yoqips
2024-11-01 08:57:55
3492文字
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花模様のカットクロス




 夫の葬儀と相続を終え、ロアンナ・ハーパーがはじめにしたのは引越し先を探すことだった。夫の奇妙な死からすぐに強盗が入り、その強盗たちが精神病院に収容されたとあっては、さすがに妙な噂が立つことは避けられなかった。もともと愛着などない家だ。幸いなことに死人は出なかったため事故物件扱いにはならず、ハドソンバレーの美しい白亜の家はすぐに買い手もついた。家主が人の道を外れた邪神を信仰していたことなど新しい入居者には知りようもないだろう。
 ロアンナとミア、それからニュールが暮らせるのなら小さな家でも全く問題ない。けれどベビーシッターを雇いやすい治安の良い場所というのは、ほとんど良い学校区に恵まれた高級住宅街になる。エイドリアンがロアンナたちに残した遺産は相当なものだったが、可能ならそのお金はミアのために残しておきたかった。
 働ける場所も必要だ。しかし、アイダホ州の片田舎から出て12年も家に篭りきりだった自分にできることなどあるだろうか。良い思い出などない家の中でひとり紙とペンを前に考え込んでいると、頭の中はひどく重たく陰鬱になっていく。

 チリーン、とドアベルの鳴る音。

 ロアンナは抱えていた頭をゆっくりと放し、幽鬼のような動きで椅子からふらりと立ち上がる。玄関に行くと先に到着していた猟犬のニュールが尻尾を振ってドアを見上げていた。ロアンナははっとしてから慌てて扉を開くと、明るい外の光に色とりどりの大きな花束が視界いっぱいに広がる。

「ハーイ、ロアンナ! 待ちきれなかった?」
…………お花?」
「この前は献花ができなかったけど、単なる白い花よりいいと思ってね。君にプレゼントだよ。やあニュール! 元気だったか?」

 マーティ・ロック・スミスは少年のような無邪気な笑顔で、ロアンナに美しい花束を抱えさせた。オレンジと黄色のラナンキュラス、大きなスカートのように広がったチューリップと白いマーガレット、明るい紫色のスイートピーから清々しい香りがする。玄関にしゃがみ込んだ彼はニュールの短い毛皮を優しく撫でて、すっかり懐いた小さな友人を可愛がった。
 あれから仕事のためにニューヨークに帰ったと思っていたら、またハドソンバレーに花束を持って引き返してきたらしい。マーティはニューヨーク土産の大きな箱を持って、葬儀で見た黒いスーツから一変し、水色のジャケットにゴールドの花柄のついたなんとも華やかなスーツに着替えていた。

「イータリーってスーパーに寄ったんだけど、ここのヘーゼルナッツのチョコレートケーキはニューヨークで一番だね。あとティラミスと、ピーティーズのバナナクリームパイも!」
「こんなにたくさん、ありがとう。お花も………こんな花束を貰うのって、初めて……
「花束をもらったことがない? そりゃ一大事だ、私が君に似合う花をNY中から買ってこないと」
………………。でも、どうして……なにか忘れ物?」
「ロアンナ、君が困ってるんじゃないかと思って」

 それから、にっこり微笑まれて額にキスされる。ロアンナはまた瞼にじわりと涙が滲むのが分かった。ここ数年間泣くことなどなかったのにどうしてこんなに緩んでしまったのだろう。だってニューヨークからハドソンバレーまでは列車で二時間はかかる。思いつきで来るには遠い距離だ。
 男は俯いたロアンナの顔を優しく覗き込んだ。彼女の手からそっと花束を外して、折れそうな彼女の胴のあたりを正面から引き寄せる。ジャケットの胸元が濡れてしまうのも気にせずに、お利口に座って見上げる番犬に小さくウインクをした。





 目元と鼻の頭を赤くしたロアンナの前には、バナナクリームパイとチョコレートケーキと、大きなマグカップになみなみ注がれたコーヒーが並べられていた。ぎこちなく膝の上で手を重ねている彼女の口元に、男の大きな手がつまんだフォークで「はいどうぞ」とパイが差し出される。
 ロアンナは何か言いたげに唇を小さく動かしたが、結局輝かんばかりの笑顔に押し切られて口を開けた。ふわふわと軽い生クリームとバナナの甘みが広がり、しっとりしたパイが舌の上で柔らかく調和する。はにかんだロアンナはそのままフォークを受け取り、大人しくパイを食べはじめた。

「ふんふん、アッパーウェストにバーゲンカウンティか。バーゲンカウンティはいいと思うな、あのへんは親子連れが多いからね」
「でも、やっぱり家賃が高いのよね……
「エイドリアンはマンハッタンに不動産を持ってただろう? 貸し出せばそれなりの収入にはなるんじゃないかな、どこも一等地だし」
「それが………彼、ほとんどお金に変えてしまってたの。本当に、どこか遠く……アメリカの外に行くつもりだったのかも……
「おやおや」

 ニュージャージー付近の居住エリア情報を眺めながら、マーティはつまらなそうに紙をぺらぺらと無造作にめくる。税理士に確認するとエイドリアンの不動産や証券はいつのまにか現金や純金に変えられ、まさに夜逃げの準備といった有様だった。
 先立つものはあるが、将来の収入は見込めない。甘いものをコーヒーを嗜みながらまた憂鬱になりそうなロアンナをよそに、マーティは花束の飾られたテーブルを見てことさら明るい声で口をひらく。

「ところでこのテーブルクロスいいじゃないか! こういうものがあると部屋がパッと明るくなるよね」
「ああ……少しでも気分を変えようと思って、今朝出したの」
「立派なカロチャ刺繍だ。ミアの部屋にもあったけど、君の趣味?」
「ええ。数少ない趣味だから……ありがとう」

 少し照れたように微笑むロアンナに、マーティは衝撃を受けたようにまじまじとテーブルクロスを覗き込む。白のカットクロスに色鮮やかに刺繍されたカーキと黄色の草花は、ひとつひとつは素朴だが惜しみない数を散りばめられて非常に贅沢なつくりになっていた。光沢のある刺繍糸が丁寧に滑らかに整えられている。端まで美しく縫われたそれを撫で、マーティは顔の向きをロアンナとテーブルクロスに交互に行ったり来たりさせてキラキラと瞳を輝かせる。

「そうか、テナフライだよ!」
「え?……テナフライ?」
「バーゲンカウンティ北東部! 機械刺繍じゃなく手縫いの仕立て屋……エインズワース夫人のアトリエ! ああロアンナ、こんな素晴らしい特技があったなら早く教えてくれればよかったのに!」
…………話が飲み込めないのだけれど…………
「君の腕を欲しがる人がいるってことさ」

 12年間篭りきりのなかで数少ない趣味。今となってはそれこそが幸いした。孤独と暇を埋めるために一人黙々と針と糸に向き合う時間がロアンナには潤沢にあった。テーブルクロスにキルトのベットカバー、子供服に子供用の靴下。エイドリアンが本を読むのを嫌がったので、ミアが生まれると分かってから彼女の趣味はますますそちらに加速して溢れかえっていた。それはそのままポートフォリオとして提出できる作品が多いということだ。
 ロアンナの刺繍の腕はもちろん超一流のテーラーであるマーティから見ればアマチュアだが、丁寧さと根気にはなかなか光るものがあった。何より彼女の繊細で優美な感性から生まれた図案は、埃っぽい少女趣味ではなくどこか上品で、特に女性に好む人がいるだろうと素直に思える。有り体にいえばニーズを感じたのだった。

「いやあ、君が困っているのなら家くらいと思ってたんだけど……それほどの腕があるのに未経験の事務職や工場勤務なんてナンセンスだ! なんなら本場のフランスやハンガリーに留学に行ったっていい! ロアンナ、私を信じてエインズワースの仕立て屋で面接を受けよう!」
「あ……………………? ええっと…………

 マーティ・ロックは家主のかき集めた求人広告や雑誌を机から床に豪快に放り出し、代わりに熱い握手を彼女に差し出した。ロアンナはぽかんと呆気にとられたままに、彼の手と眩しい笑顔に圧倒され、なんだかよくわからないまま恐る恐る握手に応じた。
 テーブルクロス一枚で一体何が起こったのだろう。
 さらに笑顔になったマーティに机越しに抱きしめられ、唇にキスが落ちてきて、もはや彼の勢いを止められそうになかった。ともかく仮の就職先と住居を決めなければ、このままハンガリーやフランスへ行かされそうな予感すらある。ロアンナは慌ててパイやチョコレートケーキをそっちのけにし、コーヒー片手に慣れない履歴書を書く羽目になるのだった。