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桐子
2024-11-04 12:03:43
2919文字
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楽園のつがい(後)
病院特有のつんとした消毒薬の匂いがする白い廊下を、重い足取りで歩く。
鬼太郎がここへ来たのは、今生の水木の母に会うためだった。
水木からは「母には会わない」ときっぱり断られた。それを死期の近い彼女に告げることは気が重かった。だが、水木の母は鬼太郎からの知らせを心待ちにしていることだろう。行かないわけにはいくまい。鬼太郎は覚悟を決めて病室の前までやって来た。
「失礼します」
ノックをして病室へ入ると、水木の母はベッドに横たわり眠っていた。細い腕は点滴のチューブに繋がれている。鬼太郎がベッドのそばへ寄ると、彼女はうっすらと目を開いた。
「
……
鬼太郎さん?」
「はい」
水木の母は、鬼太郎の顔を見て微笑んだ。
「夢を見たんです。娘が出てきたの」
嬉しそうに弾む声で彼女は言った。
「最後に見た時と同じ、白無垢を着ていてね。小さな女の子を連れてたの。お腹の中にも子どもがいるんですって」
鬼太郎は息を飲んだ。女の子、腹の中の子どもーーーそれは少し前に再会した水木の今の姿と一致している。
「あの子、お母さんになってたの」
彼女の目から、一筋涙がこぼれた。
「心配かけてごめん、でも自分は幸せだからって
……
旦那さんも、娘のことも子どももすごく大事にしてくれる優しい人なんですって。ーーー夢だと分かっていても、嬉しかった」
きっとそれは水木本人だと、鬼太郎は直感した。夢を渡ったのか、知り合いの妖怪の力を借りたのか。とにかく父が何らかの術を使い、水木の母の夢と水木自身の夢とを繋げたのだろう。
「鬼太郎さん、ありがとう。夢でも娘に会えて本当に嬉しかった。あの子は幸せになれたのね」
水木の母は、鬼太郎に何度も礼を言った。だが、鬼太郎はなにも言うことができず黙っていた。
水木は幸せだと言っていたが、鬼太郎の父が水木を連れ去らなければ、彼女には人間としての普通の幸せが待っていたはずなのだ。この老婦人だって、長い間胸を痛めながら娘を探し続けることもなかっただろう。
父が、水木の母から娘を奪ったことに代わりはない。しかし、それを目の前の女性に伝えたところでどうなるわけでもない。
「
……
寂しくないんですか?」
自分でも無意識のうちに、鬼太郎はそう口にしていた。彼女は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「寂しくないと言ったら嘘になるわ。でもね、あの子が幸せならそれでいいのよ」
そう言って笑う彼女の笑顔は晴れやかだった。
「あの子は私の宝物なの。だから、あの子が幸せなのが一番なのよ。会えなくても、そばにいられなくても、元気で楽しく暮らしてくれたらそれでいい。親が子に願うことなんてそんなもので、それだけで十分なの。無事に生まれて、自分の道を見つけて幸せになってくれたら」
ーーー大きくなったな。
水木も父も、鬼太郎を見て同じことを言ったあと、嬉しそうな顔をしていた。
水木の母が願うように、離れていても元気でいてほしいと願い、自分の道を見つけて歩いていけと、背中を押してくれたのだろうか。
ーーーそうであればいいと思った。
「お大事にしてください」
鬼太郎はそう言って一礼すると、病室を出た。外の冷たい空気に触れて、一息つく。空はよく晴れて高かった。
鬼太郎を一人残していった父と水木を、恨めしく思う。自分を捨てて、新しい子どもを作り可愛いがっていることが寂しく、つらく、許しがたい。でも、父や水木が鬼太郎のことを愛してくれ、大事に育ててくれたことは事実だった。それはこの先も変わらないだろう。
鬼太郎にはあの二人の気持ちはわからない。何もかも振り捨ててお互いを選ぶような地獄を知らない。でも、それでも父も水木も幸せになってほしいと願う。今まで二人が愛してくれた分だけ、鬼太郎だって彼らを愛したいから。
いつか、あの小さな妹も、生まれていない弟妹も美しい楽園の歪みに気が付いて外の世界へ出ていくのだろう。その時に、兄として優しくしてやりたかった。
「僕も帰ろう」
鬼太郎はゲゲゲの森へと足を向けた。自分の帰るべき家、仲間たちとともに暮らすが我が家へ。
「水木」
頬を流れる涙を拭っていると、水木が目を覚ました。彼女は青い目から涙をこぼしながら、ゲゲ郎に手を伸ばして抱きついた。
「ゲゲ郎
……
ありがとう。母さんに会えたよ」
「それはよかった」
「この子たちも会わせることができた。母さんは喜んでたよ」
水木は愛おしそうに、ふっくらとした腹を撫でた。
「そうか
……
よかったのう」
母を捨てさせたのはゲゲ郎だ。だが、水木は恨み言を言うわけでもなく、むしろゲゲ郎に感謝してくれるのだった。
「わしにできることはなんでもするぞ。だから、遠慮せずに言うておくれ」
この歪んだ楽園のような場所で、愛する女と子どもと暮らせることで、ゲゲ郎は幸せだった。水木がいなければ成り立たなかった幸福だ。だから彼女のためなら何でもしてやりたかった。水木はゲゲ郎に抱きついたまま、ぽつりと呟いた。
「
……
鬼太郎に会いたい」
ゲゲ郎は息を飲んだ。
「ごめん、やっぱりいい。こんなこと言って」
「水木」
「お前に鬼太郎を捨てさせたのは俺なのに、どうかしてた」
水木は顔を上げると、無理やり笑顔を作った。
「水木」
ゲゲ郎は水木に口付けた。舌を絡ませると、彼女は抵抗しなかったが、代わりにぽろぽろと涙を流した。
お互いに大事なものを捨ててここへきた。だが、水木との間に子どもができて、その成長を見守る度に、鬼太郎のことを思い出してしまうのだ。
小さい頃の鬼太郎もよく泣いていた。歩けるようになったら目が離せなくて、離乳食をおいしいと笑う顔が父親と瓜二つでーーーあの子を思い出すたび、水木もゲゲ郎も心に大きな穴が空いたような気持ちになるのだった。
鬼太郎はどうしているだろう、元気でやっているのか。毎日楽しく過ごしているだろうか。
ゲゲ郎は水木の涙を手で拭うと、その額に優しく口付けた。
「わしには、もうお主しかおらん。それでよいと、もう決めたじゃろう」
ゲゲ郎の言葉に、水木の目からまた涙が溢れる。彼女は泣きながら笑った。その笑顔は美しく、そして痛々しかった。
愛するものと二人きりの地獄は、確かに幸せだった。
子どもたちもやがては巣立って行く。そして水木とゲゲ郎はまた二人きりになる。それでよかった。
「かあさん、ないてるの?」
娘が心配そうな顔で水木とゲゲ郎を見ている。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと昔のことを思い出していたんだ」
水木が娘の頭を撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
ゲゲ郎はそんな娘を抱き上げて、その頬に口付ける。娘はきゃあきゃあと笑って喜んだ。
「とと、またきたろうのお話して」
そうねだられ、ゲゲ郎は娘を膝の上に乗せて話し始めた。
「よいぞ。
………
鬼太郎はの、妖怪の味方でもなく人間の味方でもない。弱い者の味方なんじゃ。ある日、人間たちの住む街に、人間を木に変えてしまう妖怪があらわれての
……
」
小さな小屋の中に、父親の声が静かに響く。娘は目を輝かせ、母親は息子の姿を思い描いて微笑んだ。
ごくありふれた幸せな家族の光景だった。
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