yoqips
2021-11-05 17:01:23
1663文字
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小鳥遊月美「無題」批評

公益社団法人 彫刻芸術協会機関誌【JET】No.98に掲載




 
「ミステリーは謎が解ける瞬間が一番つまらない」



 小鳥遊月美の作品はひとつとしてタイトルのつけられたものがない。選ぶ素材にも一貫性がなくさまざまではあるがいずれも既製品からは外れた一点ものの作品であり、レディメイドではなくオーダーメイドである。ただタイトルというものに関心がないのであれば作品を管理するための番号やアルファベットをつけてもよいものだが、作品には過去から現在にわたって「無題(untitled)」と名づけ続けられている。
 「タイトルを持たない」「意味を持たない」ことが主軸であるのなら、小鳥遊の造形物は芸術作品とは呼べないという見方もある。彼女の作品は素材のフォルムと特性を活かした直線あるいは曲線で形どられ、そのクオリティは十分鑑賞に耐えうるものであり、実際にいくつかの商業施設のエントランスを華やかに演出している。しかしインテリア商品と呼ぶにはかかるコストは販売価格から度外視されており、実際制作スタジオでは完成間近でありながら破壊してしまうケースもあるという。この点からみるに小鳥遊の彫刻はやはり商品ではなく作品と呼ぶべき代物であろう。芸術作品とそうでないものの境界は今なお混沌のなかにあり、ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンによる「複製技術時代の芸術作品」において語られるようになった「アウラ」──すなわち、機械的複製によって芸術作品のコピーを大量生産することが可能になった時代において、オリジナルの作品から失われる「いま」「ここ」にのみ存在することを根拠とする権威であるが、あるいは小鳥遊月美の作品は造形の美しさを除けば、そのアウラのみによって構成されているといってもよい。
 1917年にマルセル・デュシャンは磁器の男性用小便器を横に倒し、"R.Mutt"という署名をしたものに「Fountain(噴水/泉)」というタイトルを付けた。本作はニューヨーク・アンデパンダン展には出品を拒否されたが、この作品は「芸術の概念や制度自体を問い直す作品として、現代アートの出発点」であり、従来の伝統的な彫刻形式をはみ出した造形作品としての"オブジェ"の認識は本作から始まったとされる。我々はこれら一見不可解な「作品」と出会ったとき、そこから作者の意図や意味を見いだそうとする。小鳥遊月美の作品はそれらすべてを破壊する立場にある。
 彼女の作品になにかタイトルがついていたとする。「水(water)」でも「雷(Thunder)」でもよいが、会場に佇むガラスや金属のオブジェに言葉が寄り添った瞬間、途端に陳腐なメッセージに変化し、ミステリアスで無限の広がりを見せていた魅力が箱に収まる小さな概念と化す。認可を受けた作家特有のただ曖昧で臆病な表現だと揶揄されるかもしれない。突飛に人種差別やジェンダー論、男女の恋愛や非倫理的な性愛、おぞましい恐怖と苦しみや生死や宗教的暗喩が見出されるかもしれない。それらが付与された作品は悲惨だ。もとから作者の意図にあったにせよ、あるいは浮き上がってきたにせよ、一度貼られたステッカーはなかなか剥がすことができない。
 無題の物言わぬ彫刻は、沈黙を守るがゆえに強烈に訴えかける。なぜ謎を謎のまま置いて置けないのか。歴史のなかで本当は何が起こったかなんて果たして重要だろうか?高解像度のカメラで映せば美しさは増す一方か?謎めいた怪人を一皮めくれば哀れな過去があり、それを意気揚々と暴いた探偵すら三文役者になる。そこに込められた意図や感情を読み取るのことに「意味」はあるのか?
 その答えは小鳥遊の作品において常に「NO」である。彼女の作品は複製技術時代より以前に滅びた純粋な芸術か、それとも芸術作品そのものへのアンチテーゼか。それを解き明かすことすら小鳥遊の作品は否定し破壊する。そこにはただ、美しいオブジェはあるのみである。

*この批評あるいは作品について、アーティスト本人の意向によりコメントはありません。