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yoqips
2021-09-23 09:00:39
2102文字
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白鳥のボート
山口木蓮という男
山口木蓮という男と恋人になってから数か月が経った。
どうやら誰にでも優しい男は本当に人類それぞれの大きな幸福を願っているらしい。恋人としてというよりはむしろ仕事上でのたくさんの人との関わり合いを見ているうちに、月美にもそれが少しずつ分かってきた。ともかく彼は人間の幸福や尊厳はたとえ愛の行為であっても侵されてはならないと本気で思っていて、理想の実現を諦めていない。
わざとらしくも見える彼の表層をめくってゆくと言葉と同じ答えがある。もちろん木蓮が何も考えていないとか純真無垢という意味じゃない。誰でも声の裏側に隠された本音があるものだが、木蓮の言葉は掲げられた理念みたいなものから利己のフィルタを通さずにそのままに出力されている。かといって正しい演技でもない。あくまで中立的に、命令に沿って動く電子プリンターのようにだ。
変な男だと思う。
そういう男が女をどうやって愛するか興味があった。しかしこれが拍子抜けするくらい生ぬるい。抱き寄せるとかキスをするとか頭を撫でるとかごく普通の素朴なスキンシップに、フラットな愛の言葉。あまりに一般的すぎてまさか創務省で検閲対象になるようなマニアな性癖を隠しているんじゃないかと疑いすらしたが、それが素なのだから怖い。だが、よくわからないということは月美にとってはまさに恋だ。
月美はいつも恋に落ちるのも早いが醒めるのも早い。相手を知りたいという衝動は、理解してしまうとともに新鮮な熱が失われ、ときめきが薄まって、その機微といったら好意と同じくらいに透けてみえてしまうらしかった。すると悪いところが目について早々に別れたくなる。悪い癖とは思っているが好きじゃない男と我慢して付き合うことなどできない。それでいえば木蓮は今まで付き合った男とは誰とも似てはいない。真面目で朗らかな男とも悲観的でニヒルな男ともボタンがひとつずれていた。
よくつまらないと捨てられる男。
それにいちいち傷ついた顔をする男。
月美にも女たちの気持ちが分からなくはない。刺激的なジェットコースターを期待してうっかり手漕ぎボートに乗ったような気分だ。穏やかな水面を漂っていて、あまり代わり映えのない表情の、可愛いですねと微笑む顔が柔らかくて、好きだと愛おしむ目が愛情に潤んでこっちを見る。それが永遠に続くかのように。
「お風呂を入れようと思うんですけど」
「んー」
「どいてくれませんか?」
「ヤダです」
「ヤダですか
……
」
月美は付き合ってすぐに彼の清潔で整った家を気に入って、ずっと居座っていたがった。木蓮は家でよく本を読み、月美はたいていその近くで同じく雑誌やメッセージを見ている。彼がソファで本を読んでいる最中は好きに遊ばせていた膝上に寝転がって、月美は携帯の画面から目を離さずに我儘を言ってみる。
何度か名前を呼ばれても生返事を繰り返していると諦めがついたのか小さくため息をつき、細長い指が月美のウェーブがかったピンクの髪にかけられて、こめかみから耳の後ろまで丸く梳かれていく。手を追いかけるように視線をあげると、切れ長の黒い目とかち合った。
「月美ちゃん」
どいてほしい、といいながらどっちでもいいと思っている恋人の声だ。顔がぐっと近づいて睫毛が見える位置になると、月美も自然と腕を下ろして顎を持ち上げる。薄い唇が触れたときにリップがつかないか少し気になった。両手を木蓮の首裏に絡めてぎゅっと抱きしめられると、服の上から想像するよりもずっと硬いきしんだ筋肉の感触についうっとりしてしまう。
キスするときはいつも静かで、焦ったいほどに唇と指は優しく、ひどく暴いたりはしない。何度も軽く合わせているときにぱちぱちと瞬く瞳を月美はこっそりと眺める。愛の言葉を一度聞くよりもはるかに強く語る虹彩と瞳孔。はっきりと自分を見ている視線の熱っぽさが好きで好きで仕方なかった。
「んん
……
」
「
……
まだ嫌ですか?」
「やじゃないけど、やめないで」
「大胆ですね」
「いま夢中なの」
「僕も、もう少しこうしていたいです」
カチカチと遠くで時計の音がする。けむりのように肺に溜まってゆく甘い空気。重なって離れない唇。やっぱりあまり大きくは変わらない表情と声色がどこか蕩けて柔らかくなるのが、本当に手放しがたいほど気持ちがいい。自分がこの世で特別大事にされている女だと思える。機械がやっていると言われても納得するほど整った部屋の持ち主の、驚くほど情熱的な愛を注がれて爪先まで満たされる。
そうではなくなってしまう日がいつか来るのだろうか。恋をしているときは果てのない水流に溺れていると感じるのに、終わるときは本当にあっけなかったりもする。いつだって嵐のように不条理な愛だの恋だのに振り回されている瞬間が幸福ではあるが、それは今じゃなくてもいいと月美は初めて思った。
「もっとして〜
………
」
「あなたが望むならいくらでも」
「んふふ」
この居心地のよいボートに長く乗っていられますように。嵐がやってくるならばどうかもっと遠くの日でありますように。
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