yoqips
2021-10-17 00:52:22
3056文字
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遠く嵐の鳴るころに


 平たい野山で嵐が起こる。
 誰も彼もランプを頼りに息を殺して毛布を被っているしかない。嵐とはそういうものだ。



 
遠く嵐の鳴るころに






 一ノ木無花果がフィグ・フロレンスという名前で呼ばれていたころ、彼はウェールズのヘイオンワイという田舎町に暮らしていた。くせのある金髪を肩まで伸ばし、そばかすの散った頬とすこし尖った耳が特徴の、育ちのよい少年だった。10歳になるころには歯に矯正器具をつけはじめ、銀色のワイヤーをぴかぴかさせながら石畳や野原を駆け回っていた。
 ヘイオンワイは人口約1,500人の小さな町にもかかわらず、30軒もの古本屋が立ち並び「古書の聖地」と呼ばれる場所だった。フィグはウェールズ人の父とその同僚であった日本人の母親のもとで生まれたが、二人はいわゆる公的機関のとても忙しい部署の人間だったため、ここで牧場と農園を細々と続ける祖父と祖母のもとで育てられていた。
 片田舎で牧場経営というといかにも牧歌的だが、実情はそれほどほのぼのしたものでもない。自然や動物を相手にする仕事は肉体的にもきつく、ときに天から訪れる激しい試練に文句も言わず耐えなければならない。この土地に長く暮らして財産を維持するフロレンス家は周囲からそれなりの尊敬を受けていた。祖父は堅実で伝統的なやり方を好み、従業員は厳しく指導したが、こと子どもに関してはかなりのびのびと自由にさせていた。牧場主の堅物ぶりをみるに、教育方針が変わったというよりは単にフィグが孫だからかもしれない。

 彼の祖父の家にはいろんな言語がいつも飛び交っていた。癖の強いウェールズ語に標準的な英語、母の日本語に、業者たちのなかにはスペイン語やポルトガル語を話す者もいた。そこに入り乱れる人々は祖母に抱かれたフィグに構わず「こんにちは坊ちゃん」と母国語で話しかけるので、話せるようになるまでずいぶん時間がかかってしまった。
 たが、小さな脳みそに詰め込まれた言葉たちは彼をヘイオンワイにあふれる古書へと導いた。彼はいつも古い本を抱えてお気に入りの原っぱや小さな森に入り込む、夢見がちで冒険好きの、歳のわりにはもののわかった子供になった。あまりに田舎だったので連れ立って遊ぶような歳の子供がほとんどいなかったが、フィグは一人だろうと二人だろうといつもおおらかで機嫌がよかった。

「おじいちゃん、こわい」
「ただの嵐だ、朝になりゃおさまってる」
「おうちとんでっちゃうよ」
「バカ言うな、本でも読んでろ」

 唯一大げさに怖がるのは嵐だった。いつもなにが楽しいのかにこにこした顔のフィグだが、空が真っ暗になり雷が轟く日には泣き顔になって祖父の部屋に逃げ込み、ブランケットや毛布にくるまってぶるぶる震えていた。雨が激しく窓を叩き、二人の顔を照らすピカッとした光のあと、また空が真っ二つに裂いたような音を立てて雷が落ちる。ロッキングチェアを楽しく揺らしもせずに落ち着いたまま、祖父は停電になる頃合いを見計らって、真鍮の古いオイルランプにマッチで火をつけた。
 ほどなく電気が消え、ケリーランプと呼ばれる小ぶりのランプの中に暖かい炎の光が灯る。フィグは涙で水っぽくなったグリーンの瞳を瞬かせ、祖父の足元でその明るさを頼りに大きなハードカバーを開いた。黄色く褪せた紙に綴られた物語のなかでは、家出した少年トムが友人たちとミシシッピ川をいかだで下り海賊ごっこをしている。
 文字を目で追いながらもいまだにガタガタと家が雨風で揺れるたび肩を揺らす孫を見ながら、祖父はタバコをふかしながらどっしりと重苦しい声で呟く。

「この家は百年以上ここにあるんだ。三匹のヤギを読んだろ?古いレンガ造りの家は今さらこんなちんけな嵐で吹き飛びゃしねえよ」
「ひゃく年?ほんとに?」
「そうさ。このランプも椅子も全部、おれの爺さんから貰ったもんだ」
「古いものっていつまであるの」
「さあな。欲しいならお前にやってもいい。お前の父さんは欲しがらんだろうし、いらないなら捨てちまってもいい……

 祖父の突き放すような声色は不思議と年輪を重ねた優しい樹木のように厚みがあり、フィグは素直にこくりと頷くことができた。彼はいつもフィグにどうしたいかを尋ねたし、答えたことを否定も肯定もしない。燻された煙草のけむりがじんわりと部屋にとどまり、そして嵐の夜に消えていった。




 フィグは家の方針で都市部の学校へは行かず、ホームスクーリングでのんびりと教育を受けていた。たいていは祖父母や通信教育の教師に質問をしながらテキストを進めるが、調べ学習やなにかを作るという時間も非常に多かった。フィグは特に絵や文章を形にしたり工作をするのが好きで、モチーフにするのはいつもウェールズの美しい自然だった。
 古書と籠植えの花。くすんだレンガの家々を縫って寄せ集まった濃いグリーンの大きな木々。赤茶けた土と綺麗に整った芝生を抜けると川の上流に届き、丘から見下ろした牧場の羊たちがぽつぽつと白い綿毛みたいに浮かんでのんびり草を食んでいる。そして故郷の景色のなかに、本や伝承に出てくる妖精を自由に遊ばせた。もしかすると空想のなかの彼らがフィグにとっての一番の友達だったかもしれない。

 のびのびとした少年時代を過ごしたウェールズから離れることになったのは、フィグが16歳になった頃だ。両親の仕事の都合で母親の故郷である日本へ引っ越すことになり、一人息子のフィグももちろんついていくことになった。長く親しんだウェールズと祖父母と離れるのは寂しかったが、忙しく留守がちだった両親とずっと一緒に暮らせるのはとても嬉しかった。
 荷物は別便で送ることになったので、空港で待合に座る親子は身軽なものだ。父が手続きを済ませている間、搭乗口の前でフィグの夢見がちなはしゃいだ声が自由に跳ねまわって、母親は微笑ましげに目を細めている。

「そうだ、フィグもあっちで認可免許を取らなきゃね。あなた絵とか描いたりするでしょ。日本ではそういう創作って厳しくて許可が必要なのよ」
「へえー、そうなんだ」
「ニュースで見たことあるでしょ。没とかニジゲンとか、イギリスではあんまり見ないけど。あれの関係みたい。でも大丈夫よ、あなたまだ未成年だし、ああいうのに引っかかるのってゴアとか酷いものだけらしいから」
「もしかして日本ってお堅い?」
「それだけ治安もいいわ。ウェールズとは違う意味できれいな国よ」

 フィグは母親とは日本語で会話することが多く、読み書きもしっかり勉強したため言語に不安はなかった。暫くは難しいが二人の仕事が落ち着けばウェールズの祖父母の元へも戻れるらしい。没やニジゲンというのは不思議だが、フィクションのなかの存在に実際に会えるというのは聞いただけでわくわくする話だ。清潔で治安がよく漫画やアニメで有名な楽しい国だと教えられていただけに、日本での暮らしは遊園地へ行くように純粋に楽しみだった。

「日本名、ちゃんと覚えてる?」
「もちろん、見てて」

 フィグは鞄からテキストを取り出し、その空白部分にボールペンで自分の名前を書いた。アルファベットに比べればいくらか癖のある字でゆっくりと書き込まれていく。ウェールズの片田舎で育ったフィグ・フロレンスという少年は、生まれたときに与えられたもう一つの「一ノ木無花果」という名前で、これから長い時間を日本で生きていくこととなる。