yoqips
2021-09-15 23:33:50
2152文字
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ストレイシープ

エガキナマキナ:回想死因


 海岸付近に大型の没発生。直ちに討伐に向かわれたし。対象は「胞子」により「過去のよかった時代、空気、思い出」にまつわる幻覚を見せ、自身の潜む海へと誘導。その効果により都市部含め甚大な被害が発生中。検討を祈ります──射止男姫。



 夏の海は異様な光景だった。家族や恋人で遊泳にきたであろう人々、波の音を聞きながら散歩をしていた近隣の住民たちは、皆おのずから海へと向かってゆく。大型災害の発生現場だというのに悲鳴や混乱はなく、沿岸部の向こうからは救助と討伐のための怒号だけが飛び交っているようだった。真上から照る太陽が色のついたグラス越しに碧眼を突き刺して、なんだか気が遠くなる。
 ゆらゆらと寄せては返す波間に、ふっと小さな頭が見えた。海の高さが胸を越えてもなお進もうとするシルエットを見つけ、無花果は慌てて海に足を踏み入れた。水を吸ったスラックスと靴が重くなる。

「待って、待って!」

 追いつくのは簡単だったが、腕を掴まれた子供はむずがるように暴れた。小さな男の子だ。周囲を見渡しても彼を気にかける大人はいない。一緒に来ていた親はもう先に没に誘われて行ってしまったのだろうか。水の中で暴れる人間を救助するのは容易なことではないが、無理に気絶させるなんて芸当はもっと非現実的だった。
 抱えていくしかないと腕に力を入れた無花果の、ちょうど耳のあたりからフッと光が飛び出してくる。編んだ金髪を揺らした羽持つ光は子供の丸い頭の上をふわふわと跳ね、チリチリと鈴のような音を鳴らした。
 幸運の妖精。
 唖然とする無花果の目の前で子供はそのまま眠ってしまったようだった。トポンと軽い音を立てて沈んだ小さな体を慌ててすぐに掬い上げ、水を飲んでしまっていないのを確認して、片腕で肩に凭れさせるようにしっかりと抱える。

(子供を助けた?)

 リングリングと呼ばれるこの幸運の妖精が子供好きであるという設定は、作中にははっきりと描写がない。そうであってほしいという思いはあったことは否めないが。
 想像と創造はどこまで結びつくか──著作倫理法が制定され、ツクリテは武器を得て、ニジゲンや没が世に現れてからそれらはずっと取沙汰されてきた。あのとき原稿から飛び出したに過ぎない妖精が作者の込めた文字外の情報まで拾っているとしたら、この不可思議な存在を作者の記述や法では制御できないということだ。
 妖精は光を振りまきながら潮風に揺られ、ピチチと小さく鳴いた。無花果の作品に出てくる登場人物は比較的穏やかな設定を持っている。この妖精も基本的には善なる存在として描いたが、そうではなかったらと考えると恐ろしかった。
 だが、没はまだそこにいる。
 認可作家にはやるべきことがある。

「眠らせてくれてありがとう。でも僕が運べるのはほんの数人だから、この数はとても間に合わない。手伝ってくれないか?」

 差し出した掌に金の流砂が集まり、魔法のように杖が顕れる。樫の木でできた130cmほどの大曲ステッキで、先端には小さな金色のベルがついていた。妖精は気まぐれに漂い、杖をかすめて小さなベルのそばを通り過ぎる。涼やかな鈴の音がチリンと鳴り、無花果はホッと息をついた。

 膝ほどまである波をかきわけて、虚ろな目をした女性が沖に向かって歩いていこうとする。無花果は子供を抱えなおして正面から向き合い、鈴のついた杖の頭でトンと軽く彼女の肩を叩いた。
 すると何度か瞬きをしながら不思議そうにくるりと振り返り、今度は浜のほうへと戻ってゆく。同じ要領で近くにいる遊泳客の肩を腕をトントンと慣れた様子で突いてゆき、糸に引かれたようにぞろぞろと歩いていく人々を見て無花果はふーっとため息をついた。

(今回は役に立てそうだ)

 ニジゲンによる強化。それを受けてもなお彼の武器であるマキナはただの堅い木の棒に過ぎない。無花果の手によく馴染むこの杖は、羊飼いの杖──象徴的にとらえるなら、困難な状況にある信徒を助けるシンボルだったりもするのだが、実際に羊飼いの家の子供であった無花果にとってこれは羊を群れに戻す便利な杖だ。使い手である無花果の認識がそうであったから、たとえば剣の刃が鋭く強化されるように、このような効果が強く現れたのだろう。
 没討伐において役立ちはしないが、避難誘導なら実にちょうどいい。こうして自ら歩ける相手には打ってつけといえた。無花果はよいしょとまた子供を肩に抱えなおし、水を吸って重くなった服を引きずって創務省の職員たちを探して歩く。その道すがらも次々と入水してゆく人々の肩や胸を軽くトントンと叩いていった。
 海原は穏やかに漂い、ひとつの濁りもなく太陽にその波を銀色に輝かせている。現実のなかに異様なものが侵入してきているというのに、風は唄い、空は透き通って青かった。

 芸術は人を救う。人を救ってこそ美しい。

 その言葉に否やはなかった。無花果がかつて志したものとは趣が違ったが、本質はきっと変わらない。本音を言えば「母なる金字塔」が見せる幻に興味があったが、無花果は過去を見ることはなかった。
 それが少しだけ残念だ。
 妖精の金の羽がどこか慰めるように、髪と耳を柔くかすめていった。