土砂降りの山中に何度も引きずり出され、酉辺蔓のピカピカに磨かれたプリウスの車体はひどい有様になっていた。酉辺は泥まみれのままシートに座ることへの抵抗より疲労のほうが格段に濃いらしく、助手席に背を預けてぐったりと黙りこんでいる。
果たしてこんなに奇妙な状況があろうか。
星蘭はもう数時間かけて乗り慣れた車のシート位置を調節し、酉辺がシートベルトをしたのを確認して危なげなく発進する。なんとも恐ろしい不幸中の幸いとばかりに、死体を埋めるために星蘭が大道具倉庫から持ち出した衣装やらブランケットやらが、濡れて凍える彼らの体を辛うじて温めていた。
「………それで?」
「どこから聞きたい?」
「ああ、疑問に思うことはいくつもある。君は私の車のキーをなぜだか持ってるし、私は何故か生き埋めにされていて記憶がないし、なぜ橘くんが………待て、それは私のシャツじゃないか?」
「ダメだ、やっぱり頭から説明するよ」
山の麓の道はバケツをひっくり返したような大雨のせいか閑散としていて、ワイパーがフロントガラスを拭っても拭っても周囲に人気はない。星蘭はなるべく簡潔に伝えようと頭を捻ってはみたが、起こったことがあまりにも荒唐無稽と不条理さに溢れていてあまりに説明が困難だった。
「まず……あなたの偽物がいたんだけど」
「私の偽物だと?」
「そう。あれは酉辺蔓の皮と記憶を被った化け物だった。比喩的な表現じゃない。オカルトとか超常現象とか妖怪とか、そういう類の話をしてる。多分だけど……あなたはあの怪物に襲われて姿を奪われたんじゃないかな。私は今の所そう解釈してる」
「おいおい……」
「いったん話を進めさせて。昨日の12時ごろに私は劇団を出て、帰り道にあなたの偽物と死んだ男に出くわした。私にはあなたが男を殺したように見えてて──実際は化け物と倒れたあなただったわけだけど──色々と問答の末に、その死体を山に埋めて隠蔽することになった」
「悪くない導入だ。脚本家になってみたらどうかな」
「麓に下ろしていくぞ」
「…………」
酉辺蔓は青い顔のまま軽口を叩いたが、星蘭が睨みつけると眉根を寄せて口をつぐんだ。当然の反応だろう。星蘭は自分でも自分が口にしているストーリーに呆れている。薬でもやっているみたいだ。だが記憶を弄られでもしていない限り、彼女にとってはそれが真実であることに変わりはない。信号で停車すると、ギィギィとワイパーが雨粒を拭う音がやけに耳についた。
「あの化け物は家もキーの場所も全部知ってたみたいだった。なんか気味悪いくらい親切で……てっきり私まで殺すつもりなんだと思ってたんだけど。今思うと様子が変だったのは偽物だったからか……その酉辺蔓の偽物と映画を観て、ずらずら捲し立てられて、挙げ句の果てにワケのわからないプロポーズを受けて」
「おやおや」
「ビンタして断ったら正体を現した」
「何だ、腹の立つ話だな。どうして私が見知らぬところでプロポーズを断られないといけないんだ?」
「うるさいな! 私は虫の化け物みたいなのに襲われて、無我夢中で抵抗して撃退までしたんだ。それで薬指……あなたの本物の薬指だけが残って……」
二人の視線がふと彼の薬指に移る。断面が黒く塗りつぶされていたほっそりした彼の指は何事もなかったように手にくっついていて、普通に動いているようだ。あの紫色の石がついた不気味な指輪はいつのまにか失われていた。
星蘭はいくつかの街灯を横切りながら、まだ電気のついていたコンビニエンスストアを通り過ぎてしまったのを視界の端にとらえて、停まればよかったかと頭によぎる。星蘭の次の言葉を待って男が黙っていると、まるで雨の中一人になったようでぞわぞわと背中が寒くなってきた。相対していた自分でさえこの調子なのに、あの化け物に乗っ取られていた酉辺の身体には何も影響はないのだろうか。
「私が埋めたのは酉辺蔓だったと思い出して、もしかしたら生きてるのかもと、掘り返しにいった。変な風に切り取られてた薬指をくっつけるとあなたは息を吹き返した」
「そして私は先ほど山で目覚めた、というわけか……」
「なんだか、すべてが突拍子もなさすぎて、自分でも気が変になったんじゃないかと思ってるよ。証拠になりそうなものは何も……車のキーは偽物から、シャツは家で借りた。後ろの道具とか衣装は好奇派の大道具倉庫のやつ」
「なるほど」
こんな話を聞いて「なるほど」なんて嘘でも言えるのはすごいと思った。自分もだいぶ疲弊しているのかもしれない。星蘭は運転に集中しながら隣から遠慮なく飛んでくる質問に答え続け、分からないことには分からないと言った。雨足が少しましになったころ、道路が街中に入るにつれて開いている店もそれなりに多くなってくる。雨雲のせいで暗く感じるがもう朝方だ。
迷いなく酉辺の家のほうへとハンドルを進める星蘭の横顔を眺め、助手席に深く座り込んだ男は膝の上で両手を組んで頷いた。
「分かった、君の話を信じる」
「本当に?」
「橘くんが錯乱している様子もないし、作り話にしても現実味がなくて意味不明だが、何故か筋道が立っている。第一、身を守るためでも君はそんなくだらない嘘をつくタイプには見えない。だから信じる気になったんだ」
「あ、そう……」
「私が理論的な人間であることに感謝してほしいよ。まさか自分に推理の才能もあったとはね」
「ほんとレンガブロックで殴ってやりたい」
「変な気は起こさないでくれ」
泥まみれの車が駐車場に入っていく。
さすがに家主の酉辺もこのまま追い返そうという気はないのか、高級感漂うマンションの一室に再び招かれることになった。リビングの様子はやや荒れている。テレビボードにある映画のパッケージはそのままで、星蘭が走って出て行ったせいでラックが倒れて雑誌が散乱していた。
着替えになりそうな服を見繕うと脱衣所のほうに案内しようとする酉辺に生々しいデジャヴを覚え、星蘭はさっと顔を青くした。悪い予兆がする。ドクドクと冷たく脈打つ指先で着替えを受け取って、どうにか不自然にならないよう彼に訴える。
「いや、拭くだけでいい、着替えるから……」
「では私は寝室で着替えてくるよ」
「違う、悪いけど行かないでもらえないか」
「なに?」
「私は……さ、さっきから妙な発作があって……一人でいると堪らなく恐怖が襲ってくる。あの化け物のせいで……ああ……うう、あなたにこんなことを頼むなんて最悪だ……」
星蘭はまったく取り繕うことができなかった。強烈な恐怖と痛みにも似た孤独が、ふたたび体を支配していく。なんとか息を吸い込む。さっきまで何ともない様子だった彼女の呼吸がひゅうひゅうと乱れたのを見て、酉辺は顔に出さないまでも動揺しているようだった。星蘭が憔悴した表情で彼を見上げると、酉辺は落ち着いた様子で、意外にも心配そうに軽く眉を下げていた。
「居ればいいんだな? 他には?」
「大丈夫、前はすぐおさまったから……」
「分かった」
それだけ言うと酉辺は着替えのためにふっと背を向けて、その場から動かなくなった。星蘭はそれを見て肩の震えが少しましになり、自分も背を向けて深呼吸をしてから濡れた服を脱いでタオルで体を拭く。乾いた服を体に纏うとようやく指先に体温が戻ってきて、ほっと息をついた。着替え終わったと互いに声をかけてもう一度顔を合わせると、星蘭はものすごく奇妙な気分になる。
「ありがとう。何というか……普段は思ったよりもまともなんだね」
「思ったよりとは何だね」
「舞台上のあなたは怪物だから」
しかしここは舞台の上ではない。
酉辺は呆れたように服を脱衣所に放り込み、キッチンへと向かうようだった。仕方がないので星蘭もそれに続かせてもらう。外は雨が止んで、雲間から少しずつ細い朝日が射している。不条理な夜が終わり正常な朝がきた。フローリングに落ちる太陽の光につま先を温められ、星蘭はようやくそれを実感した。
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