アベンチュリンは今、海というものを初めて間近に見ている。その知識を得たのはわずか数年前のことだった。海のある星を外から見たり、航空機から見下ろしたり、車の中から窓越しに見ることはあったが、生身で触れるほど近くに来たのは初めてだ。
故郷には、乾いた砂と土と風化した岩と、地面にしがみつくように生える背丈の低い草しかなかった。川は特定の時季に一時生まれて生き物たちを束の間潤し、すぐ消えてしまう。風は黄色く霞み、水溜まりのようなオアシスも黄色く濁っていた。アベンチュリンのくすんだ金髪はその世界では保護色だった。
ところが今目の前に広がる景色といったらどうだろう。空はくっきりと青く、その下の巨大な海は紺碧で、岸辺の近くは鮮やかなエメラルドグリーン。波に洗われ続ける濡れた岩肌は黒く、水面は光を反射してきらきら輝き、細かく砕いたガラスををざらざらとぶちまけたようだ。白い砂浜にいろんな貝殻が落ちていて、ことこと動いたと思ったらヤドカリがひょこりと足を出して歩きだす。砂漠のものとはまるで違うどこか透明感のある粒の大きな硬い砂は、踏むと足が沈んで水が滲み出す。
むせ返るような水棲の生き物のにおいと、べたべたする塩の風。その淵に立っているアベンチュリンの足を、打ち寄せる波がじわじわと砂に埋めていく。圧倒的な質量の水が押し寄せては引く音の大きさといったら。
これが、海。こんな途方もなく大きくて太刀打ちできないものに、ちっぽけな人間の体ひとつで入るなんて正気の沙汰じゃない。アベンチュリンはそう怖じ気づいたのに、海のある星生まれのレイシオはなんてことないと断言した。
ウェットスーツを着て足にフィンをつけ、小さな酸素ボンベを背負って頭にはゴーグル。ちゃっちゃと支度を終えたレイシオは、アベンチュリンに貸した長袖パーカーのフードを持ち上げて頭にかぶせた。
「では行ってくる。日差しがきついからあの木陰で待機していろ。水分も忘れずに取るんだ。いいな」
なんと、人の心配をする余裕まである。鼻を摘まんで耳抜きをすると、沖に向かってざぶざぶと歩いていき、躊躇いなく潜ってしまった。
レイシオが海に飲み込まれてしまったように感じて、アベンチュリンは落ち着かない。彼が潜った地点から目を離せない。二度と帰ってこないのではないか。アベンチュリンの恐れを煽るように、打ち寄せる波は力強く迫ってきて、引いていく波もまた悪魔の手のように砂浜を抉っていく。もしあんなところで死んでしまったら、遺体はきっと陸に帰れない。
ぶるりと体が震えた。パーカーの袖に隠れた左手で拳を握る。砂に埋もれていく自分の足も二度とここから離さないと呪われているような気がしてくる。馬鹿馬鹿しいと頭ではわかっていても。
アベンチュリンがここで竦んでいる間に、レイシオが海で他の生き物たちに食べられて水底に沈み、砂の一部になってしまったらどうしよう。そうなるのが自分ならまだ耐えられる。恐ろしいのは、彼を持っていかれること。
取り戻せない場所に、彼が行ってしまうこと。
「君はまったく人の言うことを聞かないな、ギャンブラー」
どれほど海面を見つめていただろうか。突然横から声をかけられて、アベンチュリンは勢いよくそちらを振り向いた。ゴーグルとフィンを片手にまとめてぶら下げ、空いた手で濡れた髪をかきあげながら近づいてきたレイシオは、ずっとその場に立ち尽くしていたアベンチュリンに呆れた顔をする。
「教授、どこから来たんだい。潜ったのはあの辺だったのに」
「ずっと見ていたのか? 潮に流されたんだ」
レイシオが指差した方からここまで続く足跡を見て、アベンチュリンの顔が青ざめた。こんな短時間であんなに流されるものなのか。現実が想像を軽々と超えてくる。予備知識で身構えていたはずなのに全然ショックを和らげてくれない。
「おかえり。無事でよかった、本当に」
「浅瀬に潜っただけで大袈裟だ。例のものは見つけた。ここを離れよう」
レイシオに手を引かれて歩き出すと、砂に埋もれたアベンチュリンの足はあっさりとその場から抜け出した。そのことに自分でも呆れるほどほっとしていた。
この常夏の水の惑星にやってきたのは、カンパニーが出資した研究データを持ち逃げした、とある研究所の愚かなスタッフを追ってのことだった。金に目が眩んだスタッフはそれを売ろうとしたが、データだけでなく命も取られそうになって、マイクロチップごと窓から海に身を投げた。
買い子は逃げて、海から引き上げられたスタッフは病院に搬送された。海の底に落ちたマイクロチップには幸いなことに追跡装置がついていたので、数日後に回収と内容確認のためアベンチュリンとレイシオが派遣された次第である。今回はレイシオの仕事に戦略的パートナーのアベンチュリンがサポートで着いてきた形だ。危険度が低いので、部下は伴っていない。
アベンチュリンは現地のダイバーを雇ってマイクロチップを回収するつもりだったのだが、レイシオは更なる持ち逃げや証拠隠滅を警戒して他者を入れたくないと言った。潜るための道具まで用意してあっては断る理由がない。有言実行の男は追跡装置の信号付近に自ら潜り、あっさりと回収を終わらせた。
拠点として押さえたコテージに戻ってシャワーを浴びたレイシオは、濡れた髪を乾かす間も惜しんでデータの中身を確認している。交代してシャワーを浴びてきたアベンチュリンはレイシオが開いているスクリーンを肩越しに覗き込みながら、彼の髪をタオルで優しく挟んで叩いて水気を拭き取ってやる。
「読んでも全然わからないや」
「それが正しい。これは研究内容と上っ面が似ているだけの破綻した理論だ。この研究に興味を持っている組織と内通者をあぶり出したいと依頼されて、数パターンのダミーを作った」
「そんな仕事もしてるのかい。どこかで見たやり口だなあ」
「戦略的パートナーから教わったものでね。中身で漏洩元も特定できた」
レイシオからアベンチュリンに報告書が送られてくる。それに目を通してサインをし、関係者に送信した。
「これで僕たちの仕事は終わりだね。君のおかげで帰りの便まで時間がたっぷり余った。しばらく遊んでいくかい? 疲れてるなら軽く寝てもいいし、リゾート地に相応しくだらだら酒盛りするのも大歓迎」
天候次第では海に潜ることが出来ないので、日程は数日押さえてあった。まさか初日の夕方に片付くとは思わなかった。帰りの便を変更するにしても数があまりないので、少なくとも今日はここに足止めだ。
コテージの開放的な吐き出し窓からすぐそこに海が見える。宿泊者専用のプライベートビーチで、他に人影は見えない。ここは昼に潜った海とは別の海水浴場の一角で、こちらの方が遠浅で波も穏やかに見える。それでもアベンチュリンは外に出て海に近づきたいとは思わなかった。自分の中に生じた不安と折り合いをつける時間が必要だと感じていた。
まだ日は落ちきっていないのに、いくつかの明るい星が空を飾り始めている。レイシオ好みの清潔で広いバスルームを重視したら、仕事だというのにこんな部屋になった。やることはやったのだから、余った時間で贅沢な休暇気分を味わうのも悪くないだろう。
「軽く食べて飲もう。髪を乾かしてくるから何か出してくれ」
「喜んで」
ドライヤーの音を聞きながら、キッチンにあるものを出していく。茹でたパスタに市販のソースを絡めただけの簡単なおつまみを作り、そのまま食べると塩気がちょうどいいドライトマトと乾燥させた野菜のチップスを皿に出し、黒胡椒の効いたチーズを一口サイズにカットして添える。移動中に見つけた無人販売のフルーツはまだ冷えていないので後にしよう。残念ながら今ある食材ではこんなものだ。保存のきくものを少量しか持ってきていない。帰りの便次第だが、明日の朝は早起きして港に立つ市に行ってみてもいいかもしれない。
用意したものをリビングのローテーブルに並べていたら、レイシオも戻ってきた。
「ワインを開けてくれる?」
「ああ。だがその前に」
レイシオの手がアベンチュリンの腰を持ち上げて、ソファにころんと転がした。あまりにも簡単に体を掬われたから、覆い被さる男の顔を見上げて目を丸くしてしまった。受け身を取れなかったのに座面に触れたどこも痛くない。
「え、なに?」
「日焼け止めも塗らずに膝から下を日に晒してぼんやり突っ立っていたバカを思い出してな」
レイシオは片手でアベンチュリンの両手を掴んで腹の上に縫い止めた。もう片方の手でプッシュボトルを押してとろりとした液体を手に取り、それをアベンチュリンの足に塗り始める。
「ひゃっ、冷た!」
「消炎ローションだ」
「それはわかるけど!」
起き上がろうとしても、腹を両手ごと押さえられて身動きが取れない。バタつかせた足も強い手の力で簡単に制圧された。膝丈のボトムの内側にローションで滑る手を入れられ、内腿をすうっと指でなぞられて体が跳ねる。なに楽しそうに笑ってんだ、この猥褻野郎。
「待って、やめてくれ、自分でやるから」
「明日火傷のようになりたくなければ大人しくしていろ」
「塗るって言ってる」
「君は自分のことになると雑だから任せておけない」
両足とも付け根から爪先まで念入りに重ね塗りをされる間、ローションとレイシオの手のひらとの温度差にアベンチュリンの呼吸はおおいに乱された。歯を食いしばって声を我慢しようとすると唇を舐められる。そうされると反射で弛んでしまう歯の間をレイシオの舌が割り、上顎をくすぐってアベンチュリンの頭をのけ反らせる。弦楽器を鳴らすように膝裏をくすぐられ、開いた声帯から甘えた声を出させられること数回。
「これでいいだろう」
「疲れた……」
「今後はしっかり日焼け対策をすることだな」
火種が燻る体を意地の悪い恋人に投げ出したい気持ちはあるが、そうなればまたシャワーを浴びる羽目になり、甘い拷問のようなひとときのやり直しだ。そのループはよろしくない。
よろしくないと思うのに。
「そんなに僕を心配したのか?」
鼻の頭にローションをぺちょりと付けられた。頬と額に薄く伸ばされ、頬をパックのように手のひらで包まれる。じんわりと温められて、昼からずっと震えっぱなしだった心がしっとりと宥められていく。
もっと安心したい。本音を差し出すから体温で返してほしい。海風で冷えきった体を中から温めて。お酒でも香辛料でもなく君にしかできないんだけど、どうかな? アベンチュリンが目で問いかけると、レイシオは熱を灯した目を細めた。
「心配なんて、するに決まってる。人が海に潜るのを初めて見たんだから」
「そうだったのか」
それだけの理由で心配なんてするわけがない。海に入ったのがレイシオ以外ならもっと冷静に見ていられただろう。瞬きも忘れるほど水面を凝視しながら、ひどい脂汗をかくことなんてなかった。絶対に失いたくないものを取り込まれたからこそ怖かった。どんな形でも返してくれと大声で叫びそうだった。
「帰ってこないんじゃないかって怖くなった」
「泣くほど?」
「泣いてない」
親指で目尻を撫でられる。すん、とアベンチュリンの瞼の上でレイシオが形の良い鼻をならした。
「ならどうして君から海の香りがするんだろうな」
「海に潜ったりするから、君の鼻がバカになってるんじゃないかな」
「それなら味わって確かめても?」
「ワインの方がおすすめだけど」
「これがいい」
こぼれないように耐えていた一滴を目を閉じて差し出すと、レイシオはぺろりと舐めとって、その味を二人で分けあった。
これは海じゃない。アベンチュリンの味で香りだ。それを覚えていてもらおうと、レイシオの舌の側面によくよく擦りつけた。間違えないで、溺れていいのはここでだけ。
ちゅう、と舌先を吸われて、はふ、と息を吐く。
「君の香りだ」
そうだよ。アベンチュリンはにっこり微笑み、もっと味わってと唇を薄く開けてレイシオの頭を引き寄せた。
一晩かけてゆっくり芯まで温められた体に、朝から飲む冷えたワインは格別だった。冷え冷えのフルーツも大変みずみずしくて美味しい。
「そういえば今日から三日間、近くの港で朝市がやってるよ」
「そんな大切なことは飲む前に言え」
もちろん、飲んだから言ったに決まっている。まだ海に近づく気はない。少なくとも火照った足が落ち着いて、アベンチュリンが左手で持ったグラスの中身が波立たなくなるまでは。
アベンチュリンが事前に仕入れておいたこの星の特産品情報をつらつらと挙げれば、レイシオは真剣な表情で良い店を探すか自分で作るか検討している。ここのキッチンは火力が強いコンロが三口あるよ。調理器具も揃ってるよ。車を出せば大きいショッピングセンターもあるよ。追加情報を投入して、考え込む美しい顔を角度を変えて堪能しながら、ワインを一口含む。
「作らせたいのか?」
「食べさせたいだろ?」
検討の末、戦略的パートナーと方針が一致したので、帰りの便は変更しなかった。
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