ぷの
2024-10-06 22:24:24
3655文字
Public レイチュリ
 

レイチュリワンウィーク - プロポーズ

プロポーズに至る前の熟成と、ゴールではない結婚の話。

「今日は記念日なんだけどな~。そろそろ起きないかい?」
 レイシオの左手の薬指を飾る指輪をくるくると回しながら、アベンチュリンは大事なことを羽のように軽く言った。いつもアベンチュリンより先に目覚めてルーティンをこなすレイシオだが、今日は珍しくベッドの上で朝寝坊を満喫しているところだった。昨晩の心地よい余韻を拾っては味わっていたのだ。再び微睡みに落ちそうなふわふわした耳に、その言葉はかろうじてひっかかった。
 意味を理解すると、レイシオはぱっちりと目を開いて固まった。心当たりがなかったからだ。今日は初めて出会った日でも、どちらかの誕生日でも、一緒に暮らし始めた日でもない。嘘のプロポーズをした日でも、本気のプロポーズをした日でも、揃いの指輪の刻印に入れた日付でもない。最後のは当たり前だ、それはわずか数日前だ。
 すぐにわからないときは、聞くのがいい。アベンチュリンは記念日を蔑ろにされて傷つくタイプではない。どちらかといえば蔑ろにする方である。何かを話したくて持ち出した話題なら、ヒントの一つくらいくれるだろう。自力で突き止めようとするのは遠回りになるだけで利が少ないと、今のレイシオは知っている。
「何の記念日だ?」
「レイシオから最初にプロポーズされたと僕が思っている日」
 回りくどい言い方をする。アベンチュリンはそう受け取ったけれど、レイシオにはそのつもりがなかったということだ。数年間の今日の日付の記憶を遡る。会えなかった年を除外すれば、該当するのはたった一度だった。
 昨年の今日、休暇を合わせて、レイシオの別荘にアベンチュリンを招いた。静けさを求めて入手した場所だから周辺に観光資源はなく、ほとんどの時間を家にこもってのんびりと、少しだけ爛れて過ごした。記憶に残ることといえば。
「姫リンゴの木を植えた」
「正解」
 庭が寂しいとアベンチュリンが言い出し、下調べのつもりで苗木を見に行って、変な勢いがついてその場で買って帰ってすぐに植えたのだった。
 不慣れな二人は汗と土にまみれながらシャベルとスコップを振るった。なんとか穴は掘れたもののいびつで、掻き出した土は辺りにいくつもの小山を作っていた。控えめに言って大惨事だ。できの悪さにどちらからともなく肩が震えだし、ひとしきり大笑いしてから、庭師も兼ねている老年の管理人を呼んだ。場所選びは合格、必要のないところまで荒らしたのは不合格。続きの指示だけを頼んで、片づけるところまでしっかりと、作業は最後まで二人でやりきった。
「僕は木を植えただけで満足だった。種類もなんでもよかった。君の領地の片隅にこっそり墓標を立てたつもりでいたんだ。面倒を見ると管理人さんが請け合ってくれたけど、実がなるまでに五年もかかる。赤いつやつやの小さな実の実物を見ることはないと思っていた」
 管理人は二人に姫リンゴの実の写真を見せて、食べられるから、なったら収穫しましょうと言った。アベンチュリンは楽しみだと笑顔で答えていたが、その顔は貼りつけた偽物だったのかもしれない。
「なのに君がさ、当たり前のことのように言ったんだ。実ができたら送って貰って一緒に食べよう。そのままだと美味しくないから、収穫が少なかったらジャムにして、多かったら果実酒にしようって。実るのを数年待った挙げ句、さらに寝かせる気でいる。そんなことを毎年繰り返そうとしてる。これはとんでもないと思った。未来の約束を矢継ぎ早にポンポン投げて積み上げてくるから、重みで潰れそうだった」
 レイシオの記憶にも、その約束はしっかり残っている。一緒に植えたのだから、その後の楽しみも当然一緒に味わうものだと思っていた。アベンチュリンがたった数年先にどこにもいないなんて、想像の外だった。
 彼の命を投げ捨てるような無茶な仕事ぶりは嫌と言うほど見てきたし、心に秘めた重たい決意も薄々察していたのに、なぜそう思ったのか。きっと、一緒に考えなしの作業をしたのが想像以上に楽しかったのだ。有り体にいえば、はしゃいでいた。共に何かをするなら、他の誰でもなくアベンチュリンが良かった。これからもずっと隣にいて、いろんなことを分け合えると思いたかった。
 アベンチュリンはすん、と鼻をすすった。
「夢や理想を語るんじゃなく、実現するものとして、何年も先の約束をしたことはそれまでなかった。なんでもないって顔を必死で作ったけど、嬉しくてどうにかなりそうだったよ。軽い気持ちで放られた空約束だろうけど十分に満たされた。これでいつ死んでも大丈夫だって変な自信がついたくらいに」
「君は……どうしてそうなる」
「まあまあ、去年の話だから。もしそこで終わっていたら、良い思い出になっていただろうね。ところが、僕の認識は間違っていた」
 話の行く先が見えず、レイシオは首をかしげた。今はプロポーズの話をしているのではなかったか。不穏な展開をほのめかす繋ぎに胸がざわつく。しかしそれは杞憂だった。
「その話は空約束なんかじゃなかったんだ。君、不定期に姫リンゴの木の成長記録を送ってくるだろう。管理人さんが気を利かせてくれてるのか、君が頼んだのか知らないけど、あれはずるい。季節ごとに変化しながら生き生きと育つ姿を見せられて、情がわかないはずがない。そりゃあ赤い実をつけた姿を見たくなるってものだ」
 レイシオが「見たか」と尋ねたら「見たよ」と気のない素振りで返事をしていたくせに、内心とのギャップがひどい。その気持ちを明かしてくれていたら、もっと早く指輪を贈れたろうに。自分の意気地のなさを棚に上げてそんなことを思ったのを見抜かれたのか、アベンチュリンは意地悪く目を細めてレイシオの指輪を指から抜いてしまった。まだ付けて数日、跡も残らない。
「写真が増えていくごとに、墓標のはずだった可愛い命が未来を見せてくる。まず五年、それから十年、木が寿命まで生きるとしたら、およそ三十年にもなる。僕が絶対に見られないと思っている未来を君は楽しみに温めて、逐一共有してくる。僕の中に恐ろしい願望が根を張っていくのをひしひしと感じた」
 言葉を切ったアベンチュリンははにかんで、摘まんだレイシオの指輪を通して何かを見た。それから、レイシオの体温が残るそれに口づけた。伏せた睫が濡れている。
「考えて、考え尽くして、観念した。生きてきて初めて、行き先に続くレールが見えた。明日どころか一秒先が真っ暗闇だったこともある僕の人生で、あんなに先が明るく開けて見えたことなんてない。どんなに回り道をしても絶対にこの軌道に戻って来ようと心に決めて――あの未来の約束は、僕の中で君がくれた最初のプロポーズになった」
 間違ってた? と聞かれて、レイシオは首を横に振った。まだ自覚していなかっただけで、その時の気持ちは後にプロポーズしたときと同じだ。したいことをただ口に出したか、言葉を選んで乞うたかの違いだけ。
「君もそのとき、実がゴロゴロしているジャムをリコッタチーズと一緒にバゲットに盛って食べてる様子が想像できたのか? 果実酒を何度か味見しながら、最適な浸かり具合を探すのも」
 レイシオがぽろぽろと願望をこぼすと、君の想像はやたら解像度が高いよねと笑われた。
「そうしたいと僕も思ったから、今このとおり。もし去年の今日がなかったら、間違いなくその後の君のプロポーズは断ったし、そもそもそんなことを言わせる隙を作らなかった」
 揃いの指輪を付けた左手が、レイシオの目の前で閃いた。
「なるほど、記念日だな」
「ね?」
 アベンチュリンに恭しく左手を取られる。抜き取られた指輪は、初めて指を通した日のようにゆっくりと細い指に導かれて戻ってきた。レイシオは起き上がり、アベンチュリンの左手を持ち上げて薬指に口づけを落とした。レイシオを目覚めさせることに成功したアベンチュリンもまた、機嫌良く跳ねるように起きた。アヒルの尾のように飛び出たレイシオの寝癖をちょいちょいといじる。
「では、今日は記念日らしく過ごそうか。果物を見繕ってきて、ジャムと果実酒を作ろう」
「楽しみにとっておかないの?」
「予行演習だ。来るべき本番までに、楽しみ方のバリエーションを蓄える日にする」
「いいね!」
 二人で追加する未来の約束に、アベンチュリンは破顔した。
 アベンチュリンは決めたと言ったが、レイシオはそれを鵜呑みにはしていない。彼が背負うものを甘く見るわけにはいかないからだ。契約も、指輪も、細い鎖の一つにすぎない。アベンチュリンがどうしようもなく遠くに行って迷子になってしまわないよう、楔を打ち込んで繋ぎ止めているだけだ。
 受け取ってくれるなら、いくらでも約束を重ねよう。それが道しるべになって、彼が生きようと進む道を照らすことを祈って。いつか、その身を取り巻く斥力をすべて振り払ったとき、ここに落ちてこい。そう繰り返しながらひたすらに信号を送るのだ。