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yoqips
2024-01-15 22:14:45
3761文字
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海の見える家
※片鱗、蹂躙のネタバレが含まれます
息を殺す。鼓動と脈を薄くする。
殺人鬼は暗闇の中を掻い潜り、まだ見慣れぬ間取りをひたひたと音もなく進んでいった。整頓されているところもあれば物が溢れて散らかっているところもある、いたって平凡な部屋を横切って。やがて家主の寝室のノブを静かに捻って押し付けるようにすると、茶色いドアがゆっくりと開いていった。
窓からの薄明かりに出刃包丁が鈍く光る。木製の持ち手を軽く握り直しながらビスコは猫のようにベッドへ近づき、そこに誰も横たわっていないことに気づいて───思惑が外れた怒りまかせに羽毛布団に包丁の先を突き立てた。ドスッという鈍い音。うねる赤毛の隙間からゆっくりと視線を横にずらしていくと、電気もつけずにソファに座っている房芳の輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
「何故だ?」
「ええと、君たちの話を自分なりに考えて、たぶん
……
ビスコくんが僕に単身会いにくるだろうと」
「
…………
」
「解離性同一症
………
戦争後遺症として私の部下にも起こったことでした。極限状態の人間が取れる数少ない精神自己防衛だ。けれど最終的な統合までいく例はかなり少なかった。戦争が終わらないせいで悪化したり、治療に取り掛かる前に死んでしまう者ばかりだったんです。
なるべく全員と話したが、たいていの副人格はひどく傷ついた主人格を守るため強かで攻撃的だった。私が彼らに命令を与える上官だったからでしょう。君も私が信用するに足る人物なのか見定めに来るのではないかと、なんとなく思っていました」
房芳は銃よりもペンが似合う頼りない指で、パチンとシェードランプのスイッチをつけた。オレンジ色の柔らかな光が部屋を照らし、ビスコはギラギラと光る茶色い瞳で男を睨みつける。房芳はどうぞともう一つの一人掛けソファをすすめたが、ビスコは伸びすぎた高い背を丸めて、右手に包丁を持ったまま不気味に佇んでいた。
研ぎの甘い刃に引き裂かれた羽毛が絡まっている。房芳は開いた窓に手を伸ばして閉じ、部屋の夜風をそっと遮った。
「僕に聞きたいことがある?」
「
………………
」
「なら、僕のほうから質問してもいいかな。君たちが法廷や取り調べで受けたつまらない質問かもしれないけど」
「シィーーー
…………
ハァーーー
…………
」
「衿迦くんに質問するのは傷になるだろう?」
ビスコは押し黙った。彼が意識を持ってからの短い期間の中で、凶器を携えた自分を前に取り乱さない者に会うのは初めてだった。房芳は書類でも読み上げるように殺人衝動について質問する。つまり一連の犯行はビスコの快楽を満たし、衝動的に行いたくなるような行為なのか。薬や煙草のように渇望感があるのか。
殺人鬼は法廷と同じように淡々と、彼を守るためだと答えた。
「彼が生命の危機になくとも?」
「中身が壊れることもある」
「君が阻止した?」
「おれはそ、そ、その、そのために生まれた
……
」
「ふむ
………
君は蛇之目衿迦から生まれた純然たる怪物だ。世界という大樹にかすかな枝葉も持たず現れた狂気の産物。彼だけを拠り所にしたひとかたまりの虚無であるはずだった」
「だが分たれた」
「そう、幸か不幸か」
房芳は肩をすくめた。異世界で出会った異世界人。彼には途方もない恩があるが、ビスコは人間が持つ恩義に裏付けられた義理というものをはじめから持たない。他の人間に比べれば重要かもしれないが、この男がひとたび衿迦の幸福の妨げになろうとすればビスコは哀れな羽毛布団と同じように彼を串刺しにするだろう。最愛の者の肉親を切り捨てたことのある殺人鬼にとって、いまさら躊躇う理由にはならない。
ビスコはおそらく房芳をいつでも殺すことができる。この余裕ぶりを見るにあるいは何か決定的な対抗手段を持っているのかもしれない。本人の言葉を信じるのならこの男は大戦の最中において現役の軍人だったはずだ。房芳は部屋にピンと張った息の詰まりそうな空気を緩めるように、ふっと気の抜けた微笑みを浮かべる。
「僕としては、君たちが安全でいてほしいね」
「む」
「ビスコくんはある意味個として安定しているが、彼は家族と世界と精神の一部を失った。衿迦くんの安全が保障されない限り君から武器を取り上げるのは不可能だろう。僕は君らの助けになりたいが、君は僕を排除してもいい。衿迦くんの幸福を君以上に願っている人間はいないだろうから」
男の声には温かみも冷徹さもない。紙の上にある文字を読むような当然さで、法外な契約はテーブルに持ち込まれる。ビスコにはなぜ彼がそんなことを言い出すのかますます理解できず困惑し、自分が優位にあるにも関わらず居心地が悪くなる。
そしてはじめにした質問を繰り返した。
「何故だ?」
「いちど約束したのなら違えてはならない。違えれば相手が納得する手段で対応する。たとえ自分が与える側に立っているように思えても、そうすべきだと思います。私はそれが他人と信頼を結ぶ唯一の方法と信じていますから」
「代償が命でも?」
「はい。あなたにとってそれが信じられる手段なら」
どうやら──それが真実だとビスコは思った。房芳の黒い瞳のなかにある星のような輝きは真っ直ぐに殺人鬼を見て、いつ首が切られても構わないというように無防備に体をソファに預けている。房芳が全幅の信頼を置いているのはビスコであり、衿迦であり、自ら立てた契約への誇りだった。
互いに不利益のない契約は、履行されているあいだ完全な効力を持つ。暴力の嵐のなかにある文明という一本の蝋燭。自分の持つ矜持を相手も必ず持っているという信頼の上で成立した約束。それこそがこの男が今まで生きてきた手段なのだろう。ビスコはそれをめちゃくちゃに踏み躙ってもよかった。この世にはお前が培った哲学などには思いもよらない狂気の沙汰があるのだと。
だがそうはしなかった。
せっかく衿迦が見つけた安全な止まり木をビスコが壊してしまうなどあり得ないことだ。房芳は彼に暖かいスープと清潔な寝床を与え、本と知識をもたらした。幸福そうな衿迦を見ているのはビスコにとって無上の喜びだ。房芳は二人を保護することで利益を得てもいるが、本気で幸せを願ってもいる。大男が包丁を持った腕をだらりと下ろしたのを見て、房芳は心なしか嬉しそうに表情を緩めた。
「
……
衿迦くんには将来がある。だが君を社会に交じらせるのが良いことなのか僕にもわからない。はっきり言って単騎の君は戦時中でも危険人物だ。今こうして僕が殺されていないのは、衿迦くんがもともと我慢強い子なんだろう。万が一を考えれば周りにとっては不幸なことかもしれないが」
「おれはどっちでもいい。必要ならやるし、必要ないならしない
……
家の中でじっとしていても別にいいんだ」
「そう言うと思ったよ。もともとは君の望みじゃないのは分かってる。でも、衿迦くんは君が人間的な娯楽や幸福を楽しむ姿が見たいんじゃないかなぁ?」
「うう゛ー?」
「はじめは単なる模倣でもいいじゃないか。新しく枝葉が生まれることもあるだろう。たとえば働き先を見つけて、労働で得たお金を何に使うのかなんていうのはどうかな。君もちゃんと私の養子になったんだから問題なく見つけられると思うよ」
「べ」
「あはは。じゃ、僕が考えよう」
房芳がおかしそうに笑った。
考えるのはきっと得意なのだろう。
ビスコは大きな欠伸をするとベッドの上に包丁を置き、何事もなかったかのように足音を立てて房芳の寝室から出ていく。おやすみという穏やかな声にビスコは一瞬だけ立ち止まり、振り返ることなく家の中を歩いた。リビングも廊下もビスコには馴染みのない色で、匂いすらあの家とは違う。
与えられた寝室の大きいベッドには、寸足らずの布団と毛布が被さっている。マットレスの端で衿迦が丸まってすうすうと静かに眠っていた。近頃はよく眠れるようになったからか肌艶もよくなってきた気がする。ビスコはしばらく薄闇の中で寝顔を覗き込んだあと、スプリングを揺らさないように慎重にベッドに上がったつもりだったが、衿迦はふっとまつ毛を震わせた。
「ビスコ〜
……
トイレ?」
「む〜
……
」
「ちがうの? 何だよぉ〜
……
」
寝ぼけ眼が開かないままむにゃむにゃ喋る衿迦を両腕でマットレスの真ん中に引き寄せ、毛布を巻き込んでしっかり被らせる。ビスコは放り出された枕を持ってくると、何度か位置を調節して、やっと頭の落ち着く場所を見つけた。
窓の外はまだとっぷりと暗く、波の音が遠く遠く聞こえてくる。この静寂はきっと朝まで続くだろう。衿迦のつむじに頬をくっつけたままビスコが息をつくと、彼は男のお腹のところに顔を埋めたまま小さな声でいった。
「房芳さん、いい人そうだよな
……
」
「うん」
「大丈夫だよな?」
「うん、うん」
ビスコの頷く声を聞いて今度こそ、衿迦は呼吸を深くしてもう一度眠りについた。この家はあの場所とは違う。諍いの声と瓶が割れる音から逃げて、梯子をかけるための二階もない。ビスコはまだ身長のわりに細い背中が上下するのをしばらく眺めて、もう同時に眠れないことを思い出し、少年を抱きしめて目を瞑った。
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