はーっ。吐く息が白い。ホテルの部屋の効きすぎた暖房とちょっとしたいたずらでほてった体の熱を逃がしたくて、アベンチュリンはベランダに出ていた。柵に腕をかけてもたれ掛かり、煌々と光る青白い衛星を見上げる。
正式名称は味気ないシリアルナンバーだったと記憶している。この衛星は自転周期と公転周期の関係でいつも同じ面しか見られないことから、地元では『完璧な紳士』と呼ばれて親しまれている。ホテルが貸し出しているパジャマにジャケットを引っかけ、突っ掛けサンダル姿でベランダに出ている自分とは大違いだ。
手に持ったコーヒーをすする。だいぶぬるくなってしまったけれど、ほのかな湯気が頬に当たってしっとりと心地いい。そろそろ涼んできたかもしれない。ただ、どんなに外から冷やしても、内側でくべられる火はどうしようもなかった。
背後でバスルームのドアが開く音がした。頭を冷やすと言って風呂に入りにいったレイシオが出てきたのだ。入れ替わりでアベンチュリンもシャワーを浴びよう。それで今夜は寝てしまおう。私事で明日の仕事に差し支えるのはよろしくない。
スリッパの足音が近づいてくる。換気のために細く開けていた吐き出し窓が大きく開かれて、背中から呼び掛けられる。
「まだ外なのか、ギャンブラー。君も風呂に……」
語尾が途切れた。もしや何か起こったのかと、ジャケットのポケットを探りナイフの柄に手を掛けながら素早く振り返ったアベンチュリンは、窓枠に手を掛けて固まっているレイシオの顔を見上げた。
おや?
「ギャンブラー?」
「そうだよ……教授?」
なんともいえない違和感だった。ベランダに出る前に見たのと寸分違わぬ姿。それなのに、何かが違う。頭から爪先までじっくり眺めても違和感の正体は掴めず、アベンチュリンは首を傾げた。
「君の性別は、男性か?」
「そうだよ、ずっとそうだろう」
愕然としているレイシオに調子が狂う。ひとまず危険はなさそうなので、ナイフを手放した。空いた手で、引っ掻けただけのジャケットの合わせを閉じた。なんとなく、なんとなくだ。
部屋に入って、レイシオの提案で情報の擦り合わせを行った。
この星には仕事で来ていること。今日到着して一泊、明日の朝から会議に出席する予定だ。二人が同室なのは、ホテルの都合で予約していた二部屋が使えなくなり、ベッドルームが二つあるスイートルームに変更になったから。
続いて、アベンチュリンの性別。レイシオは、アベンチュリンは女性であると言う。しかし、アベンチュリンは生まれてからずっと男性だ。仕事の都合で女装をしたことはあるが、生物学的にも戸籍の上でも男性である。しかし、部屋の中に置いたままだったアベンチュリンの端末でカンパニーの社員証を確認すると、レイシオの言う通り女性だった。写真の顔は似ているが、明らかに骨格が違う。
「僕の方が異物ってことか」
並行世界が混線したのではとかなんとかレイシオは言っているけれど、理屈はどうでもいい。大切なのは、戻れるかどうかだ。
「もう一回ベランダに出たらいいかな。教授はまたバスルームに行ってもらって」
「試してみよう」
結論から言うと、駄目だった。何か条件が足りていないのか、それとももう戻れないのか。レイシオはコーヒーを二人分淹れて、アベンチュリンをソファに招いた。仕切り直しだ。
「もう一度、異常が起こるまでの君の行動をなぞってみよう。まず……」
レイシオは言いにくそうに言葉を切って口をつぐんだ。
「僕たちは、ホテルの部屋に入ってから……なんと言ったらいいか……」
「イチャイチャしてた」
「……そう、仲良くしていた」
アベンチュリンは吹き出した。どうして言葉を選んだ。もし仮説通り並行世界のアベンチュリンと入れ替わっているのだとしたら、あっちのレイシオも女性のアベンチュリンを前にこんなふうに戸惑っているのだろうか。可愛いからやめてほしい。今すぐ会いたい。
このレイシオは何から何までレイシオだけれど、ひとつだけ絶対的に違うところがある。目の前のアベンチュリンに対して熱がないのだ。なんなら少し警戒していて、関係が最初の頃に巻き戻ったみたいだ。お互いにホテルのパジャマを着て向かい合っているのに、顔見知りより少しマシ程度の距離感だった。そして、それが正しいと感じる。見た目も行動も同じだが、このレイシオはアベンチュリンの恋人のレイシオではない。他人の男だ。
「続けよう。君は暑いと言って、ベランダの窓を開けて外に出た。しばらく外で涼むと言うので、風邪をひかないようにジャケットを羽織れと渡した。それからコーヒーを淹れて差し入れた。その後バスルームへ。出てきたときには、ベランダに君がいた」
「オーケー、全くその通り」
新しく淹れてもらったコーヒーの香りを軽く吸い込む。同じだ。スイートルームだけあって、インスタントではなく、挽きたてを淹れて飲めると喜んでいた。
「僕は、ジャケットを羽織ってベランダの窓を細く閉じてから、柵に寄りかかってコーヒーを飲んでいた。水面に背後の空の衛星が映って、教授が話していた『完璧な紳士』の逸話を思い出した。裏側には彼にそっくりな淑女がいて、時々いたずらで入れ替わるのに、誰も気づかないと」
「ほう。こちらでは『完璧な淑女』だ。逸話の性別も逆になっている」
「へえ、面白いね。僕はその場で半回転ターンした。そして、『完璧な紳士』を見上げていたつもりだった。でもそれは『完璧な淑女』だったんだね。しばらくしたら君がバスルームから出てきて、鉢合わせたわけさ」
「なるほど」
「それじゃあ再現といこうか」
二人は揃ってカップを置いて立ち上がった。
「コーヒーありがとう。口をつけなくてごめん。僕はこれがいい」
持ってきた方のカップを手に取り、すっかり冷めたコーヒーを少しだけ口にする。
「そういうところが君らしい」
アベンチュリンはベランダの窓を開けて外へ出て、細く閉じた。窓越しに手を振ると、レイシオはバスルームに消えた。
柵に寄りかかかって、カップの水面に淑女を映す。人をからかって楽しかったかい、お二人さん。僕を僕のレイシオのところに帰してもらおうか。
くるりと半回転して、空を見上げた。青白い衛星は全く同じに見える。残りのコーヒーを飲み干した。
背後で窓が開く。振り返ったアベンチュリンは、両手を広げたレイシオに抱きついた。
「コーヒー飲んじゃった。おかわりあるだろう?」
顔中に降ってくる口づけを受け止めながら、アベンチュリンはすっかり収まっていた火が腹の奥に再び灯るのを感じて眉を下げた。
【おまけだよ!】
ぎゅうぎゅうと抱きしめられてカップを落としそうになり、慌てて持ち手に指を引っかけた。よかった、全部飲み干しておいて。
「おかえり」
「ほんの短い時間だったじゃないか」
「君が帰ってこなかったらと思うと恐ろしかった」
「そんなふうには見えなかったけど」
アベンチュリンが向こうのレイシオの態度を思い返しながらそう言うと、レイシオは体を離して露骨にムッと顔をしかめた。
「僕と向こうの僕は別人だ」
「いやいや、そのまんま君だったよ」
「違う。君もまるで違った」
「ええ……そりゃ僕は性別が違うし」
ぐりぐりと肩口に頭をすりつけられる。唇が首筋を辿り、不埒な手がジャケットの襟をくつろげて肩を抜く。
「これを着せておいてよかった。向こうの君が僕を見てジャケットの前をしっかり閉めたとき、心からそう思った」
あー、似たようなことしたな。行動パターンが同じということは、向こうの自分とレイシオの関係もこっちとほとんど変わらないということだろう。
「それは、残念だったね?」
「0点」
反対側の肩も同じようにして脱がされ、両腕を指先でくすぐりながら撫で下ろされると、ジャケットはストンと床に落ちた。カップはレイシオの指が器用にさらっていった。
「僕は君にしか興味がない」
「う、んっ」
口をふさがれて舌を絡めとられてしまっては、同意することもできやしない。向こうのレイシオだって、それはもう冷めたものだったよ。万が一戻れなかったら関係構築やり直しの危機だった。たとえどんなに仲良くなれたとしても、アベンチュリンにとって向こうのレイシオはこっちのレイシオの兄弟みたいな存在で、けっして恋人にはならなかっただろう。お互いに、たぶんそう思っていた。
レイシオの首に両腕を回して、しばらくゆるゆると舌を擦り合わせて口内を探索した。官能をくすぐるのが目的じゃなく、慣れ親しんだ手順を踏んで記憶と齟齬がないかお互いに確かめていた。
「はあ……落ち着いた?」
「まだだ」
「引きずるなあ。ねえ、向こうの僕はどんな感じだった? 証明写真は見たけど、話は聞かなかったから」
レイシオは軽く屈んだかと思うと、アベンチュリンを抱え上げた。通りすがりのサイドボードにカップを置いて、そのままバスルームへ。
「ちょっと、まさか」
「向こうの君は、君より一回り小柄で、一人称は『私』、声はメゾソプラノ、警戒心が強かった。それから、目がやや充血していて、隈ができていて、舌が薄かったな」
観察と比較の内容がとてもレイシオだった。後半なんて健康チェックだ。もし自分も向こうのレイシオに同じように見られていたのなら、正直引く。
「……待って、見てただけだろう? そもそも舌なんて見るもの?」
「指一本触れていないし適切な距離を保った。舌は普段から見ている。君は今、少しむくんでいるようだ」
「えっ、ちょっと見て差がわかるほど? それともさっきキスしたから? どっちにしろ嫌だ……!」
脱衣場に到着すると、腕から下ろされた。流れるようにアベンチュリンのパジャマのボタンをはずしていく。その手を掴んで止めた。
「今日はしないよ。回れ右して出ていくんだ」
「向こうの僕は、する」
さっきは別人だと言ったくせに。それにたぶん向こうのレイシオもしない。一回り小柄なら翌日に響かないわけがないからだ。
「諦めてくれ。明日の仕事に差し支える」
断固ノーである。大変不服そうに口を曲げて、譲歩に譲歩を重ねたと言わんばかりの歯切れの悪い小さな声で、レイシオは言った。
「挿れない」
「らしくないぞ、ベリタス・レイシオ。頭を冷やせよ。ハウス!」
アベンチュリンが出ていけとドアを示すと、しゅんと項垂れた耳と尾が見えるようだった。そういえばこのするしないのやり取り、ベランダに出る前にしてたのと同じじゃないか。あのときはアベンチュリンが誘う方で、レイシオに止められたのだけれど。
レイシオが出ていってすぐ、内鍵をかけた。
こっちはこっちで、バカになっているアベンチュリンの体を冷まさせてやらないといけないのに。まったく、頭が痛かった。
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