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ぷの
2024-10-03 09:25:06
11854文字
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レイチュリ
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苦難と慈悲
ご都合キブツで味覚がおかしくなった🦚に🛁が給餌する話。
その日の昼過ぎ、アベンチュリンは技術開発部の緊急会議に召集された。
それはほとんど拉致だった。その辺で立ち話をしていたわけでも、休憩室で時間を潰していたわけでも、仮眠室でゴロゴロしていたわけでもない。早足で廊下を移動中に、二人がかりで有無を言わさずぐいぐいと腕を引っ張って連れて来られたのだ。相手の顔を知っていたから様子見をしたが、知らない顔だったら社内といえど叩きのめして彼らの上司に突き出しただろう。
緊急というからには関係者が即座に集められてきびきびと会議が始まると思っていたのに、放り込まれたのは誰もいない会議室だった。よその部の人間を約束もなく引っ張ってきておいて、段取りが悪すぎる。しかも、全く信じられない「ちょっと待っててください」の一言を置いて、拉致犯の二人はどこかに行ってしまった。
このまま会議室から出ていっても、誰も気づかないんじゃなかろうか。連れてこられたからには何か一つ土産を持ち帰りたい気持ちはあるものの、待たされている時間を無駄にするのはもったいない。折衷案で、元々予定していた部下たちとのブリーフィングに携帯端末からリモート参加中である。ズゴゴ。飲み進まない昼食代わりのゼリー飲料に蓋をして、ぽいと机の上に放った。今日はただでさえ面倒を抱えているのに、どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだと、くさくさした気分だ。
「君はまた食事を疎かにしているのか、ギャンブラー」
やっと現れた緊急会議の二人目の参加者は、まっとうな意見でアベンチュリンの荒んだ心を労った。生活態度を非難されているとはいえ、良識のある人間に接するとほっとする。
「インスタントコーヒーしかないが、よければ持ってこよう」
「お構いなく」
状況を確認すべく、イヤホンマイクをミュートにしてレイシオに問いかけた。
「教授、この会議がなんなのか知ってる? 廊下でいきなり拉致されたんだけど」
「昨日の夜、技術開発部で保管しているはずの奇物が手違いで作動し、巻き込まれた者が出た。その対処を検討する会議だと聞いている」
それなら、部外者どころか当事者だった。
「僕がその奇物に巻き込まれた被害者だよ
……
」
アベンチュリンは深くため息をついて、レイシオに礼を言った。少なくとも今日は奇物の対処を優先する必要がありそうだ。ミュートを解除して、ブリーフィングの参加者に今日これからの仕事を全部延期すると伝えた。アベンチュリンがリモート会議中だったことに気づいたレイシオは、離れた場所に移動して端末を操作し始めた。会議を終わらせたアベンチュリンがイヤホンマイクを外して合図すると、近づいてきて隣の椅子に腰かけた。
「それで、ここの会議はどうなっているんだ。まさかもう終わったのか?」
「それがねえ、待てど暮らせど他の人が来ないんだよ。教授が二人目」
部外者のアベンチュリンがこの広い会議室でリモート会議をしていたことに納得がいったらしい。レイシオは頭が痛いという顔を隠さなかった。
「それはすまない。ここの人間はこう、自分達の仕事に夢中になって物事を忘れるきらいがあって
……
」
「技術開発部が時間にルーズなのは伝統だから」
「面目ない」
顧問という肩書きがついているとはいえ外部の人間であるレイシオが謝る筋合いはないのに、律儀な男である。むしろ、部は違えど同じ会社に勤めるアベンチュリンの方がレイシオに謝るべきだろう。社内案件でよその代わりに頭を下げるなんて絶対に嫌だからしないけど。
レイシオが通話に呼ばれて席を立ったので、アベンチュリンは今日これからの予定を空けるため、スケジュールを調整することにした。ちょうど片づいたところで、通話を終えたレイシオがアベンチュリンに申し訳なさそうな顔を向けた。
「この会議は流れた」
「ええ
……
」
しかし、主催ではないレイシオに文句を言っても仕方がない。アベンチュリンは荷物を持って席を立った。体が空いたならオフィスに戻るかと思ったのだが、続くレイシオの言葉でそうではないことがわかった。
「僕が君の対応を担当することになった。この後の予定は?」
「今日一日は空けた」
「話が早くて助かる。頼みがあるんだが」
「なんだい?」
「大学に必要なものがある。往復する時間を省きたいから君もついてきてくれないか。作業は向こうでする」
「構わないよ」
レイシオと二人ならフットワークが軽い分早く片づく。構わないどころか、望むところである。
レイシオの研究室で待つこと一システム時間。戻ってきたレイシオは、暇潰しに仕事をしていたアベンチュリンの隣に椅子を並べ、作業に使うものをテーブルに広げた。
問題の奇物は、一枚の紙切れである。やや古びた薄い漉き紙のそれは、昨日の夜に技術開発部から回された書類に重なってアベンチュリンのところに紛れ込んできた。最初に見たとき、文章の書かれた何かであることしかわからず首を捻った。共感覚ビーコンを通しても内容が翻訳されなかったのである。処理した書類とともに返しにいって、それが奇物だと知った。体調におかしなところはないかと半ベソで確認されたが、そのときはまだ自覚しておらず、何かあったら連絡すると約束して終わった。
「まずは、これを読めるようにしよう」
レイシオは一台の端末をまっさらに初期化して、白衣の胸ポケットから取り出したメモリチップで見たことのないOSを起動した。そこに奇物を両面ともスキャンして取り込み、翻訳処理をかけ始めた。
「どうしてこんな手順を?」
「完全なオフラインで使うことを条件に、公表前の翻訳ツールを動かせる環境を借りてきた。この奇物のデータを渡すことになるが、各方面に話は通してある」
なるほど、大学に戻ったのはこれのためだったのだ。
「研究に必要なツールから作るのって、普通なのかい?」
「あるもので済むならそれに越したことはないが、どうしても必要で世の中にないなら、作るしかないな」
「そうやって特許が増えていくわけだね」
「ちょうど昨日、論文の相談を受けたから覚えていた。この言語も近しいから対応しているはず
……
よし」
スクリーンに映された文面は、たしかに読めるようになっていた。
『汝、苦難を受け入れ供物とせよ。其は汝に慈悲を与え、幸運をひとつ授けよう』
その一文に続いて、条項がつらつらと書かれている。最後に、左右に一つずつの署名欄。どうやら契約書のような体裁になっているらしい。神の代理人の名前を左に、供物を捧げる者の名前を右に、両方に名前を入れたときに奇物は発動する。
アベンチュリンはこの奇物の上に重なっていた書類にサインを書いた。それで奇物にもサインしたことになってしまった。そんな詐欺師の偽造みたいなやり口でサインを通さないで欲しい。
問題は、片方に名前を書いただけの状態でも、奇物の影響が表れたことだった。
「この奇物は武装考古学派が最近持ち帰ったもので、複数あるうちの一つを技術開発部に貸与していた。ある宗教で土着の神と取引をする儀式に使われていたと考えられている」
この奇物を通して神に供物を捧げると、幸運を得られる。とてもシンプルだ。条項によれば、幸運を得ると契約は終了して、すべての効果はなくなるとある。アベンチュリンは手渡された資料を流し読みしながらぼやいた。
「その手の幸運はもうお腹いっぱいなんだけどなあ」
己の愛し子にどこの馬の骨とも知れない神から手を出されて、地母神が機嫌を損ねないといいけど。アベンチュリンは口には出さずひとりごちて肩をすくめた。レイシオは説明をしながら別の端末で情報をまとめている。
「この奇物を破り捨てるとどうなる?」
「条項の通りだ。神を侮辱したとみなされ、名前を書いていた者は死んだ」
さすが博識学会、どう試したかはさて置き、前例があるようだ。条項は絶対。一度名前を書いたら最後、契約を終わらせるしかない。
テーブルに資料を投げて椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んで考えを巡らせる。アベンチュリンがサインをしたのは右の欄。せめて左の欄だったら、片側が宙ぶらりんのままでも放っておけたのにと悔やまれる。願いを叶える右の欄が埋まった状況で、左の欄に名前を書くメリットはない。カンパニーの高級幹部とはいえ、胡散臭い死刑囚のために怪しい奇物に名前を貸してくれる人間などいやしない。しかも何をしでかすかわからない人間の連帯保証人である。リスク以外ないものな。自分でもそう思う。
「苦難と慈悲とはなんだ? ずいぶん抽象的だが」
「契約者によって違うんじゃないかな。僕の場合、何を食べても飲んでも臭くて不味い。具体的には、腐ってドロドロになった肉の臭いと味がする」
想像したのか、レイシオの顔がひきつった。医者でもある彼は、そんな状態の肉を見たことはあるかもしれない。口に入れるどころか素手で触るのも考えられないだろうが。
アベンチュリンの首に刻印が押されてまもなくの飢えが常態だった頃、腐った肉を食べて食中毒を起こして死んだ奴隷を何人も見た。当時アベンチュリンも口には入れたが、身の危険を感じてすぐに吐き出した。それでも鼻と舌がしばらく痺れて使い物にならず、あの臭いと味は危険物としてしっかりインプットされている。その記憶から、奇物はアベンチュリンに対する『苦難』にあの味を選んだのかもしれない。
「それであんなものを飲んでいたのか」
ゼリー飲料のことなら普段からわりとお世話になっているのだが、その事実は沈黙で隠蔽した。レイシオが眉を動かしたので、察したかもしれない。必要な栄養が手っ取り早く摂れていいんだよ、胃が弱ってても受けつけるし、持ち歩きにも便利なんだ。どれもレイシオに響くフォローじゃない。今は奇物にやられてから丸一日ほど。飢えるのはまだ先とはいえ、水すら飲みにくいので、ちびちびやりながら水分補給と食事を兼ねようという選択だった。
「不味さに慣れたら、まともなものも食べるよ」
レイシオがフンッと鼻を鳴らしたのは、慣れるほど長引かせるつもりはないということか。アベンチュリンと話しながらも作業の手は止まらない。
解決法が見つかるまで、薬かなにかで嗅覚と味覚を麻痺させてみようか。効果があるか試してみるのはありだろう。ダメなら鼻と口が慣れるまで点滴を併用すればいい。薬物を盛られたときに気づけないのは痛手だが、この状態では滅多に飲食しないから逆に安全だ。会食などは全部断るしかない。
アベンチュリンはぼんやりとそんなことを思案しながら、スクリーンに映る奇物の文面を繰り返し読んで、抜け道がないか探していた。その横でレイシオがケースから奇物を取り出し、さらさらとキャップをしたままのペンでサインをしたのが視界の端に映った。
「は!?」
「本当に杜撰だな」
驚いて二の句が継げないアベンチュリンを置き去りにして、レイシオは平然としている。
奇物の上に二人の名前が血のような赤黒い色で表れた。そして、今まで書かれていなかった一文が浮かび上がった。
『汝の望みを言え』
「なにやってるんだよ、信じられない!」
「一番早い解決法だ」
この男は何回言ったら覚えるのだろう。自分の価値をよく考えろ、大切に慎重に扱えと口を酸っぱくして繰り返しているのに、時々こうやって軽はずみに投げ出してくる。アベンチュリンのためにそうしたなんて恐ろしいことは考えたくもないから、これは技術開発部の失態を速やかに解決するために違いないと言い聞かせた。
「はあ、やっちゃったものは仕方ない。早いところ何か当たり障りのない幸運を授けていただこう」
いくつか候補を挙げようとしたアベンチュリンの口を、レイシオの人差し指が止めた。
「待ってくれ、今出ている効果を確認して整理したい」
「ああ、構わないよ。気が済むまでやるといい」
そのときふわりと鼻をくすぐった甘い香りに、アベンチュリンは思わず深く息を吸い込んだ。香りの元は目の前にあるレイシオの手だ。
「なんだろう、すごくいい香りがする」
すんすんと繰り返し嗅ぐうちにたまらなくなって、アベンチュリンは口を開いた。唇の前に立てられた指先に顔を寄せて舌を絡め、口の中に呼び込む。肉の弾力と骨や関節の形を確かめるように甘噛みしながらゆっくり舌の腹で擦り、整えられた爪の輪郭を舌先で辿った。美味しいという感覚を思い出して、頭が痺れるような強い幸せを感じる。目を閉じて夢中でしゃぶっていたが、口に含んだ指がぴくりと震えたことで、アベンチュリンはハッと目と口を開いた。抜き取られる唾液まみれの指を見送って血の気が引いた。
「
……
っ、ごめん」
「奇物のせいだ、気にしなくていい。詳しく聞かせてくれ」
レイシオが冷静な研究者の顔で断言した。やらかしをなかったことにされたものの、アベンチュリンの罪悪感と恥ずかしさはそう簡単には消えてくれない。あっさりと理性を手放した理由に心当たりがあるものだから、後ろめたさで目がうろついた。気が済むまでなんて、言うんじゃなかった。
とはいえ、そんな自分のごちゃついた気持ちは一旦置いて、気遣いに応えないと。恥を忍んで今起こったことをありのまま話した。レイシオの指から甘くていい香りがしたこと。頭がぼんやりして、味わいたくて抗えなかったこと。口に入れたらとても美味しかったこと。
「味は?」
「薄めた桃の果汁に似てる、優しい甘さだった。脳への刺激は薬物に近い」
レイシオが歯を食いしばった。何を飲み込んだかは十分に察せられた。体感が似ていた薬物の名前をいくつか挙げる。レイシオはそれを検索して成分を確認すると、忌々しそうに眉間に皺を寄せた。
「長引かせるのは問題があるな」
「そうだね。依存しちゃったら困るな」
そう言いながら、アベンチュリンの視線はレイシオの指から離れない。ペロリと舌舐めずりをして目を細め、あふれてきた唾液をのみ込む。我ながら、獲物を前にした捕食者のようだ。会話しながら鼻を掠める呼気が甘くて、またじわじわと脳を蝕まれていく。こちらを見て渋い顔をしているレイシオが力ずくでどうにかなる相手でなくてよかった。
「もし今、指をやる代わりに言う通りにしろと言われたら、従うか?」
「簡単なことなら二つ返事だね」
「そういう使い方をしていたのかもしれないな」
『苦難』を課してから『慈悲』を与え、相手を意のままに従わせる。己の望みを叶えさせ、それで生じるあらゆる罪を着せるために。アベンチュリンの場合は味覚と嗅覚に異常をきたしているが、供物を捧げる者によって、苦痛の内容もそれを宥める方法も異なりそうだ。こんな飴と鞭で人を踏みつけにするのだから、神の代理人が聞いて呆れる。
「あのさ、試したいことがあるんだけど」
「なんだ?」
アベンチュリンはポケットからゼリー飲料を取り出した。昼に残したのは捨ててしまったが、食べられるときに食べようと未開封のものを持ち歩いていたのだ。
「これを君が食べさせてくれないか」
そう頼んだ自分の声がとても甘ったれたものだったので、アベンチュリンは意識して顔を引き締めた。奇物のせいで媚びる気持ちが生まれているとはいえ、あまり情けないところを見せたくはない。
レイシオはゼリー飲料を受け取るとキャップを外して、アベンチュリンの鼻に近づけて薬品のように嗅がせた。
「臭い」
「パッケージのままでは駄目か。少し待っていろ、準備する」
言うなりレイシオは手袋を脱いだ。続き部屋にある水道で手を洗って戻ってくると、アベンチュリンにタオルを手渡す。
「ありがとう。お皿かなにかない?」
「不要だ」
レイシオは一緒に取ってきた使い捨ての舌圧子を個包装から取り出した。スプーンではなく医療用品が出てくるところがレイシオらしい。今からやることは、アベンチュリンとしては食事の介助なのだが、彼の認識では検査か検証なのだ。一方的なお願いではなくなったことで、少し気が楽になった。仕事として興味をもって取り組んでくれるならそれに越したことはない。
レイシオは器のように窪ませた洗いたての手のひらに、ゼリー飲料を絞り出した。それを舌圧子で掬ってアベンチュリンの口元に近づける。
「口を開けろ」
「ん」
レイシオが皆まで言う前に、アベンチュリンは従順に口を開いていた。差し込まれるゼリーはよく知った安全な食べ物のにおいがする。舌に置かれたそれを、ゆっくりと味わって飲み込んだ。
「食べられる。なんなら、いつもより美味しい」
「いつも?」
おっと。目を逸らしたアベンチュリンをレイシオは深追いしなかった。
「次はここから君が掬って食べてみてくれ」
舌圧子を差し出される。それがやりたいから手のひらに出したのか。言われた通りアベンチュリンもレイシオの手からゼリーを掬って、恐る恐る口に運んだ。口に入れる前からきつい悪臭にツンと鼻をやられて涙が出そうだ。それでもレイシオに止められなかったので、我慢してひと舐めした。
「うえ
……
」
胃が縮み上がってひっくり返ったような動き方をした。体を丸め、唇を噛んで吐き気を堪える。手が震えて舌圧子を取り落としてしまった。美味しかった一口の直後だからか、それとも正式に慈悲を得たからか、苦痛と拒否反応が昼の比じゃない。胃液が逆流して喉を焼く。息を止めて生理的な衝動をねじ伏せ、滲んできた涙をタオルで押さえていると、レイシオが慌ててアベンチュリンの丸まった背中をさすってくれた。
「ギャンブラー、無理をするな。吐きたいなら吐け。僕の想像力が足りていなかった、本当に申し訳ない」
「
……
やり過ごせる、から、待って」
「いいから、落ち着くまで黙っていろ」
繰り返し背中をさすられるうちに、少しずつ苦しさが溶けて消えていく。これも慈悲の効果なら、縋らずにいられるわけがない。ゆっくり鼻で呼吸をしながら、近くに感じる甘い香りを吸い込んだ。
「肩を借りるね」
レイシオの肩に鼻筋を擦りつける。すうっと鼻についた悪臭が消えて、呼吸が楽になった。頬、顎、喉と順に触れさせてから、最後に肩に顎を乗せて軽く体重を預けた。胸と胃の不快感がとれて、ほう、と息をつく。
「はは、効きすぎる。今の僕は君の意のままだよ。どんなお願いをされても聞いちゃうだろうな」
体を離すと、レイシオはその瞳に強い後悔を滲ませてアベンチュリンを見ていた。
「もう大丈夫だよ、教授。お慈悲をありがとう、君に触ったらすっかり楽になった。ところでお願いがあるんだけど」
「なんでも言え」
レイシオは前のめりで承諾した。これじゃどちらが神の代理人だかわからない。アベンチュリンはレイシオの膝に手を置いて、残りのゼリーを乗せているレイシオの手を取った。レイシオの目を見つめる。
「これ全部、じかに飲んでもいい?」
「
……
いいだろう」
差し出された手のひらに顔を近づけると、えもいわれぬ香りが思考を霞ませる。舌を這わせるが、ゼリーが逃げてしまってなかなか口に入れられない。焦れたアベンチュリンはレイシオの手を掴んで、端に唇を当てて手のひらを傾けた。とろとろと流れ落ちてくるゼリーをこぼさないようにすべて啜って、残りをきれいに舐めとる。
「お腹が空いてるからしみるなあ」
唇を舐めてアベンチュリンが満足げに笑ったのとは対照的に、レイシオは怖い顔をしていた。
「何か調達してこよう」
「望みを言えば終わるんだからいらないよ。それより気持ち悪かったよね、ごめん。手を洗ってくるといい」
「全部奇物のせいだ、君は何も悪くない。手早く済ませるから、申し訳ないがあと少し時間をくれ」
「教授こそ気にしないで、君のせいじゃない。今日の君は謝ってばかりじゃないか」
アベンチュリンがそう言うと、レイシオは軽く眉尻を下げて苦笑した。
急いで手を洗って戻ってきたレイシオは、どこから見つけてきたのか贈答品のお菓子の缶を携えていた。缶の中の小さな個包装のパッケージを開けて、摘まんで取り出したクッキーをアベンチュリンの口に運ぶ。
「食べられそうなら口を開けろ。無理はしなくていい」
「ありがとう。うん、美味しいよ」
それからレイシオは、怒涛の勢いで記録を取り始めた。アベンチュリンに質問を投げかけ、何か答えると一つクッキーを差し出す。そうでないときも、口を開けて「あーん」と催促したら差し入れてくれた。サクサクの小さなクッキーはパッケージに書かれた通りバターとアーモンドの風味だった。それに加えて、レイシオの甘い香りが濃厚に。
口まで食べ物を運んでもらうのは、雛鳥になったようでなんだか楽しかった。この時間が終わらなければいいのにと思い始めたところで、無情にも缶は空になってしまった。お腹はかなりふくれたし、ほどなくしてレイシオの作業も終わったので、いいタイミングだったと言える。不届きなことを考えているのはアベンチュリンだけだ。
「待たせたな。君の望みを言ってくれ」
そういえば、食べさせてもらうのに夢中で考えるのを忘れていた。アベンチュリンは先に思いついていた簡単な望みから一つ選ぼうとして、やめた。素直に今一番欲しいものを告げる。
「喉が渇いた。水ちょうだい」
クッキーだけをひたすら食べて、口の中の水分が持っていかれたのだ。ボトルのキャップが開けやすいとか、そんな小さな幸運が起こればいい。「あーん」と口を開いて今日何度めかの催促のポーズをする。
レイシオは室内にある小さな冷蔵庫から水のボトルを取ってくると、キャップを捻って外した。ボトルを受け取ろうと伸ばしたアベンチュリンの手にキャップを握らせ、自らが水をあおる。アベンチュリンの顎をレイシオの手が支えて持ち上げ、唇が重なった。
こくり、こくりと、落ちてきた水を喉を鳴らして飲み込んだ。それは普通の水だった。においも味もない。そのはずなのに、アベンチュリンにはゼリーよりもクッキーよりも甘く感じられて、通りすぎていく喉と胸が焼けるようだった。
おかわりを求めたわけでもないのに、もう一度、レイシオはそれを繰り返した。
もし奇物の効果が残っていたらまたアベンチュリンが苦しむから、念のために口移しだなんて温情をかけてくれたんだろう。一度目はそうだとして、では確認もせず与えられた二度目は?
レイシオは軽々しくこんなことをしない。ましてや、相手がアベンチュリンだなんてありえない。仕事では良いパートナーだと思う。最初こそ衝突ばかりだったが、擦り合わせができてきた今はお互いの考えや行動をある程度先読みできる。時に分担し、時に横に並び、時に背中を預けられるようになった。けれど、プライベートではてんで親しくなれない。食べろ、寝ろ、静かにできないのかと、顔を会わせれば小言が飛び出す。まるで子どものような扱いだ。
そんな間柄では不自然な行動だった。きっとアベンチュリンのための幸運が、レイシオに強制的にらしくないことをさせてしまったのだ。奇物の幸運なのか、生来の幸運まで上乗せされたのかわからないけど、余計な事をしてくれたものだ。思ってもみない形で隠していたレイシオへの好意を暴露されて、羞恥と混乱でアベンチュリンはかあっと顔が熱くなった。それだけじゃなく、今日この研究室に来てからの行動を反芻すると、いたたまれなくて倒れそうだった。奇物でおかしくなっていたのを差し引いてもあんまりだ。なにが「あーん」だよ、この馬鹿!
アベンチュリンの望みが叶った結果、レイシオは奇物に操られて意に染まない行為をさせられてしまった。罪悪感で消えたい。非常に申し訳なかった。こんなことになるとわかっていたら、喉なんてカラカラで構わなかった。今からでも頭を冷やせと水をぶっかけてくれていい。嫌われて避けられるよりずっとマシだ。
恐る恐る見上げたレイシオに、アベンチュリンを拒否する様子はない。口移しで水をくれた時に添えられた片手はまだアベンチュリンに触れている。奇物の幸運はいつ終わるのか。効果が切れたら、すぐに怒りだすか冷たく拒絶されるに決まっている。その瞬間が来るのを恐れながら、けれど自分からは振りほどけない。
逆光で暗くなった葡萄酒色の瞳が至近距離まで近づいてきたので、鼻先が当たらないように首を傾けた。さらにゼロ距離まで詰められて、唇を動かしたら当たりそうだ。呼気が触れて愛撫されているみたいな気になってるなんて、知られたら死ぬ。
「足りたか?」
「う
……
まだ」
馬鹿でごめんなさい。アベンチュリンの茹でられた頭は容易く欲に負けた。顔を真っ赤にして目を泳がせながらついたわかりやすい嘘は見破られなかった。
レイシオはもう一度水をあおり、ボトルをテーブルに置いた。三度目。アベンチュリンが水を飲み込んだ後、口内の潤いを確かめるように舌を差し込まれて深く追われた。
「んんっ
……
ふっ、ぅン」
鼻にかかった声が出る。褒めるように顎の下を擽られて、ぞくぞくと体が震えた。これが終わったら謝らなくちゃ。幸運に巻き込んでごめんと。それから改めてお礼を言おう。水を飲ませてくれてありがとう、助かったよ。いや、無理があるだろ。今しているのはどう考えてもただのキスだ。舌を絡めるほどに、奇物の影響なんてもうどこにもないことがわかってしまう。アベンチュリンの頭が喜び浮かれていただけで、慈悲の甘さは最初から水の中になかったのだから。
レイシオの尊厳のために止めなければと思う自分と、千載一遇の機会を逃したくない自分が戦う。後者の圧勝だった。二度と修復不可能なまでに関係が壊れるかもしれないのに、目先の欲に抗えない。たった一度きりなら、貪れるだけ貪っておきたかった。
やがて、ちゅう、と粘りけのあるリップ音を立てて唇が離れた。濡れたところがひんやりして寂しい。
アベンチュリンが謝る隙もなく、レイシオは自分の顔を片手で覆って椅子に腰かけ、がっくりと俯いてしまった。
「魔が差した。すまない」
のみならず、先に謝られてしまった。
「謝るのは僕の方だよ」
「いいや、君は何も悪くない。僕が調子に乗った」
うん、そうかなと思ってはいた。アベンチュリンが誘ったとはいえ、いくらなんでも三度目はレイシオも空気に流されていた。気持ちよかったからいいよ、なんて言ったら余計に落ち込みそうで、アベンチュリンは賢く飲み込んだ。
「幸運の効果は、上手くごまかして報告してね」
「ごまかす必要はない。君は水を求めて、叶った」
「でも
……
」
「今日、あの冷蔵庫に水はないはずだった。昨日なくなって、補充は明後日の予定だったんだ。すでに届けられていたのは、イレギュラーだ」
それを聞いたアベンチュリンは、口をぎゅっと引き結んだ。もし幸運がそこで使われていたのなら、罪悪感はいらないということだろうか。
「水を飲ませてくれたのは、奇物のせいじゃなかった?」
「奇物は関係ない。僕が何を考えてああしたか知ったら、君は軽蔑するだろう」
軽蔑。誰が? アベンチュリンがレイシオを軽蔑するだって? ありえない。
レイシオはなかなか強めの自己嫌悪に陥っていて、小さな声でぶつぶつと自分を罵っている。小さすぎて内容はわからないそれを聞いていたら、逆にアベンチュリンは冷静になってきた。いつまでも終わらない念仏のような懺悔の暗さに反比例して、どんどん気分が上向いて楽しくなってくる。レイシオの気持ちが知りたい。今どこにいるのか、これから擦り合わせはできるのか。なんだか都合のいい話があるような気がして。
「君がしたかったのなら、いいよ」
「簡単に許さないでくれ、反省できない」
「そんなのしなくていい」
よしよしと頭を撫でたら、両手で顔を覆って丸まってしまった。可愛いね、レイシオ。なんて人の心を掴むのが上手なんだろう。
ふと横を見ると、いつの間にか奇物は粉々に崩れていた。そよ風が吹いても飛びそうな、灰のような姿になっている。アベンチュリンはパンと手を叩いた。
「よし、話は後にして、まずは仕事を片づけようか。壊れた奇物の写真を撮って、本体を失くさないようにパッキングしよう」
「そうしよう」
レイシオは仕事モードに戻って、顔を上げた。その目はまだ揺らいでいたけど、声はしゃっきりしていた。風を起こさないようにそうっと立ち上がったレイシオに奇物を任せて、アベンチュリンはその他を片付けることにした。
「あ、残りの水、飲んでいい?」
「後でな」
どうして今はダメなんだ、と思ったすぐ後に理由に思い至って、落ち着きを取り戻しつつあった顔が再び火照った。
「教授、まだ調子に乗ってる?」
「
……
すまない、今のは忘れてくれ」
「さっきからずっと君が可愛いから、無理かなあ」
デスクに両手を突いて何かを堪えているレイシオの背中を目に焼きつけて、にんまりと捕食者のように口角を吊り上げる。言われた通り水には口をつけずに、ボトルのキャップを閉めてテーブルの端に置いた。
「後でね。約束したからね」
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