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yoqips
2021-06-19 19:54:05
3122文字
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羞月閉花
異香港、上流区のはずれ。
テクノロジーの粋が極まった異香港では、今ではむしろ田舎風の風情ある邸宅が好まれる。花鳥風月を愛で心なごむ家こそ優雅であり、それらを再現するために莫大な資産が注ぎ込まれた。王(ワン)家は宮殿のように格式高い屋敷を誇っていたが、当主である王翆はいくつもある邸宅を気ままに行き来する。そのうちの一つがこの蝶のように花が咲き乱れる蘭離宮であり、王翆の愛人たちの暮らす贅を凝らした御殿だった。
いい白酒が手に入ったときはここで美女に囲まれて気持ちよく飲んだくれるというのが放蕩当主の楽しみだ。そのあとはベッドに倒れ込んで気の済むまで眠る。主人が夢のなかにいる間、彼のステカーである蓝宝はいつも寝室の扉の前に立ち片時も離れようとはしない。目を閉じて浅く眠ることはあっても誰かが通ればすぐ目を覚ますことが常だった。
まだ靄がかかるような早朝。
扉の前に佇んだ蓝宝は、軽い布の擦れる音でふと廊下を見た。そこには薄紫色の着物を纏った王翆の一番目の愛人が、水差しを抱えて眠たげに歩いている。長い黒髪を結い上げたなよやかな麗人。いつもと違って軽い化粧だけの装いではあったが、美を愛する男が手にするにふさわしい蓮のような美貌を朝日に輝かせていた。彼女は潤んだ大きな瞳でゆっくりと瞬きをし、立っているステカーに気付いて気楽にあいさつをする。
「おはよう、精が出るのね」
「ああ、おはよう」
「殿下はいらっしゃる?」
「マスターならまだゆっくり眠っていますよ」
「まあ
……
そうよね、ずいぶん飲んでらしたし。私も二日酔いだわ」
「はは」
従者と愛人の会話はぎこちなく続けられた。彼らの間には王翆という大きな繋がりはあるが、個人としての関わりは少ない。王翆の代になってから初めて来た「ステカー」という存在に家人たちはまだ戸惑っていたし、蓝宝もまた主人の愛人と二人きりで言葉を交わしてよいものか迷っていた。この家には愛人たちの世話をする使用人だけでも数十人といるが、正確には皆王翆の抱えであって明確な上下はない。とはいえ愛人たちはいずれ正式に王翆の妻となりうるという点において、使用人たちに貴ばれる存在ではあった。
ステカーは世界大戦で活躍した兵士だが、富裕層におけるステイタスの象徴でもある。オークションで王翆みずからが落札したことを踏まえると彼の所有物であることは間違いない。加えてこの水際立った端麗さを持つステカーはすでに王翆の寵愛を受け、「王」の姓まで成り行きとはいえ賜りそばを離れず、その熱の入りようは屋敷内では愛人たちと軋轢があるのではないかと噂されるほどだった。
「水差しをお持ちしようかと思ったけど
……
いいわ、任せようかしら。柑橘をしぼったお水だから二日酔いにとてもいいの。よかったらあなたもどうぞ」
「ああ、どうも!マスターも喜びそうだな」
「それから
……
他の子たちからも言付け。私たちあなたを歓迎していますって伝えておきたくてね」
「え、そうなの?」
蓝宝は思わず長い睫毛を瞬かせて聞き返した。歓迎されようがされまいがマスターの望む限り傍を離れる気などなかったが、ステカーにとって女の言葉は少し意外だった。もちろん本来の役割は違うが、突然現れた男が主人の傍にずっといて時には情を交わすのだ。愛人たちに疎まれても仕方がないという意識が彼にもあったのだろう。
この屋敷で最も王翆を長く知る女性は、ほうっとため息をついて思い出に浸るように庭を眺める。大きなガラスで作られた窓の向こうには主人の愛する素朴な庭園があり、つやつやとした緑に寄せ植えられたチュニアとロベリア、穂のように溢れるサルビアの青い花が涼しげに彩り、夏の日差しを柔らかく遮っていた。
「王翆様が新しい愛人を連れてこられたとき
……
私はいずれあの方に飽きられてしまうと思ったわ。囲った愛人を捨てるような方ではないけれど、会いに来てくださる回数は減ってしまうと内心では怯えていた。
でも私、いまは殿下の愛が減ってしまうことなど恐れていないの。あの方は本当にたくさん愛をお持ちの方だからちっとも困らないわ」
「
………
」
「それはあなたも同じよ、嫌味じゃなくてね」
彼女は瞳いっぱいに王翆への信頼と愛おしさを溢れさせてそう言った。蓝宝はそれを見てふっと表情を緩める。主人が愛する女性たちが心から王翆を愛し尊敬しているということは、従者として忠誠を誓う蓝宝にとってもとても誇らしいことだった。細い指先が銀の水差しを手渡し、兵士の武骨な手がそれを恭しく受け取る。朝日に照らされた端麗な顔を見て、また花のように美しい女が可笑しそうに笑う。
「それに
……
アハハ!」
「うん?」
「あなたを見た時、私たち殿下があなたを競り落とすに違いないと思ったのよ!あなたって本当に殿下好みだもの」
「ふうん、俺がマスターの好みね」
「目が大きいきらきらした美人で、胸が大きいのがお好みなの」
目鼻立ちのくっきりした顔、秀でた額に凛々しい眉。その名のとおりサファイアのように輝く青い瞳は瞬きするたびに星が散る。美しさのなかに今咲いた花のような生命力を湛えている美貌。似ているわけではないがそれは蓝宝の目の前の美女にもどこか当てはまる特徴だった。豊かな曲線を持つ乙女が着物の袖で蠱惑的に口元を隠し、くすくすと耳打ちをする。
「私たちは殿下の惚気や愚痴で仲良くなりましたのよ。あなたもいつか茶会に呼んで差し上げるわ。よろしくね、ステカーさん」
それだけ言うとさっと裾をひるがえして廊下を歩いていく女の背を見送り、蓝宝はしばし唖然とした。すると扉の奥からするりと腕が伸びて締まった腰に絡みつき、誰かがぐいっと中に引き込もうとする。蓝宝はそのまま素直に主人の気まぐれに身を任せることにした。兵士である彼よりも上背のある体躯が、また眠たそうにだらしなく唸ってぼすんとベッドに座り込む。蓝宝は一緒に寝転びながらも中身がこぼれないよう水差しを持ち上げ、主人に了解を得るようにそれを見せた。
「麗しいご婦人からの差し入れですよ」
「酔い覚ましか、誰だかすぐわかる。一杯注いでくれ」
「マスターの愛人はいい女揃いだ」
「オレがいい男なんだから当然だろ?」
「アハハ、ごもっとも!」
笑い声とともに銀の水差しから小さなグラスに水が注がれ、ふわりと爽やかな香りが寝室に広がる。王翆はそれを一口であおるとまた怠惰にシーツに寝転んでトントンと隣を叩いた。蓝宝は慣れたようにベッドを揺らさないように隣に寝転ぶと、日に焼けた手が宝物を愛でるように灰色の髪をはらう。
頬を撫でる仕草や翆玉の瞳の奥には情としか呼べない熱さがあった。それは疑う余地もなく、蓝宝がステカーという身分で受け取っていいのか躊躇うほどに、王翆の愛は惜しみなかった。
「おまえがここに居るのはいいな」
「へえ、別に珍しいことじゃないだろ?」
「ここはオレの好きなものだけを集めてる。部屋も、庭も、香りも、女も、おまえもな。いい気分だ、次は滝でも作らせるかな」
滑らかなシーツごと両腕でステカーを抱きしめると、王翆はきゅうっと楽しそうに目を細めて蓝宝の頬に口付ける。それに長い睫毛が瞬きして答えると、満足げに灰の髪に顔を埋めて目を閉じた。静かだ。夏の暑気は遠く、窓からの風がさらさらと明るくカーテンを揺らしている。従者はこの欲深く愛おしい主人を生涯でどれほど満たせるかと考えながら、同じように瞼を閉じて朝の暗闇に浸った。
爪先まで整えられた戦場を知らぬ男の指が、また髪をゆっくりと優しく梳いた。
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