの拍子に表情が崩れても、もう誰も何かを言ってきたりはしない。レイシオと一緒の仕事が途切れて一月も間が空くことを、以前なら物足りなく思ったものなのに、今は楽になれるとしか感じなかった。レイシオが近くにいないときは少しだけ気を弛めていられる。
きっと、慣れない心の嵐に疲れ始めていたのだ。疲れて、すり減って、ある日粉々に崩れて海に沈み、なにもかもどうでもよくならないだろうか。そんな期待を抱き始めていた。それでも、自分で壊して捨てることはできなかった。自分の中からこの気持ちがなくなるなんて、想像もできなかった。
後ろから強い力で右腕を掴まれて、アベンチュリンはたたらを踏んだ。カンパニー社内のお昼時。混みあって乗れない下層階のエレベーターを待つのが面倒になって、関係者以外立入禁止の非常階段を使おうと重たい扉をくぐったところだった。高級幹部特権である。
さっきまでレイシオと交わしていた業務連絡のメッセージでエネルギーがパンパンだった。人目のないところで感情を表に出るがままにして、数十階分を早足で上がって発散しようと思っていた。
そんな思いつきを突然の狼藉に邪魔されて腹が立った。左手でポケットを探るが、中にあるはずのナイフがない。そうだ、場所を変えたんだった。別の手を考えながら振り返って相手を睨み上げ、アベンチュリンは凍りついた。
「階段を使う余裕があるなら少し時間を貰おうか、ギャンブラー」
やあ教授、君らしくなくずいぶん乱暴だね、腕に痕が残っちゃうよ。そんな台詞が浮かんだのは、何秒も経ってからだった。しかも凍った口は動いてくれず、初動はガタガタ。レイシオがアベンチュリンの態度を不審に思ったのが皺の寄った眉間から伝わってきた。
「なんだその顔色は」
違った。アベンチュリンの態度よりも不摂生を苦々しく思ったらしい。たしかに、ろくに食べもせず眠れもしない日が続いている。胸の奥の船酔いのせいで食欲はない。時間を見て無理にでも口に入れてはいるが、忙しくしているとつい忘れがちである。実際はほとんどが急がない仕事だけれど。それでもまあ、言い訳には便利なもので。
「ちょっと忙しくしていてね」
「君が多忙なのはいつものことだが、いくらなんでも詰め込みすぎでは?」
レイシオは腕を離してくれず、扉横の壁に寄せられて、壁に突いた腕の中に囲われてしまった。声が響く場所だから、顔を近づけて小声で話しかけられる。この距離はよくない。メイクは崩れていないはずだけれど、近くで見られるコンディションではない。すがるように左手でハンカチを握りしめた。
「心配は受け取ったよ。急いでいるから離してくれないか」
「断る。君に話がある」
ううん、ダメだなこれは。話をするまで一歩も引かない構えだ。強い眼差しはそれだけでこちらを拘束する力を持っているし、レイシオを傷つけて脱出することはできない。惚れた弱みである。
「落ち着いて、教授。2時、5時、9時。僕は覗き見されるなんてごめんだよ」
レイシオはアベンチュリンが示した監視カメラの内一つに目を向けると、思い切り舌打ちをした。お行儀が悪いレイシオにきゅんと胸が高鳴った。非常階段の吹き抜けに響いたエコーはいつもと違う彼を引き立てる演出のようだった。
「
……
その目」
「うん?」
「君を連れて帰っても?」
「はぁ? 僕は忙しいと言ってるじゃないか」
「それはポーズだと聞いた」
今度はアベンチュリンが舌打ちした。ジェイドだろう。これ以上放置できないと判断されたのだ。
「わかった、話を聞く。場所を変えよう」
外でする話ではないと言うので、アベンチュリンの家に招待することになった。といっても生活している家ではない。カンパニーの外で繋がりを持つ相手と会うときに使うセーフハウスだ。別人の名義だが実質アベンチュリンが所有している小さなビルの一フロアで、事務作業をするデスクと応接室と物置しかない。
「ここは飲み物も出せないんだ、悪いね。手短に済ませよう」
一人掛けのソファに深く腰かけて足を組んだアベンチュリンが、斜め前の二人掛けソファに座るレイシオに手を向けて促す。
「君の話をどうぞ」
レイシオは応接室の中をあらためるように見回した。テーブル一脚にソファが三脚、それ以外に家具はない。窓はスモーク仕様で外が見えず、壁には絵どころか掛け時計もない。見るべきものなどない、すべてがそっけない部屋だ。優先したのはセキュリティだけ。事務的な話をするには十分である。
切り出し方に迷っていた様子のレイシオが、ようやく口を開いた。
「誤解を恐れずに言えば、しばらく前から僕は、君に好意を向けられていると感じていた」
「わーお、自信家だね」
「僕に向けられる君の目に、たびたび特別な感情が乗っていた。しばらく避けられていて見かけなかったが、先程の非常階段でもそうだった。僕の気のせいなら、自惚れが過ぎると笑い飛ばしてくれて構わない」
アベンチュリンは笑わなかった。そのとおりなのだから、笑えるわけがない。
「答え合わせをしたいのかい?」
「いいや、そこは重要ではない。これは、君の様子がおかしいと気づいたきっかけだ。君がそんなに簡単に感情を表に晒すはずがない。そこで、君の最近の行動を洗うようジェイドに伝えた。彼女も違和感を抱いていたようで、すでに行動に移していた」
ジェイドまで動いていたなんて。となると、アベンチュリンは傍目にも相当異常であるということだ。
もちろん今が正常だとはとても言えないが、すべて恋のせいで片づくと思っていた。浮き沈みが激しいのも、気分が表に漏れているのも、体調を崩すのも、当たり前ではなくともない話ではない。いわゆる恋煩いというやつだ。けれど、その思い込みこそが異常だと指摘されてみれば、なるほどわからなくもない。
「あの日君が会った老婆は別人だった。本来君が会う予定だった人物は不審な遺体で発見されている。死亡推定時刻は君と会う前夜。君をこうした犯人も目的も引き続き調査中だ。僕が持っている情報はすべてジェイドから聞いたものだから、詳しくはそちらに確認してほしい」
アベンチュリンは頷いた。きな臭い話が出てきて、放置できない問題であると理解できた。こんな手で罠にかけてくる相手の心当たりは今のところない。
「今の君は、奇物によって植えつけられた感情に強く影響されている。僕はジェイドに頼まれて、君を奇物の影響から解放しにきた」
「僕にどんな感情を植えつけたって?」
「それは犯人と君にしかわからない。今、君を悩ませている感情だ」
胸に手を当てる。こうしている今もここで大波が荒れ狂っている。平静を装っているけれど、レイシオを前にして落ち着いていられる時間は長くない。
レイシオはテーブルの上に小さな丸いケースを置いて、キャップを開けた。アベンチュリンは黒い艶消しの金属でできたそれを手に取って眺める。リップバームだ。中身は乳白色。
「不審死した人物が持っていた奇物だ」
照明を映してとろりと光る表面はごく普通のリップにしか見えなかった。中身には触らず、伸ばされたレイシオの手にケースを渡す。レイシオは薬指でバームを掬った。
「君はもちろん知っていて買ったのだろうが、この奇物は唇に塗ることで特別な言葉の力を得る。効果が異なる何色かのセットだったが、現在の持ち主はバラバラだ。君が会った老婆が使ったものが感情を植えつける色、これは植えつけられた感情を消す色だそうだ。君が持っているものについては知らない。そこまでの情報しか僕には開示されていない」
レイシオの言うとおりと言いたいところだが、アベンチュリンは購入当時、その奇物の効果を知らなかった。噂レベルの話を聞いて手に入れようと決めてから、すべての調べがつく前に入手する機会がきてしまったのだ。持ち主が複数に別れていたので、まとめて買い取る交渉は叶わなかった。一つずつ買い求め、揃ったらカンパニーに持ち込むつもりでいた。あの日の老婆の気まぐれを怪しみはしたが、受け取った品物はたしかに本物だと確認できた。ならば大きな問題はない、そうやり過ごした結果がこれだ。あのときからすでに、アベンチュリンの正気はバランスを崩していたのかもしれない。
薬指がレイシオの唇に当てられて滑った。カサつきなどまるでない薄い皮膚をさらにしっとりと濡らす。アベンチュリンはそれをまともに見てしまった。
たちまち自己嫌悪が首をもたげ、淫夢から覚めた後のように語りかけてくる。なんて魅力的なんだろう。現実で触れたら、さぞ柔らかくて温かく、甘さに酔いしれるに違いない。おまえが目にするのもおこがましいものだ。汚れている体と心で踏み荒らせば、あの綺麗な生き物は汚物にまみれて地に落ちる。それが見たいんだろう。本当は自分と同じところに堕としたいんだろう。夢で何度そうした? おまえの醜い欲望の捌け口にされるとは憐れなものだ。
その声はこれまでと同じく繰り返しアベンチュリンの罪悪感を煽り、古傷を抉り、芋づる式に不安を暴いて、足を取って倒そうと追いたてる。暗示にかけられてはならない。そんなことは望んでいないと反論してはならない。この感情が人為的に植えられたものならば、心をひしぐ圧力とまともに対峙することこそ、相手の思惑通りだろう。耳を貸すな、これ以上無様にすり減らされてなるものか。
膨れあがった恋心のせいで、狂おしいほどレイシオに触れたかった。そして、そんな自分を消し去りたい。彼を損なうことが、彼に軽蔑されることが恐ろしい。衝動と反発に引っ掻き回されていてもレイシオの艶やかな唇から目が離せず、噛みしめた口内で血が滲む。
伏せられていたレイシオの目が、ひたりとアベンチュリンに当てられた。
「老婆は君になんと言った?」
問いの形をした命令で、記憶が引き出される。少女のように弾ませた朗らかな声で、まんまとかけられた呪いの言葉。
『それはね、恋よ。怖いでしょう』
記憶をなぞってこぼしたアベンチュリンの小さな呟きを、レイシオは一字一句逃さずに拾った。
「それは、恋ではない。怖いことなどなにもない」
レイシオの声は身体中を洗い流すように響いて、胸の中の海がぴたりと凪いだ。
アベンチュリンは胸を押さえた。船から降りた直後と同じで、固い地面に立ってもまだ揺れている気がする。もうここは安全だ。深呼吸をして、遠くを見ろ。
揺れの幻覚が収まるとともに、凝り固まった強迫観念がほろほろと溶けていく。肥大化した恋心と恐怖でがんじがらめにされていた心が、のびのびと自由になっていく。
名残惜しい。そう感じたのは、苦痛だけではなかったからだ。けれど虚構の感情は剥がれ落ち、跡形もなく消えてしまった。なくなってしまえば、それらがどんな気持ちだったのか言葉にすることもできなくなった。あんなにアベンチュリンをめちゃくちゃにしたというのに、実にあっけなかった。百年の恋も冷めるというのは、こういう感覚だろうか。厳密には冷めたわけではないけれど。
頭の中が異様にすっきりしている。大部分を占めてうるさく右往左往していた衝動がなくなり、静まり返った心の中は空虚だ。大きな疲労感が残っている。空腹と眠気がじわじわとわいてきた。心に続いて体が正常な活動をし始める。なんて単純にできているのだろう。
憑き物が落ちて呆けたようなアベンチュリンの様子を見届けて、レイシオは己の唇を親指で乱暴に拭った。奇物のケースに蓋をしてポケットにしまう。
「僕の用は済んだ。ジェイドに報告しに行く」
アベンチュリンは立ち上がろうとするレイシオの服を慌てて掴んで引き留めた。
「待って教授、僕も行く。一緒に行けば君もいろんな情報が取れるだろう。又聞きよりいいんじゃないかな」
「君はまず食事と睡眠を取れ。報告はその後でいい。ジェイドからもそう言われている」
レイシオの手がアベンチュリンの手を剥がそうとする。そうはさせまいとぎゅっと拳を握った。
少しくらい待ってほしい。こちとら今さっき正気を取り戻したところで、まだとっちらかった頭と心の整理がついていないのだ。なんとか時間を稼ぎたい。アベンチュリンの勘が、ここでレイシオとの距離感を取り戻しておけと声高に主張している。
「教授、助けてくれてありがとう。ついでにちょっとお願いがあるんだけど」
「今度にしてくれ」
先延ばしにしてはダメだ。自分のために、それからたぶん、レイシオのためにも。
アベンチュリンはレイシオの服を掴んだまま移動して正面に立つと、覆い被さるようにして狭いそこに両膝をついた。逃げるように上体を反らしたレイシオは、もう簡単には立ち上がれない。抵抗を忘れた両手を捕まえて指を絡めて握り込むと、レイシオは諦めてあさっての方に顔を向けた。下からその横顔を覗き込んで、アベンチュリンは目を細めた。
「今聞いて。だって君、泣きそうな顔をしてるじゃないか」
レイシオがアベンチュリンの目を見て汲み取ったように、アベンチュリンだってレイシオの発する信号からわかることがある。突き放す態度、拗ねた物言い、探し物はそこにはないと言うように逸らされる目線。
「君には関係ない」
「どう考えても関係あるだろ。そんな顔してないって悪あがきする?」
「そんな顔はしていない」
なげやりな答え方に、アベンチュリンはふつふつと沸いてきていた苛立ちを押さえるのをやめた。
「あのねえ、確認する前から決めつけるのは早計だ。僕は君と現状確認をしたい」
「僕はしたくない」
「あっそう! じゃあ誤解を恐れずに言わせてもらうけれど、君、僕のこと好きだろう。笑い飛ばすならどうぞ」
レイシオはいかにも苦々しく眉間に皺を寄せて、今日何度めかの舌打ちをした。それが答えだ。
「君のそれは消えないのかい、僕が奇物で同じことをしたら効くかな」
「生憎だが、奇物が消せるのは奇物の効果だけだ」
そう、奇物に消せるのは奇物が埋め込んだ感情だけ。アベンチュリンはそれを身をもって知っている。
老婆はアベンチュリンから恋心を引き出したが、何もないところに植えたのではない。芽が出ていたところに水をやったのだ。奇物によって不自然に増幅された恋心と植えつけられた恐怖は消えた。けれど最初の芽は残っている。それはアベンチュリン自身のものだから。奇物にやられる前からアベンチュリンは、世界に感謝し全てに寛大になれる浮かれた気分を知っていた。まあ、今はちょっと心が狭いけれども。
これはれっきとしたアベンチュリンの初恋だ。けれどここから先は二回目。恋心の育て方は前より上達しているだろう。スカスカになった胸の中はじきにまた埋まる。アベンチュリンが枯らさない限りは。
「そうだね。それを踏まえて、僕の目を見て」
力を込めてレイシオの手を握る。おさまらない苛立ちを乗せて、悲しみに曇る目をじっと見つめる。
あーあ、嫉妬なんてものを早くも再習得してしまった。ちょろくて可愛いレイシオが、消えたアベンチュリンの恋心の一部を失くした恋人みたいに惜しむせいで。
「ねえ、君を惹きつけたのは、この目じゃない?」
いくらでも面影を探せばいい。ここにあるものこそ本物だと思い知るまで、これから何度だって見せてあげよう。だからあんな幻のことはとっとと忘れて、一緒にやり直そうじゃないか。レイシオの失恋も、恋煩いも、あんな虚構にくれてやるものか。あれは恋じゃない。他でもない君がそう言ったんだから。
じっと見つめ続けて待つことしばらく。レイシオが恐る恐るといった様子でアベンチュリンを横目で見て、息を飲んだ。
ああ、キスしたいな。困ったことに、二度目はあれもこれも覚えが早すぎる。
レイシオに触れることはもう怖くない。アベンチュリンの想い人はそんなにやわではないと思い出したのだ。恐れているのは、レイシオに嫌われることだけ。
だからもし、初恋のやり直しが一人でする恋じゃなくなるなら、今度はもう本当に、怖いことなどなにもない。
「その目だ」
アベンチュリンは勝利した。心からあふれる喜びにまかせて満面の笑みを浮かべた。レイシオもつられて小さく笑った。可愛いね、顔が天才だ。
これはもうキスくらいしてもいいのでは。しない選択はないのでは。すっかりやる気満々になって、レイシオの唇を見つめる。さてどうしよう、ゆっくりと合意を得るか、勝手に盗んでしまおうか。
迷っているうちに、レイシオの顔が躊躇いがちに降りてきた。アベンチュリンはレイシオと繋いだ手の指を擦り合わせた。待ち受けているとわからせるようにしっかりと視線を絡めとってから、唇をゆるめて、潤んだ目を閉じた。
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