休暇だというのに朝から技術開発部に小用ができ、レイシオはピアポイントを訪れていた。帰ろうとしたところでアベンチュリンのオフィスに呼ばれたので、今日の休暇はピアポイントで消化することに決めて、フロアを移動する。
いつものように送られてきたワンタイムパスワードでロックを解除して入ると、室内にアベンチュリンの姿が見当たらない。なぜかアベンチュリンの部下がオフィスのあちこちを覗き込んでは「総監!」「総監出てきてください!」と声をかけて回っている。机の下や家具の隙間や棚の上など、およそ人のいそうな場所ではないが。
「あ、レイシオ教授、いらっしゃいませ。散らかっていて申し訳ありません。どうぞこちらにお掛けください」
どこかで見たような小さなおもちゃやブランケットが転がるソファに誘導され、それらを端に寄せて座る場所を確保する。くしゃくしゃのブランケットを畳んでソファの背もたれにかけた。ぬいぐるみを一つ手に取って眺めていたら、膝の上に覚えのあるぬくもりと重さがかかった。
「んみ!」
「んみゃ!」
「にゃむ!」
膝を見下ろすと、そこに落ち着こうとして乗りきらずもみくちゃになっている創造物たちと目が合った。レイシオもよく知るアベンチュリンのペットたちだ。ほんのり甘いお菓子の香りが鼻をくすぐる。
「あっ、総監たち!」
アベンチュリンの部下が心から安堵した声で創造物たちに呼びかけ、彼の捜索は終了した。
一日総監。レイシオはその単語を聞いて頭痛をもよおした。
「世の中に一日駅長や一日警察署長なんてものがあるし、一日総監だってあってもいいんじゃないかな」
言い出したのはもちろんアベンチュリンである。今朝出勤するなり家から連れてきた三匹の創造物たちをこれは猫だと押し通してオフィスに放し、「今日はこの子たちが総監だからよろしくね!」と高らかに宣言してどこかに消えた。今日アベンチュリンに付く予定だった部下は三匹の愛らしさに心を奪われ、慣れない場所で警戒している創造物たちを放って上司についていくことなどできなかった。急遽同僚に連絡してアベンチュリンを追って貰い、自分は面倒を見る係として残ったという。
もちもちとしたかさばる体で存外機敏に動き回る三匹の室内探検に付き合い、三匹がじゃれる姿を写真に撮り、追いかけっこをしては動画を撮り、かくれんぼをしていたのがさっきである。創造物から一時解放された部下はレイシオにお茶を出し、横にお茶請けのように端末を差し出した。可愛く撮れてますよね!と自慢げに成果物を見せられ、レイシオはなんと返してよいか途方にくれた。当然アベンチュリンにも随時送っているらしい。当然とは。
今三匹はレイシオにくっついて固まっていて、とても大人しい。おそらく数分のうちに寝つくだろう。レイシオは寝かしつけをとても感謝されたが、この部屋に来たのは創造物をあやすためではない。
「それで、ギャンブラーはどこに?」
「所在不明です。同僚から連絡がないので、まだ探しているかと」
「この子らはトパーズにでも預けたらよかったのでは?」
「今日あちらの総監はカブなので」
トパーズ、君もか……。レイシオは強くなった頭痛をまぎらわせようとこめかみを押さえた。トパーズなら、アベンチュリンが変なことを言い出したせいで自分に面倒が降りかからないよう、狙って乗っかった可能性もある。もちろんただ面白がっているだけかもしれないが。
深いため息を一つ落としたところで、レイシオの端末が震えてアベンチュリンからのメッセージを受信した。アベンチュリンとレイシオとこの部屋にいる部下、三人のメッセージグループが作られている。
『教授、オフィスに着いたみたいだね。悪いんだけどその子たちの相手を頼むよ。そこにいる部下は好きに使って良いから』
「ふむ、ならば好きにさせてもらおう」
部下の了解スタンプに続いて、レイシオは傍らで眠る創造物の写真を撮って返信した。それから、なにやら羨ましそうにレイシオの膝の上を見ている部下に命じた。
「今すぐ三匹が脱走できないケージを持ってこい」
部下は短い返事を一つ残してオフィスを出ていき、すぐに組立式のケージを持って戻ってきた。所々ふるまいがおかしいので能力を疑っていたが、やはりアベンチュリンの部下だった。レイシオが創造物たちと座っているソファ以外の家具を動かして、ずいぶん広々としたケージを手早く設置する。おかげで人が歩ける床は獣道のようにうねる狭い隙間になっているが、問題ないのだろうか。なぜ創造物のためにそこまでする必要があるのかレイシオにはわからなかった。
眠っている三匹をそっとケージに移し、ブランケットをかけて周りにおもちゃを散らしてやる。レイシオはロッカーからアベンチュリンの予備のジャケットを出すと、ポケットが空で装飾品が付いていないのを確認し、雑に丸めてケージの中に入れた。皺がつくと文句を言うクジャクの姿が思い浮かんだが、黙殺した。主人の匂いのするものがあれば少しは落ち着くだろう。部下は寝ぼけながらもぞもぞとジャケットに寄っていく創造物たちの写真を撮っている。三枚目の写真が送信されたところでレイシオのアカウントはメッセージグループから抜けた。
創造物たちが起きないのを横目で確認すると、部下に後を任せてオフィスを出た。
一方、アベンチュリンは自宅に戻っていた。部下たちはこの部屋の存在すら知らないので、探し当てられる心配はない。唯一この場所を知っているレイシオはアベンチュリンの頼みごとに呆れたのか、メッセージグループから出ていってしまった。休暇だと言っていたので時間を有意義に使うべく帰ったのだろう。
レイシオにはアベンチュリンが不在のときに創造物たちの面倒を見てもらうため、ここの合鍵を渡してある。彼が何かの気まぐれで来ないよう足止めをしたかったけれど、仕方ない。アベンチュリンも創造物たちもいなければここに来る理由はないから、たぶん大丈夫だろう。
リビングのローテーブルに置いた塊を見やる。昨日宅配ボックスに届いていた荷物だ。部屋に持ち込みはしたものの、差出人の名前がなく心当たりもなかったので、まだ未開封のままだ。ビニールを被せた上からテープが執拗に巻かれた小さな箱で、軽く、振るとカサカサと緩衝材らしき音がする。
万が一に備えて朝一番に創造物たちを自宅から連れ出してオフィスに行き、普段使っているお世話セットと共に部下に預けてきた。動物好きの気の優しい男だから問題ないはず。それから家にある大切なものもオフィスの隠し金庫に置いてきた。これでもしこの部屋を吹っ飛ばされたとしても被害は軽微だ。
アベンチュリンは道具を用意してローテーブルの前に座った。あまり嫌な予感はしなかったのでカンパニーの危険物処理班に託すほどではないと判断したが、できる用心をして損はない。パチンと指を鳴らすと、堅牢な存護のバリアが自分と荷物を閉じ込める。
準備が終わったアベンチュリンは、ぐるぐる巻きにされているテープに躊躇なく鋏を入れた。テープとその下のビニールを剥がすと、ギフトボックスが表れた。白の包装紙に毒の強い赤い笑顔のマークが描かれていて、細い青いリボンが複雑にかけられている。アッハがモチーフだ。愉悦の運命を歩む者の遊びなら、中身はろくなものじゃないだろう。けれど、物理的な意味での危険度は低そうだと勘が告げている。
短い逡巡ののち、アベンチュリンはリボンをほどいて包装紙を剥がした。さっさと送り主の思惑を確かめて終わらせてしまった方が無駄がない。放っておくと開けるまでしつこく絡まれるだろうから。そう考えて箱を開けたのだが。
――チリン。金の鈴が付いた緑色の皮の首輪。マジックアワーの空を映したような紫色の瞳に薄い桃色の肉球。ふわふわの金色の毛並みは、セットする前の髪のようにやや散らかっている。
猫だった。アベンチュリンはローテーブルの天板ガラスに映った自分の姿を見て夢か幻覚であれと願ったが、荷物に添えられていたカードを読む限りそれは望み薄だった。
『退屈しのぎのコードーーこのコードを修復し、正常な奇物にするには3回の逃走が必要。修復期間中、持ち主は小さな生き物に姿が変わり、感情的で本能に支配されやすくなる。コードを修復した後、この奇物は持ち主の願いを一つ叶えて壊れる(残り3回)』
効果の悪趣味さもだが、まず名前がひどい。こんなもので退屈がしのげるのか、それとも送りつけた相手が顔をしかめればそれで満足なのか。本当に勘弁して欲しい、これだからパブの誘いはお断りなのだ。そして、危険はないと思った自分の勘を恨んだ。アベンチュリンは思いつく限りの悪態をついたが、口からは創造物たちのような鳴き声しか出なかった。なるほど、感情を押さえるのが難しい。
奇物を修復して元に戻るしかないか。苛立ちで尻尾が揺れる。言葉も話せないこの姿で何ができよう。幸い急ぎの仕事はないので、今日中に片付けられれば何事もなかったことにできる。
カードの説明を信じるならば、逃走するには追手が必要だ。では誰にどうやって追いかけてもらうか。それも三回も。カードの文字が読めるから共感覚ビーコンは機能しているようだけど、猫の鳴き声には非対応。こちらから意思を伝えることは難しい。
ローテーブルから降りて、着ていた服と共に床に転がっていた携帯端末を肉球でもどかしく操作して点けると、メッセージが届いていた。
『あは、孔雀ちゃんは鳥になると思ってたのに、花火の予想は外れちゃった~。でもそっちの方がいいよ。前に言ったよね、君はマンホールの中がお似合いだって。頑張って逃げて花火を楽しませて~』
まあ十中八九彼女だろうと思ってはいた。でも、このメッセージはブラフだ。彼女はアベンチュリンに起こっていることを見ているわけではない。メッセージの着信はアベンチュリンの姿が変わるよりわずかに前。箱を開けたときに見えたのは、今首に巻かれている首輪と同じものだった。首輪には鈴と一緒に猫のシルエットのチャームが付いている。この首輪が奇物だ。おそらく変化する生き物は猫一択。
さあ、頭を切り替えろ。この姿でできることは何か。指を鳴らせなくても、集中して念じればバリアを張れるか? オーケイできる。事故などに備えて安全が確保できるのは大きい。携帯端末の指紋認証と網膜認証は? 通らない。機能を一部しか使えないが、どのみち持ち歩けないのだから構わない。共感覚ビーコンは正常? 動画アプリで目についたものをいくつか流し、言葉が聞き取れることを確認した。大雑把にしか画面に触れない肉球ではいちいち操作に時間がかり、尻尾が苛立ちのままにパタパタと動いてしまう。
次に、追いかける役を確保しなければ。携帯端末のインカメラに自分を映して写真を一枚撮る。特徴的な瞳と天井の照明器具が入るように。いつだかトパーズに見せられた飼い猫のいたずら写真の構図そのままで、「にゃむ……」と苦笑いが声になってもれた。その写真をレイシオ宛に送りつけた。この部屋に入れるのは自分以外に彼しかいないので選択の余地はなかった。まあ、面倒なら戦略投資部の誰かに鍵を渡して丸投げしてくれるだろう。性格的に無視はしないはずだ。
人が来て玄関を開けるときに外に逃げ出そうか、隠れて待機できる場所はあったかな。そう予定を立ててアベンチュリンが腰を上げるのと、解錠音がして玄関が開くのは同時だった。
え、早い。嘘だろ。
いつもより早足でリビングに姿を見せたのは、想定通りレイシオだった。姿を見る前に足音でわかっていた。葡萄酒色の瞳がアベンチュリンを見て見開かれる。
あ、今軽く逃げて捕まえられたら一回目を達成できるのでは。そう気づいて足に力を込めたが、走り出すことはできなかった。
「アベンチュリン」
一声で背筋がゾクッと震えて体が固まった。尻尾が少し膨らんだかもしれない。
「アベンチュリン、君だな?」
ゆっくり近づいてきたレイシオは、静かな所作でアベンチュリンの前に片膝をついた。アベンチュリンの鼻先に手を差し出してこちらの様子を窺っている。
名前を呼ばれた衝撃から立ち直れていないのに、レイシオの匂いに追い討ちをかけられて頭がクラクラする。べつに特別な声音じゃなかった。いつもの低くて静かで艶やかな美声だ。うん、普段から威力高めだったな。鋭敏になった聴覚嗅覚と奇物の感情ブーストが悪さをしている。心臓が痛い。
「どうした、具合が悪いのか?」
いい声でむやみにしゃべるなよ、バカ!
「ニャー!」
キレ気味に一声鳴いたら硬直が解けた。まだ少し震える足を叱咤してローテーブルに上がり、奇物の説明が書かれたカードをたしたし踏んで示す。それから床に降りて端末を操作し、花火のメッセージを読ませた。それらの動作でアベンチュリンが人間の意識を持った猫であると信じてもらえたようだ。話が早くて助かる。
「経緯はわかった。説教は後にしよう」
げっ。そう思ったのが顔に出たらしく、レイシオの手が伸びてきて眉間の皺を伸ばすように額を撫でられた。また心臓が暴れだして、反射的にレイシオの手を振り払おうと前足が出る。ギリギリ理性が間に合って爪を引っ込められてホッとした。バックステップで手が届かない距離まで後ずさった。
レイシオは一瞬傷ついた顔をして、すぐになんともない顔に戻った。気づかなければよかった。レイシオを傷つけてしまったことにアベンチュリンも思いの外深く傷ついた。しおしおと耳を伏せ尻尾が垂れる。
「今のではカウントされないか。逃走とは何かの比喩か?」
レイシオがこちらにカードを向ける。カードの末尾の回数はまだ3回のままだ。
逃げて捕まるまでがワンセットなのだろうか。アベンチュリンは試しにレイシオの膝に体を擦り寄せて、逃げる意志がないことを見せてみた。カードの行間を読み取ろうと思案していたレイシオはビクッと震えてカードを取り落とす。まだ数字は減らない。レイシオを見上げて、空いた手のひらに頭を擦りつけた。自分から触りにいくのは触られるより苦じゃないとわかった。しかし、レイシオがおずおずと頭を撫でて、さらに背中まですーっと手を滑らせたことで、また心臓が跳ね散らかる。
もう、なんだよこれ、厄介だな!
未知の感覚ならまだよかった。知っている感覚だからこそ質が悪い。鋭い快感にゾワゾワと皮膚が粟立って四つ足が震える。目をぎゅっと閉じてやりすごし、再びカードを見た。
残り2回。
それから何回か逃げると捕まるをセットで検証した結果、やっと一回減らすことができた。どうやら、アベンチュリンが本気で逃げて、逃げられないと観念し、逃げた相手に受け入れられる必要がある。逃げる演技ではカウントされず、アベンチュリンが投降してもレイシオが捕まえなければカウントされなかった。逃げるアベンチュリンを無理矢理捕まえるのはレイシオに拒否されたので試していない。あと一回。これなら家から出なくても解決できそうなので一安心だ。精神的にはすでにへとへとだが。
1回目。触られたくなくて逃げ、レイシオの悲しそうな姿に罪悪感を刺激されて観念した。
2回目。あちこち隙間に入って埃まみれになったアベンチュリンをレイシオが風呂に入れようとして、逃げた。地の利を活かして逃げ隠れし、ついにはベッド下の奥の奥に丸まって籠城。二システム時間の説得にも折れず、レイシオが濡れタオルで拭くだけの妥協案を示したので和解した。
3回目はどうするか。少し上手くなった毛繕いをしながら考えていると、レイシオがアベンチュリンを抱き上げて膝に乗せた。
「毛を飲み込むな。戻ったときにどうなるかわからない」
これ以上体を舐めないように、大きな手のひらに頭を包まれて口元をやわく覆われた。しまい忘れた舌を中指の腹でトンと叩かれる。見覚えのある人間用のコームで優しく毛を梳かされると、そこは極楽だった。力が抜けて急速に眠気がやってくる。
先ほどタオルで体を拭かれているうちに、レイシオに触られることに慣れてきてしまったようだ。こうして膝の上でケアされていても、心にさざ波が立つくらいで反射的に逃げたくなるほどではなくなった。それどころか心地よさで蕩けて、体が液体になって溶け落ちそうな気分だ。
気持ちいい。お返しがしたい。舌を出して指を舐めそうになるのを堪える。おまえは人間だ。流されるな、アベンチュリン。この危険な膝から降りなければ。でも眠い。この姿の今なら少しくらい許されるんじゃないか? だって全部奇物のせいだから、そう言い訳をして。
もう少しだけこうして、そうしたら逃げなくちゃ。
逃げたくなるのはどんなときだろう。気持ちの話なら、アベンチュリンはずっとレイシオから逃げ続けている。正しくは、レイシオに向ける自分の気持ちから。
仮面の愚者に言われたことを認めるのは癪だが、アベンチュリンの心にはマンホールがあって、その下に負の感情を手当たり次第流し込んで生きてきた。体調が悪かったり、疲れていたり、過去と同じ経験をしたり、そうしたちょっとしたことで簡単にマンホールの蓋は開いて、どろどろでひどい臭いを放つ負の感情の沼に落ち込んでしまう。その臭いが染みついていて、花火に嗅ぎとられてしまったのだろうか。
その汚泥の沼に、あるときから宝箱を沈めている。レイシオからもらった優しい言葉、ささやかな親切、一緒にやりとげた仕事で得た充足感。それらを簡単には取り出せないように箱に詰めて鍵をかけ、取りに行くことが苦痛になる場所にあえて置いた。なんとなく良いものであるというぼんやりした認識に止め置いて、まとめて目を逸らしている。取り出してはいけない。正面から見てはいけない。それはアベンチュリンを形作るのに必要のないものだ。
今も、レイシオの膝の温もりや眠気を誘う優しい手つきを受け取った端から宝箱に詰めて、次々とマンホールから落としている。こんなにいっぺんに増えたら溢れてしまう。沈みきらない箱同士がガチャン、ガチャンとぶつかる音がするようだ。一つ落とすごとに胸の中が重くなる。
レイシオの好意をそんなところに捨てているアベンチュリンに、彼を慕う資格はない。だから諦めろ。そう言い聞かせてずっと逃げている。逃げているくせに本格的に嫌われるのは怖くて、チラチラ後ろを振り返っては彼我の距離を確かめている。目を逸らして、無意識に近づいて、かと思えば遠ざけて、顔色を窺って。そんなことをしているからなおさら、レイシオの優しさに甘えて与えられた宝物たちが胸に詰まって、たまに息ができなくなる。
この気持ちに名前をつけてはいけない。アベンチュリンはそれを知ってはいけない。
優先順位の一番が、心の支柱が、生きる目的が、塗り替えられてはいけない。今はまだアベンチュリンにその自由はない。いつか全てをやり遂げ、死に迎えられるその日まで。
つまり、それを知る日は来ない。
「アベンチュリン、寝たのか?」
ぼうっと考えに沈んでいた意識がなかなか浮き上がれず、レイシオの呼び掛けに反応できなかった。
「君は、神経質なのか図太いのか」
コームではなく手櫛が頭や首の毛を浅くゆっくりけずる。太い指の繊細な力加減が気持ちいい。またうとうとしてきたところに、うなじに気配が落ちてきて。
吸われた。
そして吐息をかけられた。
アベンチュリンの体中の毛が一気に逆立ち、尻尾がぶわりと膨らんだ。
ペットを吸う文化があることは、トパーズがカブにしょっちゅうやっているので知っている。アベンチュリンも創造物をちょっと吸ってみたことがある。しかし甘いお菓子の匂いがするあの子達とアベンチュリンは違う。
信じられない、信じられない! そういうことをする柄じゃないだろう、レイシオ!
アベンチュリンは飛び起きてレイシオの膝から一目散に逃げ出した。触れていた体温から離れて、ほかほかだった体がひんやりする。けれど、さっき吸われたうなじは泣きたくなるほど熱い。
いやだ、もう。レイシオの馬鹿野郎。アベンチュリンは今おかしいのだ。奇物のせいで五感は鋭いし感情の箍はゆるゆるだ。心と体が直結していて、快感はすぐに頭を蕩けさせてしまう。レイシオの声を聞けばゾクゾクするし、触られたところは全部熱を持つ。この数時間で少し慣れたとはいえ、甘やかされればフニャフニャに力が抜け、甘ったれた声を出してしまいそうになる。それを鉄の意志で我慢していたというのに。もう耐えられるかこんなの、レイシオなんか呼んだのが間違いだった。
逃げたい。消えてしまいたい。窓は? だめだ。レイシオが来てすぐ全部律儀に閉めて鍵をかけていたし、ガラスは防弾仕様になっている。でもバリアがあれば割れるか?
普段なら絶対に無理だとわかるのに、めちゃくちゃに沸いた頭では冷静な判断ができなかった。アベンチュリンは火事場の馬鹿集中力で自分にバリアを張って全速力で助走をつけ、寝室の窓に体当たりした。
ドカン! 固いもの同士がぶつかる激しい音がして弾き返され、アベンチュリンの体はベッドに落ちて弾み、反対側の床に落ちた。窓には傷ひとつない。完全なる敗北だ。やるじゃないか窓くん、君に守られてるなら安心だ。バリアを解いて床に身を委ねる。
「アベンチュリン!」
レイシオが慌てて寝室に飛び込んできて、アベンチュリンの体をベッドに抱き上げ、痛めたところがないかあらためる。
「返事をしろ、意識はあるか? どこを打ったんだ、答えろ!」
目を閉じたまま敗北感に打ちひしがれているアベンチュリンの頬をレイシオがペシペシと叩く。うるさい。君のせいだろ。今はリブート中だ。そこでおとなしく待ってろよ。
「僕が悪かった。すまなかった。頼む、目を開けてくれ」
弾かれて落ちた衝撃でちょっと息が詰まったくらいで、痛むところはない。猫の受け身は思った以上に身を守れたし、琥珀の王の恩恵は言わずもがな。もし今日のドタバタの疲労が戻っても残るなら、今晩はよく眠れそうな気がする。疲れた。身も心も疲れた。もうどうにでもなれ。
「アベンチュリン」
泣きそうな声を出すな、泣きたいのはこっちだ。いや、レイシオは巻き込まれただけだ。わかっている。良くやってくれた。さっき吸われたのだって、油断していたアベンチュリンが逃げるようにわざと嫌がることをしたんだろう。早く元に戻れるように協力してくれたんだから感謝するところだ。
3回目の投降をして、レイシオに捕まえてもらわなければ。アベンチュリンは人間に戻り、馬鹿げた役割からレイシオを解放するのだ。
レイシオ相手には、こんな茶番の逃走なんかじゃなく、卑怯な逃避行をやり続けているじゃないか。距離を詰められたら離れて、隠れて、興味なんてないと線を引く。これからも自分の心から目を逸らして逃げ続ける。レイシオの真心を汚泥に捨てて踏みにじり続ける。心が折れそうなときに宝箱たちが足場になって、アベンチュリンが沼に沈むのを何度も防いでくれているとしても。それらが恋しくて、宝箱を開けられないくせに自分からマンホールの下に降りているとしても。
アベンチュリンがレイシオにしている仕打ちを思えば、今ちょっと心が暴れるくらい、心を丸ごと明け渡すのに比べたら、逃げるほどのことじゃない。
目を開けてレイシオを見上げる。心配そうにこちらを見つめている葡萄酒色の瞳がアベンチュリンの目をじっと見ている。きっと瞳孔の様子なんかを確認しているのだ。彼は医者なので。
平気なところを見せたくて体を起こそうとしたら止められた。ベッドの上に脱いでほったらかしだったパジャマをそっとかけてくれる。カウントがゼロになって人間に戻ったらアベンチュリンが素っ裸だと思い出したんだろう。さすがレイシオ。
「痛むところはないか? 意識ははっきりしているのか?」
「ニャア」
大丈夫だよ。オールグリーンだ。
「アベンチュリン、誤解しないでほしい。さっき僕は……」
わかってるよ。和解の印にレイシオの指先をペロリと舐める。もう逃げないから、さあ、頭を撫でてくれ。それで幕引きにしよう。
けれど、レイシオは手を頭には伸ばしてこなかった。もう一度指先を舐めて催促する。その指が恐る恐るアベンチュリンの口に触れた。
レイシオの顔が近づいて、アベンチュリンの小さな額に口づけを落とす。触れたところから伝わっただろう。アベンチュリンは人間の姿に戻った。覆い被さるレイシオの体の下で。
猫のときは触れられた額が熱くて泣きそうだと思ったのに、戻ったらあれほどざわついていた心が鎮静剤を打たれたように落ち着いた。力が抜けてぼんやり目を上げたら、至近距離でこちらを覗き込んでいるレイシオと目が合った。
「……冷めてしまったな」
「え?」
「まあいい、そこにあるのはわかった」
小声で独り言を呟いて、レイシオはさっと起き上がって寝室から出ていってしまった。
クローゼットから部屋着と下着を出して手早く身に付け、ベッドの上に落ちていた小さな首輪を持ってリビングに戻る。
レイシオはソファに座って奇物のカードを眺めていた。アベンチュリンが隣に座るとカードを裏返してこちらに向けた。修復が完了している。
「何を願うんだ?」
「ああ、考えてなかったな」
本当になにも考えていなかった。こういうものが叶える願い事はリスクが測れない。もっと事が大きくなっていたら簡単な後始末などに使ってしまっただろうけど、幸いにも迷惑をかけたのはレイシオ一人だ。
「君に迷惑をかけたお詫びに、叶えたいことがあれば聞くよ」
「ふむ……それなら、その首輪が壊れないよう願ってくれ」
「これ? もし上手くいって壊れなくても、願いを叶える力はなくなると思うよ」
「構わない」
「わかった、やってみる」
アベンチュリンはレイシオの願いを叶えた。手のひらに乗せた首輪の猫のチャームだけがほろほろと崩れて溶け消え、後には鈴のついた緑色の首輪が残った。レイシオの手にあったカードも同様に溶けて消えてしまった。これでいいのかと首輪を見せると、レイシオは頷いた。
「それをくれないか」
「いいけど……もしかして君、猫の僕を気に入っていたのかい?」
「ああ。可愛かったからな」
無造作に投げられた言葉に、喉元をすぎて油断していたアベンチュリンの心臓がドンと叩き起こされた。ぐっと喉の奥を閉めて堪える。今のは猫だったら危なかった。今も十分効いているが。
レイシオが臆面もなくそういうことを口に出すとは思っていなかった。今日で何かを目覚めさせてしまったんだろうか。首輪をくれなんて言うし、急に猫を飼い出したらどうしよう。
レイシオはアベンチュリンの手から首輪を取り上げた。
「それでは、僕は帰る」
「ああ、うん、今日は悪かったね。ありがとう」
「そうだ、今頃とんでもない量になっているだろうが、ちゃんと見てやるといい」
「なんのこと?」
レイシオの言葉の意味は、携帯端末を開いたらすぐにわかった。通知三十件。そのうち数件はアベンチュリンの所在を尋ね、諦めてオフィスで待機するから連絡をくれという部下からのメッセージ。これには今からオフィスに戻ると返信して、お詫びの信用ポイントを振り込んだ。残りは全部オフィスに置いてきた創造物たちのスナップ写真だった。なにやってるんだ、大丈夫かうちの部下。可愛いから保存するけど。
後日、トパーズに一日総監の顛末を話したら、なぜか羨ましがられた。移動されていた家具を戻したこと、こまめに送られてくる大量の写真と動画、着てもいないのにしわくちゃでクリーニング行きになったジャケット。羨ましい要素は一つもないはずだ。
「カブは全然手がかからない良い子だから、誰も写真も動画も撮ってくれなくて。まあ、防犯カメラから抜いたけど」
「抜いたんだ」
「定点カメラも置いてたけど」
「置いてたんだ」
「でも離ればなれで寂しかったから、もうやらないかな」
「そうだな、僕ももういいかな」
創造物たちを家から避難させるような事態はもう懲り懲りだ。次からは勘に頼らず冷静な判断をすると心に誓った。
ピアポイントから帰宅したレイシオは、バスルームに直行した。今日起こったことを消化するには風呂に浸かる時間が必要だ。
湯を張っている間に、持ち帰った元奇物の首輪を透明な防水のパッケージに入れる。脱いだ服から柔らかな金色の毛がふわりと飛んで、咄嗟に空中で捕まえた。まだ服についていた毛をいくつか集めて、まとめて首輪のパッケージに収める。まるで亡くした飼い猫を忘れないように記憶をかき集めている気分だ。一度も飼ったことなどないのに。
今日の午前、アベンチュリンのオフィスを出た後。ピアポイントで休暇を過ごして帰ることにしたものの、特にプランはなかった。星海でも指折りの豊かな星なので娯楽は選り取り見取りだが、午前中から一人で静かに過ごせる場所は案外少ない。レイシオは自分が目立つ存在だという自覚がある。
車を借りて郊外にでも出ようか。走っていれば一人でいられるし、景色の良いところなど落ち着く場所が見つかればそこで過ごしてもいい。
それならアベンチュリンの家が近いことだし彼の車を借りることにしよう。そう決めて足を向けた。創造物たちの世話のために自由に使っていいと言われた車がある。レイシオ用に一台用意したと鍵を渡されたときは無駄な買い物をと呆れたが、アベンチュリンが使う車は装備が特殊でセキュリティ上他者が運転できないと聞いて納得した。
アベンチュリンの家がある建物の駐車場に向かう途中で、そのアベンチュリンからメッセージが届いた。彼を探している部下とは会えたんだろうかと思いながらメッセージを見ると、写真だけが一枚。
薄桃色の肉球のアップ、薄い金色でやや毛足の長いもふもふの体、特徴的な紫色の瞳、憮然とした表情に見える……猫。
床から見上げる構図には、見覚えのある照明が写っている。横に見えるローテーブルの側面も見知っている。今向かっているアベンチュリンの部屋だ。
たまたま撮影してたまたま送られた猫のいたずらと考えることもできるが、創造物たちと暮らしているアベンチュリンが家に猫を入れるとは考えにくい。それにこの唯一無二で猫にはありえない瞳の色は。
メッセージ画面のスクリーンショットを撮り、送られた写真を保存する。レイシオは後でこのときの自分を褒め称えた。帰宅の途上で確認したら、唯一の写真はメッセージごと削除されていたのだ。
レイシオは早足になって、アベンチュリンの家に急いだ。元々近くまで来ていたから、さほどかからずに到着した。
温かいお湯に身を沈め、防水パッケージの中の首輪を手の中で転がしながら眺める。チリチリと鈴が鳴る。
家に着いたら、アベンチュリンが猫になっていた。いつもうるさく回る口がニャアとしか鳴けず、身を飾るのは首輪だけ。ふわふわした毛並みに隠れた小柄で細身の体、しなやかで機敏な動き。話しかければ鳴いて返事をし、ちょこちょことレイシオの後をついて歩き、こちらが見下ろすと見上げて首をかしげる。心を許しているようでいて、逃げられる間合いをとった距離。猫だが、アベンチュリンだった。
今日アベンチュリンの部屋を訪れてから、何度あの瞳が脳に焼きついただろう。最初に名前を読んだ瞬間に、今までずっと彼から引きだそうとしてできなかった、熱のこもった瞳がレイシオを貫いた。実際に体が震えていたのはアベンチュリンだったが、レイシオもまったく平常心ではいられなかった。
これは奇物が作り出した幻影だ。仮面の愚者に踊らされるな。悪趣味極まりない。人騒がせにも程がある。事態の解決を最優先にしろ。そう言いきかせたが、レイシオの心は易々と裏切った。
何度でもアベンチュリンの瞳に熱を灯したくて、名前を呼び、目を合わせ、体に触れ、体温を分けた。隠しているつもりだったろうが、瞳だけじゃなく鳴き声も体も耳も尻尾もなにもかもが雄弁だった。あれこれ構っても許されたことが、アベンチュリンの気持ちの表れに思えた。
甘やかし、喜ばせ、寛がせたかった。快く受け取ってもらえるなら、与えるのに際限はない。創造物のために家具を動かしてまで広々としたスペースを作ったあの部下の気持ちを、今なら理解できると思った。下心が大きすぎて、余計な真似をして逃げられてしまったが。
あの数システム時間、アベンチュリンの心はたしかにレイシオに向いていた。
それだけに、元に戻ったアベンチュリンの瞳からすっかり熱が失われていたのが、思った以上に堪えた。奇物の影響だと理解していたつもりだったのに。
首輪を濡れない場所に置いて、ばしゃりと両手に掬ったお湯で顔をすすぐ。
愚かだ。そう思う。けれど、こんな異常事態が起こっても浮き沈みせずにいられるのなら、それは恋ではない。想う相手が見せた隙を見逃せるような生ぬるい気持ちならば、もっと手前で消し去っただろう。
もし今までアベンチュリンと仕事以外の関わりを持たずにいたら、今日のように頼られることは絶対になかった。積み上げてきた信頼と懐柔が実を結んだわけだ。よくやった、ベリタス・レイシオ。これからも気を抜かずにやれ。
今日は大きな収穫を得た。アベンチュリンの心にレイシオの存在が何一つないのではなかった。隠されていた気持ちが奇物の効果で感情的になって表面化したのであって、無から生まれたわけではない。元からそこにあったのだ。
うっすら感じていた好意が本物である確信を得られて僥倖だった。隠されているのは複雑だが、彼の事情を考えれば理解はできる。理解はするが、一方通行でないなら、もう躊躇う理由はない。
水面に映る自分の顔を見る。ひどい顔だ。とても見られたものじゃない。熱に浮かされ、愚鈍極まりない企みを練り、うっそりと笑っている。
あの瞳の熱をもう一度引き出そう。次こそは何の干渉も受けていない最高純度のそれを。
レイシオは俯いたせいで落ちてきた髪をかきあげて、アベンチュリンにしたように、指先で自分の頭皮をすうっと撫でた。水面に映る顔は、いつもの無表情に戻っていた。
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