戸倉
2024-11-05 00:11:38
10192文字
Public 終わらない牧台シリーズ
 

終わらない牧台⑩

【自慢のともだち 編】

・現パロ W23歳 会社員 × V23歳 売れない役者 
・4年前に失踪したVと再会して同居8か月目
・⑨のすぐあとの話
・付き合ってない

・来年、続き書きたい

10


 重たい目蓋を持ち上げた先には見慣れた寝顔。薄く開いた唇から聞こえる寝息は穏やかで、眉間に皺のない表情は幼さが際立つ。ベッドサイドの灯りはいつの間にか消され、視界の頼りはカーテンの隙間から入る月明かりだけ。身体は重く、寝返りをすることすら億劫だった。
 さらりとした感触のシーツ、清められた身体、昨晩とは違う寝間着。やっぱり顔を見ながらしたいといって、あれから正常位で二回。ヴァッシュが気絶をする形でお開きとなったが、もしも意識があったらと思うと途端に背筋が寒くなる。風呂場へ連れていかれたことも、服を着替えさせられたことも、何一つ覚えていないのが悔しい。すべて覚えていたくてアルコールを飲まずにいたのに、まさかこんなことになるとは想定外の外の外。
 それなりに体力はある方だと思っていたが、ウルフウッドには到底及ばずというわけだ。しかしこの場合、体力というよりは性欲なのではと考えたヴァッシュは思考を散らすようにシーツに額を押しつけた。もう一度眠ろうにも妙に頭が冴えてしまって眠れない。しんしんと冷えた部屋の中、上掛けを肩まで引き上げて身体を包み込み、横向きで眠る男の黒い睫毛をじっと眺めた。シーツの上に放り出された無防備な手。セックスの最中にこの手を握らなかったのは、少しだけもったいなかったかもしれない。けれど、それを選ぶわけにはいかなかった。

 四年間の溝を埋めるようなこの八か月の中で、学生時代には見たことのないウルフウッドの顔もたくさん見てきた。だが昨日のウルフウッドの姿は、見てはいけないものを見てしまったかのよう。欲を放つ瞬間、肌に落ちた汗の感触をヴァッシュはきっと一生忘れることはできない。
 身体を繋げたら何かが変わるかもしれないという希望は残念ながら失敗に終わった。セックス自体は気持ちよかったし、上手くいって良かったと思っている。けれど結局何も変わらない。相変わらずヴァッシュはウルフウッドの家の居候だし、いつかはこの家から出ていかなければならないと思いながら日々を過ごすのだ。あんな風に貪欲に誰かを求めるウルフウッドを見てもいいのは、きっと自分じゃない。でも――

 どうしてここにいたいんだっけ? なんで一緒にご飯を食べたいんだっけ? どうしてこの家から出て行く日に怯えてるんだろう? なんでウルフウッドの笑顔を見ていると満たされるんだろう?

 慣れない行為のせいで強張った脚の筋肉が小さく震えている。すっかり目が冴えてしまったまま横になっているのも辛くなり、ヴァッシュは上半身を起こす。時刻は夜とも朝とも呼べないような狭間の時間。小さな息遣いすら静寂に吸い込まれていく。細心の注意を払ってそっと動いたつもりだったが、衣擦れのわずかな音は抑えられない。ベッド下の床に足先が触れたところで勢いよく手首を掴まれた。
……どこ行くんや?」
「えっと、水、飲もうと思って」
 まるで犯人を追う警察官のような鋭い眼差しが「水」という単語を聞いた途端に和らいで、寝起きの獣は返事なのかよく分からない音を鼻から漏らした。手首を掴んだままウルフウッドは身体を起こす。
「身体、大丈夫か?」
「うん、だいじょ……、あー、いや、うそ、しんどい」
 何の淀みもなく「大丈夫」と言えばウルフウッドを安心させることができるのを分かった上で正直に答える。ウルフウッドは一瞬で脳が覚醒したように目を丸くし、がっくりと項垂れて後頭部を豪快に掻きむしった。
「あー、すまんかった。止まれると思っとったんやけど」
「思ってたけど、止まれなかったんだな」
 トドメの一撃。ぐ、と言葉を詰まらせウルフウッドは深々と頭を下げた。
「跡だって、見えるところはダメって言ったのに。途中から完全に忘れてただろ?」
「ほんまに、悪かった」
 正座をし、シーツに頭をつける勢いで更に深く頭を下げるウルフウッドはこの寒さだというのにスウェットのズボンだけを履いて上半身は裸だ。数時間前のことを思い出しそうになったヴァッシュは噛まれた方の肩を手で押さえる。
 いくら露出の多い仕事を断っているからといって、一応プロとして現場に余計な迷惑はかけたくない。腹ただしさはもちろんあったが、ウルフウッドの困った声を聞いているとどうしても許したい気持ちが勝ってしまう。
……別に怒ってないよ」
「え?」
「おれが怒ったらこんなもんじゃ済まないから」
 ウルフウッドの顔面に向かって枕を投げつけ、ヴァッシュは立ち上がる。鈍く痛む腰を押さえながらキッチンへ向かおうとすると、慌てて追ってきたウルフウッドに後ろからやんわりと抱きすくめられた。
「水やろ? ペットボトルの買い置きもうないねん。あー、ついでに朝飯も買うてくるし待っといて。寝とき」
……おれも行く」
 さらりとした感触の黒髪が首筋に擦りつけられ、ヴァッシュはこそばゆさに身を捩る。
「無理せんとき」
「だから――、そういうの」
「過保護やっちうんやろ。ちゃんと分かっとんねん頭では」
 ウルフウッドは抱きしめていた腕を緩め、ダイニングテーブルの椅子にヴァッシュを座らせる。その足でタンスから二人分の着替えを持ってきたところで扉の角に爪先をぶつけて悶絶した。
「アカン……爪、死んだわコレ……
「なぁ、もしかしてちょっと動揺してる? それか、後悔? おれとセックスしちゃったこと」
「ハァ? 動揺も後悔もしとらんわダァホ! しちゃったやあらへんねん。したかったからしたんじゃ! おんどれの方こそ後悔……
 蹲った格好で捲し立てるウルフウッドと目が合い、ヴァッシュは頬を緩ませる。
「おれはね、フツー」
「フツーってなんやねん」
「セックスしようがしまいがおれたちは変わんねーなってこと!」
……後悔はしとらへんねんな?」
「するわけないじゃん」
「ならええわ」
 安堵の息を漏らしたウルフウッドから手渡されたのは、白い厚手のワッフル生地のシャツとベージュのゆるいジーンズ。購入した覚えのないシャツの肌触りに密かに感動していると、ウルフウッドも色違いの同じデザインを着ていることに気がついた。
「おそろい?」
 胸辺りの生地を摘まんで問いかける。ウルフウッドは自身の黒い服を一瞥し、若干気まずそうに顔を背けた。使う単語が子どもっぽかったかと反省し、「デザイン一緒だね」と言い直したが、今度は露骨に口の端を下げ渋い表情を見せた。ヴァッシュは慌てて付け加える。
「いや、あの、手触りも気持ちいいしシンプルで好きなデザインだと思っただけだよ」
「気に入ったっちうことか?」
「うん、いい感じ!」
……おどれがワイのネクタイ選ぶ気持ち、ちぃ~っとだけ分かった気ぃするわ」
「分かってくれた? いいだろ? 自分が選んだものを気に入ってもらえるの!」
 興奮気味のヴァッシュは腰が痛いのも忘れてウルフウッドとの距離を詰める。ウルフウッドは歯切れの悪い感じで「まぁな」とだけ返し、ヴァッシュへジャケットと赤いマフラーを放り投げた。
 両サイドに大きなポケットのついた白のパデットジャケットを羽織り、ヴァッシュは携帯端末と鍵をポケットに突っ込む。対するウルフウッドは全身真っ黒で、重量感のある黒のフライトジャケットにブラックデニム。
 午前四時六分を指したリビングの時計の前を通り過ぎ、ふたり並んで玄関でスニーカーを履いて外に出た。
「さみぃ~」
「ま、朝やしこんなもんやろ」
 冷えた空気が肌を刺す。素早く首にマフラーを巻いてその場で小さく足踏みを繰り返すヴァッシュを横目にウルフウッドが小さく笑う。
「走ったら寒くなくなるんとちゃうか?」
「やだよ、疲れてるんだから」
「せやから家で待っときって言うたのに」
「頼んだものと違うもの買ってきそうだし」
「ガキか、ワイは」

 まだ夜明け前の暗い道をふたり歩く。ヴァッシュはウルフウッドの隣には並ばず、少し後ろを歩いた。時折、ちゃんとついてきているかを確認するようにウルフウッドが振り返るが、ヴァッシュは頑なにその優しさに気づかないフリを貫き通した。散々熱は分け合ったから、今は少し離れているほうがいい。ウルフウッドにはフツーだなんて言ったが、思い出すと口角が上がってヘンな顔になってしまうし、そんなみっともない顔はできれば見られたくない。
 歩道に人影はなく、早朝のランニングをしている人間すら見当たらない。車道にはちらほらとトラックや通勤途中らしき車が走っていて、水溜まりの上を通るたびに泥が跳ねる。ヴァッシュは前から走ってくる大型自動車のヘッドライトに目が眩んでうつむいた。眠っている間に降った雨のせいで歩道はまだらに色を変えている。いっそのこと土砂降りの雨が降っていてくれたら傘をさすことができて、ウルフウッドから顔を隠せるのに。どこに宛てるでもない少し恨みがましい気持ちを込めてヴァッシュは乾きかけの地面を軽く蹴る。白いスニーカーの先端には数週間前からこびりついている汚れ。ずっと前から気づいていたのに洗うのを先延ばしにしていた――
「おい、トンガリ」
「ちゃんとついていってるからダイジョーブ。普通に歩いて」
 ヴァッシュは左手をひらひら揺らし、眉根を寄せる男へ前を向くよう促す。渋々前を向き直したウルフウッドの歩幅は狭くいつもよりゆったりと歩いていることは明白だった。身体を気遣われていることが嫌でも分かって、ヴァッシュの口は自然とへの字に曲がる。優しさを不満に思うなんて贅沢で最悪だ。ウルフウッドと一緒にいると、時々こういう気分になる。楽しかったあとにふいに入り込んでるマイナス思考。
 楽しかったあと――。そう、この八か月は間違いなくヴァッシュにとって楽しかった。付き合っているわけでも、この先そうなるわけでもないのに、ずっとふたりでじゃれ合って。短いようで長いような焦れったいセックスまでの道のりも、部外者からは理解できないようなふたりだけの生活も、結果的に一言で表すなら、「すごく楽しかった」というのがいちばんしっくりくる。
 両手をジャケットのポケットに入れて歩くウルフウッドの大きな背中を見つめ、ヴァッシュは声に出さずに「楽しかった」と呟く。白い吐息が闇に溶けた。すると、聞こえているはずもないのに、前を歩くウルフウッドの身体がぴくりと反応し、ふいに空を見上げた。ヴァッシュの心臓がドキリと跳ねる。つられて顔を上げた先には、輪郭のぼやけた三日月が浮かんでいた。良いように言えば笑っているみたいで、悪いように言えば欠けている。昔からどういうわけかヴァッシュは月を見るのが好きだった。静かな夜に寄り添う月を見ていると、自然とこころが晴れていく。
 明け方に浮かぶ薄くなっていく三日月を見るのが好き。
 朝いちばんに浴びる太陽が好き。
 気分の良い日に飲む酒が好き。
 思い通りの演技ができた日の自分が好き。
 努力したことが次の仕事に繋がる瞬間が好き。

 好きなことが多いと世界は明るく見える。その対象が人であっても同じ――。ずっとそう思っていた。レムが好き、ナイブズが好き、メリルが好き、ミリィが好き、リヴィオが好き。もちろんウルフウッドのことも好きだ。けれど、ウルフウッドだけどうしても何かが他の人とは決定的に違う。
 ウルフウッドは自慢のともだち。責任感があって、思いやりがあって、表情が豊かなところが面白い。言葉なんてなくてもこちらの言いたいことを察してくれて、いつだって誰かのためを想って行動する力を持っているひと。尊敬している。そんな風に生きられたらどんなにいいだろう。憧れている。やさしさとエゴの違いを理解しながら他者と接するその生き方は真似しようと思ってもできるものではないけれど、隣に居続けることができたらどんなに嬉しいか――

「トンガリ」
 ぼうっと考え事をしていたせいで、手を掴まれたのに反応がかなり遅れた。気づいた時には指を絡めるようにヴァッシュの左手は握られていて、ウルフウッドは黙って手を引いて先を歩き出す。
「ちょっ、ちょっと、まって……!」
「なんや」
「手、なんで…………
「セックスはよくて手ぇ繋ぐのはアカンのか?」
 素知らぬ顔で先を行こうとするウルフウッドにせめてもの抵抗をしようとヴァッシュは歩みを止める。
「ダメっていうか、ひとりで歩ける……から」
 身体は重いし、腰も痛い。けれど、問題はない。脚は動く。支えはいらない。なのに動揺して呼吸が乱れていく。
「冷えてそうやったし、あっためたろうと思って」
「そんなに冷たくないだろ……?」
 淡々と言うウルフウッドに対し、ヴァッシュの声は頼りなく尻すぼみになっていく。
「せやな。ワイの勘違いやったわ」
 ウルフウッドの手もヴァッシュの手もあたたかい。体温ならさっきまでずっと分け合っていた。あれで充分だ。
「は、離してくれない?」
 声が震える。口の中がみるみるうちに渇く。重ね合わせた手のひらから染み入る温度が心拍数をぐんぐん上げ、ヴァッシュの立っている地面だけが揺れている感覚がする。
……笑わんといてほしいんやけど」
 ウルフウッドは決まりが悪そうに口を尖らせ、握った手を小さく振る。若干の照れが入っている表情が珍しくて、ヴァッシュは黙ってゆっくりと頷いた。
「ずっとおどれと手ぇ繋ぎたいと思っとった。出かける時は人目もあるし、セックスの最中も握らせてくれへんかったし。今ならまだ暗いから許してもらえるんやないかと、思ったんや……………………
 アカンかったかー、と肩を落とす男は自分に自信のない顔をしているのに声色はひどく明るい。また試せばいいか、と言われているような気さえした。一ミリの隙間もなくぴったりと握られた手。互いの熱が溶け合う。

 やばい。こぼれる。
 こぼれたものは戻せないから。
 こぼれたものは本物だから。嘘じゃないから。

「う、………あぁ、もうっ」
 ヴァッシュが崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込む。繋いだ手に引っ張られウルフウッドも膝を曲げて座り込んだ。青い瞳からぼろりと大粒の涙がこぼれた途端、次から次へと雫が頬を伝って地面に流れ落ちる。なるべく顔が見えないように腕で顔を覆い隠しても、泣いているのは一目瞭然。赤いマフラーが濡れていく。
「おい、トンガリ……
「おま、っ、なん………そん、……お、れ、…………
 やがて嗚咽も混じり始め、しゃくりあげるようにヴァッシュは泣いた。何度も息を激しく吸い上げる様子が痛ましくて、ウルフウッドは空いている方の手でヴァッシュの背を撫で困った声音で呼びかける。
……何が悪いんか分からへんのに謝ったらアカンよなぁ。あぁ、けど、ワイのせい……やんな?」
「っ、……う」
 答える隙もないくらい嗚咽が止まらなくなり、ヴァッシュはみっともなく泣き続けた。視界はぼやけて何も見えず、唇を伝う涙は塩辛い。目元を赤く腫らして明日メリルに怒られると分かっていても自分の意思で止めることは到底できなかった。
 ずっとここにいたいと思ってしまうのは――
 一緒にご飯を食べないと物足りなくなってしまったのは――
 この家から出ていかなければならない日を考えただけで身が竦むようになったのは――
 ウルフウッドの笑顔を見ていると自分も一生笑っていられるようにさえ感じるのは――

 ウルフウッドのネクタイを選ぶ朝が好き。
 朝ごはんの目玉焼きを半熟にし損ねた時のウルフウッドの悔しそうな顔が好き。
 過保護でうるさいところが好き。
 職場の観葉植物と会話している謎動画を送ってくるところが好き。
 誰に対しても世話焼きなところが好き。
 弟妹たちを大事にしているところが好き。
 遊びに行こうと誘うとどんなに疲れていても笑顔を見せてくれるところが好き。
 煙草を吸っている時の手が好き。
 車の助手席から見る横顔が好き。
 妙なところで臆病なところが好き。
 キッチンに立ってメニューを考えている時の独り言が好き。
 風呂からあがった後、洗面所から「あいたでー!」と大声で呼ぶ横着さが好き。
 いってらっしゃいと言われた時の笑顔が好き。
 おやすみと言われたあとに「また明日」と言う声が好き。

 やさしいところが大好き。

 ともだち、尊敬、憧れ――、そんな言葉で蓋をしていた感情が一気に溢れ出し、脳内のもう一人の自分がお願いだから勘弁してくれと叫び散らして涙の海で溺れている。ウルフウッドの手を握ったら、こうなることが本能的に分かっていた。どんなに身体の奥を曝しても、肌に触れさせても、熱を分け合っても、手を握ることだけどうしても許したくなかったのは、あの灼熱の惑星での旅を思い出してしまうから。

――ヴァッシュには、前世の記憶と呼ばれるものがあった。ニコラス・D・ウルフウッドという牧師と過ごした短くも濃い青色の季節。

 かつて義手だった手に染み入る温度が余計に涙を誘う。砂漠の惑星での旅の中、ふたりの手は武器を握るためのものだった。片時も油断することを許されず、何があっても応答できるようにその手は常に空いていなければならなかった。けれど、肩が触れ合う距離に並ぶ時、背中合わせで戦ったあと、その手を握って隣を歩くことができたら一体どんなに幸せだろうとずっと思っていた。一度握ったらきっと離せなくなる。さよならできなくなる。もっと欲しくなる。笑わないでほしい? 笑うもんか――

 前世の記憶を思い出したのは、大学二年のとある冬。あまりに唐突に脳内へ流れ込んできた記憶に混乱はしたが、不思議と理解するのは早かった。そしてまず決心したのは、このことをウルフウッドには隠し通すということ。せっかく穏やかな時代に生まれ変わることができたのだから、血や硝煙の匂いを思い出すことなんてないほうがいい。人を殺めた記憶も苦しんだ記憶も必要ない。ヴァッシュはこの記憶を隠し通して側にいるつもりだった。しかし、笑いかけられるたびに、冗談を言い合うたびに、前世の記憶が今を生きるヴァッシュに干渉してくる。ウルフウッドが健やかで悲しまないでいてくれさえすればいいのに、そう願えば願うほどヴァッシュは自分を繕い続けることが耐えがたくなった。だから――、嘘を積み重ねるのではなく、嘘で覆い隠すほうを選ぶことにした。

 街で偶然見かけた芸能事務所に飛び込んで、入所を希望した時のことは忘れない。あまりにも必死に頼み込むものだから、その場にいたメリルが助け船を出してくれたこともよく覚えている。こころのいちばん深いところに隠した秘密を誰にも悟られないくらいの演技ができるように。どんな人間にでもなりきれるように。そんな不純な動機で役者を目指した。完璧に演技ができるようになったらまた会いに行こう。適切な距離さえ保てば前世の記憶を隠し通したままともだちを続けることだってできる。そう思っていたのに、結局四年で根を上げて会いに行ってしまった。さみしいと弱音をぶつけることすらできなかったくせに、ウルフウッドの声を忘れてしまう恐怖には勝てなかった。

 この八か月が大切な時間になっていくにつれて、覆い隠したものが浮き彫りになっていった。そのたびに上から押さえつけるみたいに蓋をして、こぼれないようにしていたのに。身体を重ねた時でさえ抑え込んでいた気持ちが手を握っただけでこんなにも簡単に止められなくなるなんて。生まれ変わる前から好きだったことに今気づくなんて重いにも程がある。
 上手く息ができない。涙で前が見えない。しゃくり上げる泣き声を掻き消してほしい時に限って自動車の通行はぴたりと止み、ヴァッシュの嗚咽はウルフウッドを悩ませ続ける。
「トンガリ、泣き止んでくれ」
 ウルフウッドがポケットに突っ込んできたのは財布と鍵だけ。ハンカチなんて都合のいいものは持っていない。困り果てたウルフウッドは袖口でヴァッシュの涙を拭おうとして繋いだ手を緩めた。
「まっ、て………! はなさないで! おねがい、やだ……
 ヴァッシュが涙でぐしょぐしょに濡れた顔を上げると、ウルフウッドは驚いた様子で何度も目を瞬かせる。
……ええんか? おどれがさっき離せって言うたんやで?」
「ゴメン……でも……
「別に謝らんでええ」
 ウルフウッドは再び固く手を握り、泣き顔を見つめ小さく笑う。乾きかけていた地面は雨が降ったあとのように濡れている。ヴァッシュは空いた手を胸のあたりに当て、深呼吸を繰り返して呼吸を整える。
……なぁ、なんで、手繋ぎたかったの?」
 鼻を啜り、掠れた声を絞り出す。
「そらぁ、おどれがフラフラしてどっかいきそうやから」
「過保護だ」
「そうやなくて、フラフラしてどっかいってほしくなかった。ずーっと隣に、そばにおってほしかった……だけ……そんだけやねんなぁ」
………は? なにそれ……、それって……
 ウルフウッドは一人で納得したように何度も頷き、握った手をゆらゆら揺らす。たった今、自分の気持ちを自覚したヴァッシュにとってはあまりにも衝撃的な言葉で、「そんだけ」で済まされるようなことではない。それなのに、ウルフウッドは呆けているヴァッシュの赤い鼻をぎゅっと摘まんでけらけら笑う。
「ぐっ、いってぇ」
「あー! アカン! こないな道端で蹲っとったらそのうち警察に職質されてまうわ! とりあえずコンビニ行って水と朝飯買うて家帰る! 立てるか⁉」
 ウルフウッドは繋いだ手をぐっと引き、呆然とするヴァッシュを立ち上がらせて歩き出す。やはりいつもよりゆったりとした歩み。ヴァッシュは意を決して歩幅を広げウルフウッドの真横に並ぶ。
「おれさぁ……、おまえの家に転がり込む前、ずっと、さみしかったんだよね」
……素面で言えるやんけ」
 ウルフウッドの意味深な発言の意図が分からず、ヴァッシュは小さく首を傾げる。とにかくずっと心の中で絡まっていたことが言えてほんの少し荷が軽くなったような気がした。しかし、何もかも打ち明けることができるわけではない。
「あと、おれ、おまえに言えてないこと――隠してることがあるんだけど……
「なんやねんもったいぶって」
「嘘ついてるんだ」
 ウルフウッドはヴァッシュの横顔を一瞥しただけで何も返さなかった。
……それでもいい? それでもそばにいていい?」
 ヴァッシュは唇をきつく噛み締める。初めてウルフウッドの家のインターホンを押した時と同じくらい心臓が皮膚を突き破りそうなほどに鳴り響いている。あの家に住み続けたいわけじゃない。ウルフウッドの隣にいたい。この手の温度を知ってしまったら、さよならするのは無理だ。後ろ向きに腹を括るのはもうやめだ。
「あんなぁ、なんもかんも話さへんと一緒におられへんくなるっちうことはないやろ。それに、ワイかて言えへんことくらいあるわ。おどれが冷蔵庫の奥に隠しとるチョコレートたまにつまんどるし、なんも言わんと引き出しから勝手にパンツ借りることもあるし」
「ははっ、なんだよそれ。くっだらねえ」
 真っ赤にした目元から悲しくもないのにまた涙がぼろりとこぼれ、ヴァッシュは鼻を啜りながら笑う。
「や~っと笑ったな」
「おまえの前でよく泣いてるから別に珍しくもなんともないだろ?」
「泣き顔も、全然怖ない怒った顔も、全部トンガリらしいと思うけどな。まぁ、笑っとってくれるんがいちばん安心する」
「あ、おまえの好きなタイプ、確か笑顔がいいなと思う人じゃなかった? おれも当てはまってたりする?」
……どうやろな」
「なんだよ、はぐらかすなよ!」
 歩くペースを速めたウルフウッドに文句を浴びせ、後ろから膝の頭で尻を蹴り上げる。蹴られた男は尻を擦り、鼻先が触れる距離で鋭い歯をカチカチと鳴らした。
「おどれが隠しとること教えてくれるんやったら、はぐらかさんと教えたってもええで」
「セコイ!」
「なんやとコラ、もっぺん言うてみぃ」
 怒声を撒き散らす男より一歩前に出て、ヴァッシュは走り出す。手は繋いだままだから追いかけっこにはなりやしない。すぐに歩くペースに戻して、後ろを振り返る。
「なぁ、腹減った! コンビニは後で寄ることにして朝ごはん食べに行かないか?」
「なんやかんやで昨日の夕飯食うとらへんしな」
「だろ? 寒いしあったかいもの食べに行こう!」
「ええけど、今何時やと思うとんねん。ファミレスですら開いとらへんわ」
「探せばいいだろ、散歩でもしながらさぁ!」
 握り締めた手をウルフウッドに見せつけるようにして持ち上げ、ヴァッシュは白い歯を見せ笑う。月明かりとまばらな街灯しかない中、眩しいものでも見たみたいにウルフウッドが目を細めた。
 前世の記憶があること――、それに加えてもう一つ大きな隠し事が増えた。元ヴァッシュ・ザ・スタンピードはウルフウッドのことが好きだ。いつまでもこの関係を終わらせたくないくらい――