yoqips
2021-09-19 19:42:56
3585文字
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ストロベリームーン



 どうしようもないほど女だと思うときがある。男がスカートを着ても女がネクタイをつけてもいい時代に生まれたというのに、月美が選んだのはピンク色と化粧品と洋服で、美しいことに目がなく、恋をすることが喜びだった。愛に盲目な女がいくら愚かだと言われても、誰かに恋して満たされる幸せやときめきが月美の心をつかんで離さない。

「よろしくお願いします」
「あー、おねがいしまーす」
「今日からあなたの指導を担当します、山口です。検閲は大変ですがやりがいのある部署です。分からないことがあったら気軽に聞いてくださいね」
「はぁい」

 山口木蓮という男は、月美の創務省での先輩だった。ピアスと首のタトゥーという強面の風貌が似合わないほど親切で、規則正しい生活と道徳を愛し、使い古されたつまらない話を平然とする。それにきれいな手と整ったデスクを持っていて、取り立てて美男子というわけではないのだが、どこか女に好かれる男が持つ特有の不思議な魅力があった。
 誰にでも優しい男がどんなふうに人を愛すか気になった。月美は木蓮を恋する相手に選び、思ったとおりに恋人になり、くだらないことで簡単に破局した。だがもとより毎日顔を出す職場の隣の席の相手だ。ともかく月美と木蓮は単なる先輩と後輩に戻り、男と女ではなくなった。




 別れてからはそれこそ職場の同僚たちが気を揉むほど露骨にそっけない態度を取ってはいたが、木蓮は付き合う前と同じ世話焼きの先輩であったし、月美も仕事となれば素直な後輩だった。新しい恋を見つけているうちに月日は流れ、そしてまたぽっかりと一人になったときに、小さなきっかけはあった。 
 没討伐には怪我がつきもので、マキナで両手が塞がる月美は特に手や顔に生傷をつくることが多かった。仕事でできた傷をあまり気にしたことはなかったが、彼女よりずっとまめな木蓮はいつも用意しているらしい絆創膏を後輩の頬に貼ってくれた。きちんと切られた爪と長い指。懐かしさなのか肌恋しさなのか区別はつかないが、ふと月美はまた彼に抱きしめてほしいと思った。

「はい、これでいいです。目が傷付いてなくて良かった。気を付けてくださいね」
…………
「小鳥遊さん? 痛むんですか?」
「ちょっとズキズキする」

 頬がというよりは胸が。
 触られた頬をさする。好きだと思った相手は擦りガラス越しに眺めているように悪い点は見えなくなり、良い点はことさらに輝いてみえる。一度恋した相手に二度落ちるのは簡単だった。熱っぽい視線を隠そうともしない月美のせいでなんとなく男と女の匂いが戻ってきて、それに木蓮もつられているように感じた。何故かなんて自分の心を推しはかったりすることを月美はしない。ただ心の命ずるままに体が動く。
 とはいえ、相手は元恋人だ。
 一度喧嘩別れをしてから険悪になった相手との恋人でなかった期間の温度差が、決定的な言葉を躊躇わせる。たまにかち合う視線をそらすたびに、隣の体温が気にかかった。





 金曜日の夜。
 先日の没討伐の事務処理が手間取り、部署全体の退勤がだいぶ遅れていた。人もまばらになったオフィスで、月美はPCの電源を落としてジャケットを羽織る。退勤時間を三時間過ぎた頃合いで、木蓮もちょうど席を立つところだった。今日を逃せば週末を挟んで、月曜日まで機会を待たなくてはならない。笑顔のひとつも思うように作れないまま、それでも月美はツンとした顔で隣に声をかける。

「山口センパイ、駅まで行きます?」
「ああ、……はい」

 一緒に、という言葉を省いても意味は正しく伝わったようだった。木蓮は一瞬虚をつかれたように瞬きし、あまり温度の感じられない笑みのまま、それでもしっかりと頷いた。妙な距離感を保ったまま、付き合っていたころはよく共に歩いていた道をぎこちなく進む。
 一週間分の仕事の話などすぐに途切れてしまい、うまい話題が思いつかないまま、コツコツとヒールのかかとと革靴の底が道を続く。

「あのパン屋さん新しくなったんですね」
「そですね」
「あそこの犬可愛いですね」
「ん」
「あー……カレー屋ですね」
「んふふ」

 明らかに沈黙に困って目に見えるものを列挙しはじめた木蓮に、月美は思わず小さく笑い声をあげた。

「知ってるよ、一緒にいったじゃん」
「そうでしたっけ」
「あたしキーマカレー食べた」
「そういえばチキンカレー食べました」
「欧風カレーも食べたかったなー」

 月美の笑顔を見てあからさまにホッとした顔になった木蓮に、まるで時が戻ったように親しげに話すことができた。駅についても逆方向の自宅の電車には乗らずに、向かい側のホームに並んで立つ。木蓮はじゃあ今度また行きましょうとも言わなかったが、同じ電車に乗る彼女に理由を訪ねもしなかった。ゴトゴトと路線を走る振動を感じながら、隣で吊革をつかんでぼんやりと外の景色を見る。
 改札を出て、道路沿いにいくつかの道を通り過ぎ、他愛のない話をぽつぽつとしながら見慣れた高いマンションにつく。二人は当然のように連れ立って部屋に入った。
 木蓮の部屋はまったく生活感がない。よく磨かれた白い壁に白木の床、グレーのソファの前にローテーブルを挟んで、濃い色のボードの上にテレビがある。同じ色のデスクの上にはノートパソコン。無機質な色の空間のなかで観葉植物だけが青々と背を伸ばす。そのいずれにも埃一つ乗っておらず、家具たちはぴしりと水平垂直に揃えられている。

「何か飲みますか?」
「ハイボール」
「お茶入れますね」
「ケチ」

 月美が脱いだジャケットをそのへんに放る前に、木蓮がハンガーにかけて吊るした。気にせず時計や指輪を外して勝手に空の灰皿の上に置いていき、ソファに腰掛けて息をつく。この空気。この人間味がないほど理路整然とした部屋が月美は堪らなく好きだった。カーテンのひだまで計ったように正しい。数か月前には自宅よりも長い時間を過ごしていた場所にいると、否応なしに思い出が蘇ってくる。
 マグカップを二つ持って、ネクタイを外した木蓮がキッチンから戻ってきた。ソファの真ん中から奥にずれるとその横に彼が座る。湯気のたつカップに口をつけると緑茶の香りが広がった。じんわりとした暖かさが体の内側に溜まる。
 生ぬるい沈黙がすこし横たわった。

「ねぇ」
「はい」
「お茶おいしい」
「それはよかったです」
「うん」
「月美さん」

 話しかける。カップを置く。下の名前を呼ぶ。小さなスイッチがカチカチと次々に切り替わって、そっと肩に回された腕にほとんど委ねるように頭を寄せる。
 月美はなんだか、一度味わったことのあるご馳走を舌が求めてやまないような気分だった。一滴一滴と水が注がれてかえって渇いて焦れったい。求めているものは同じだと確信があるのに。もっと特別なふうに呼んで、もっと愛おしそうに撫でて、ぎゅっと強く抱きしめて欲しいのに、前のようにすぐに戻る方法が分からない。

……るみちゃんがいい」
「はい、るみちゃん」

 ありったけの甘えた声でそう強請ると、格別に甘い響きで名前を呼ばれてくらくらした。両手を伸ばすのと同時に背中に回った男の腕で抱きすくめられる。夢中で唇を合わせているとテレビの音が聞こえてはかき消え、遠いさざ波のように揺れているように感じた。
 それからのことをあまり覚えていない。
 心を通わせていなかった時間を埋めるためだったのか、食事をしていても入浴していてもいやに離れがたかった。窓の外でとっくに夜のとばりは降りて、月美はすっかり寝支度を整えて相変わらず彼の家にいる。以前置いて行った寝間着がきちんと畳まれてすぐにクローゼットから出てきたのが少しおかしかった。

「そろそろ電気消しますね」
「ん~、わかった」
「あれ、もう寝るんですか?」
「うん」
「そうですか」

 いつもは夜更かしの月美がそう言うと、木蓮が嬉しそうに目を細めて小さな手を引いた。ベッドの布団をめくって二人でもぐりこむ。清潔でぱりっとしたシーツが肌をくすぐる。薄着の若い恋人たちが肌を触れ合わせていたのに、甘ったるく眩んだ部屋に湿った熱が籠ることはなかった。ただ皮膚の向こうの暖かさを感じるためだけに腕や足を絡め合って、あるべき姿におさまったように息をつく。

「顔の傷……
「んー」
「まだ痛みます?」
「明日また絆創膏はって」
「はい、わかりました」

 木蓮が枕に頬をつけて笑っている顔が見えて、パチンという音とともに電気が消えて、視界が青みのある暗闇で満たされる。それでも別に足りないものはない。恋は再び胸に戻ってきた。月美は木蓮の鎖骨のあたりに額を擦りつけて、そのまま瞼を閉じた。