yoqips
2019-08-18 03:07:00
8672文字
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役者不足

 この人生には映倫でいうところの15禁の表現が含まれています。動物は酷い目に合うし家族愛や友情は不足してる。途中で本を閉じてもいい。それくらい退屈だから仕方ない。
 あたしが作者だったなら。
 あたしなら、絶対にヒルコを主人公に選んだりしない。




 大黒ヒルコは1994年、東京に生まれた。
 母親は産後まもなく死亡して、警察官の父と二人で暮らすことになった。父は地方から東京に出て警察庁に採用されたキャリア組というやつで、子供のために実家へと戻ることはできなかったらしい。ヒルコは激務であまり家に帰らない父よりもシッターや家政婦の顔を見て育つことになった。
 とはいえ、父がヒルコをまったく顧みなかったわけではない。彼は花崗岩のような厳格さを持つ男だったが、30代後半で生まれた一粒種をぎこちなくも可愛がっていた。亡き妻の面影に沈みすぎることもなく、すくすく育つ娘の成長が彼を支えていた。

「ヒルコ、今日は何してた?」
「おえかき。あとおすしたべた! ねー知ってる?ねぎとろっておいしいんだよ」
「知ってる知ってる」
「でもネギきらい」
「残したのか?」
「のこした」
「嫌いならお手伝いさんに言っておこう」
「うん」

 父はいつもヒルコの話を笑って聞いていて、怒った顔を見せたことがない。一人娘は甘やかされていた。けれど電話口で低く硬い声で誰かを怒鳴るところを何度か見ていたので、ヒルコは父にも家政婦にもひどく反抗しなかったし、わがままも言わなかった。あの声が自分に向くのではと思うと怖くなって、勝手に怯える程度には交流が薄かった。
 もちろん父として世話はしてくれる。家政婦のいないときは簡単な料理を作ってくれた。しかし一緒に遊んでもらったりした記憶はない。彼はいつも優しく穏やかな庇護者だったが、ヒルコの「親しい相手」ではなかった。そういう相手に本音で話すのは子供でも難しい。父親の前ではどこか演技的な嘘が混じっていることをヒルコは自覚していた。
 思えば彼は娘にどう接していいか分からなかったのだろう。それでなんの問題も起きなかったから、子育てや親子関係もそれで良いと思い込んでいたようだ。

「おとうさん、ビデオみたい」
「どれがいい?」
「あのあおいシールの」
「ああ、これはヒルコにはまだ早いよ」

 "ヒルコにはまだ早い"。
 それが父の口癖だった。娘は家政婦がいる時間帯にテレビ放送ですでに内容を知っていたが、他愛のない子供向け映画だ。父はヒルコにやや過剰な子供らしさを望んでいる節があり、ヒルコもそれを察してなにも知らないふりをすることにしていた。
 そのほうが父も喜ぶなら、もう一度観たかった映画くらい我慢できる。そう思う程度には父親のことが好きだった。




 2000年。20世紀の終わり。
 7歳で小学校に入学。
 ヒルコは幼稚園には行かなかった。送り迎えができる環境になかったために、自宅で保育士を雇って日中は遊んで過ごした。一人っ子で大人とばかり接していたせいか、子どもたちの輪に入るのには苦労した。幸い同じマンションや地区に子供がいたために行き帰りをともにする友達はできたが、四六時中一緒にいるような仲良しの子はいなかった。
 外遊びを覚えてからはマンションの公園でよく遊んでいた。そのマンションには野良猫も住み着いていて、たまに構うと触らせてくれるくらい人慣れしている様子だった。ヒルコはふと思いつきで猫を抱き上げて、自宅のある上階へとエレベーターで登っていった。

「にゃー?」
「にゃ」
「ねこ」

 猫。猫が好きだった。
 動物に触るのが好きだった。特に猫はしなやかに走ったり寝転んだり楽しい生き物だ。父の言うところによると高いところから落ちても必ず着地できるらしかった。だから子供の好奇心が本当かどうか試してみたくなったのだ。
 階段の踊り場。高い手すり。
 猫のきょとんとした表情。
 ヒルコの住んでいたのは27階。
 結果どうなったか───もちろん言うまでもない。子供は下を見るよりも先に聞こえてきた悲鳴に慌てて身をかがめ、どうやら自分がとんでもないことをしてしまったことに気付いた。
 ヒルコは恐ろしくなってその場から逃げ出し、家に帰ってパニックになりながら泣きわめいて父親に電話をした。そして連絡のついた父にぶちまける。猫は着地できなかったこと、自分がやってしまったことを。

『誰かと一緒だったのか?』
「ううん、だれも……いなかった」
『ヒルコが猫といるときずっとか?』
「うん、そう。お父さん、どうしよう。ねこが。ヒルコつかまっちゃう?ごめんなさい」
『じゃあ、そのまま家にいなさい』

 なんとかするから。
 そう言って電話は切れた。ヒルコはずっと最悪の事態を想像して泣きながら布団に包まっていたが、いつのまにか眠ってしまっていた。朝起きると父はいつもどおりダイニングでコーヒーを飲みながら、真剣な顔で新聞を何部も見比べるようには読んでいた。
 テレビはニュースを流している。今日の天気は曇りのち雨。傘を忘れずに。

「お父さん………
「おはようヒルコ」
「お父さん、ねこ」
「ああ……大丈夫だよ。片付けたし、誰も見てなかったからな。とにかく誰にも言わないようにして、ヒルコも忘れなさい」
………
「次から気を付ければいい」

 父はこっちを見なかった。
 ヒルコは酷く怒られるか、それでなければ逮捕されると本気で思っていたので、頭の中が混乱してしまった。けれどすぐにホッとする。もしかしたら父は怒りを堪えているのかもしれない。がっしりした筋肉質な体格。立つとヒルコの何倍も大きい影になり、拳には力が籠っている。けれどこの距離を保っている限りそれを娘に向けることはない。
 いいや、父はむしろヒルコを守ってくれる。
 悪いことや辛いことから盾になって庇ってくれる。世間の人間がヒルコを批難しても、父だけは違う。そういう人をどうして嫌いになれるだろうか。望むならそうしよう。誰にも言わずに、忘れたふりをして、次は気を付けるようにしよう。

『本日東京都目黒区内で、婦女暴行の疑いで無職の男が逮捕されました。警察の調べによると男は自宅付近の住宅などを物色し、小動物に危害を加えるなどを繰り返しており……

 少なくとも父の前では。






 2010年。17歳、都内の私立高校生。
 ヒルコはそれほど多くの友人を作ることはできなかったが、少数の人間と親しくなる方法は知った。それは秘密の共有だ。皆が知っているような事実でも、これは秘密だとグループや個人で教えあうことで互いに絆ができる。「秘密にするから誰にも言わないで」をいくつ持っているかで親密か決まる。
 ヒルコはそれをなんとなく肌で学んでいるうちに、自分を庇護する大人に囲まれているだけでは決して教わることないことを知っていった。私立高校に通う家の子供は皆資金を持っていて、遊びも派手だった。退屈な人生と持て余した体力を発散する遊び。ヒルコもご多分に漏れず、少しずつ優等生ではなくなっていった。

「あのさ、ヒルコ」
「なーに」
「こんな頻繁に家集まっていいの? 親があんまいねーのは知ってるけど。バレたら怒られるんじゃない?」
「いいよ、メグたちなら」

 酒に弱い友人たちは眠っている。リビングには安いチューハイ缶とお菓子の袋が転がっていて、お手伝いさんが見たら発狂しそうな有り様だった。夕方には帰る従業員と明日の夜まで帰らない父。スケジュールだけはマメに報告されてそれを違えたこともないので、かち合う心配はない。

 ショートカットの少女───メグは隣のクラスのはっとするような美人だった。目が大きくて鼻が高い女優のような顔つきと、少年っぽい表情のミスマッチさがとても印象的だった。たいていの女の子や男の子はメグに一目置いていて、すごくヒロイン的。みんなの特別でいろんな人の特別だったと思う。
 ヒルコはメグと隣の席の子を経由して知り合った。二人とも高校生離れした長身と大人っぽい顔つきで、酒に強い。早々につぶれた友人たちをよそにこうして深夜話すのが、ヒルコはとても好きだった。

「正直私らって酒買い要員でしょ。年齢確認されたことないもん、ヒルコといると」
「ああ、たぶんそれ店員が知り合いだから」
「ヒルコの?」
「父親と。うちのお父さん警官だから」
「マジ?」

 そこまで口にしてハッとする。父の職業を公言することを止められていた。よくも悪くも人の見る目が変わってしまうし、父親が近所に根回しをしていること自体ヒルコは知らないふりをしなければならなかった。メグも友人の表情を見て言ってはまずかったらしいと察したらしく、リビングに気まずい沈黙が落ちる。
 少女は「あー」といいながら立ち上がり、ヒルコの手をとってベランダを開けた。靴も履かずに裸足のままで、夏の生ぬるい風が髪をなぶる。メグはジーンズの尻ポケットから煙草とライターを取り出したので、ヒルコは少しぎょっとした。

「メグ煙草吸うの?」
「うん、皆には内緒ね」
「匂いでバレるんじゃない」
「知り合いに教わったんだけどさ、ウィストン・キャスターっていうやつの白。あんまり煙草の匂いしないって評判いいの」
「へええ」
「吸ってみる?」
……一本ちょうだい」

 秘密の共有。
 桜色のネイルをした手が、ほとんど真っ白の煙草を一本差し出す。100均のオレンジライターで火のつけ方を教わりながら吸い込む。確かにバニラの甘い匂いがして、それでもたまに父親に「煙草くさい」と文句を言うときと同じ香りが喉と鼻を通った。咳き込みそうになるのをぐっとこらえると肺まで煙が下がる。不思議な感覚だった。
 メグは自分も煙草をくわえて吸いはじめる。友人たちと飲酒をしても煙草は誰もしていなかったから勝手にタブ視していたが、吸ってみると大したことはない。メグは大きく煙を夜空に持ち上げて、それは美味しそうに飲んで笑っていた。





 2015年。21歳、自宅。
 真夜中で、携帯に電話がかかってきた。ヒルコは父親に言われるまま都内の大学の経済学部なんてかけらも興味のない学部に入り、変わらず気ままに過ごしていた。友人たちは恋に人生に悩むなか、ヒルコはあまり深く考えないように生きていた。誰もそれを望んでいないような気がしたし、自分だって面倒だったから。
 電話はメグからだった。
 高校から大学も一緒だったメグは例の「煙草を教えてくれた知り合い」と恋人同士になって、前よりも遊ぶ頻度が減っていた。だらだらベッドで寝転んでいたヒルコはすぐにスマートフォンの応答ボタンをタップする。

「もしもしメグ」
…………………
「もしかして酔ってる?ちゃんとベッドで寝ろよ」
……ヒルコ、わたし』
「なに」
『彼氏』
「カレシがなに」
『こ、ころ、殺しちゃった』
「ハ?」

 理解する前にメグが電話のそばで泣きじゃくりはじめた。彼女は大学に入ってから一人暮らしで、今もそこからかけてきているらしい。電車が通っている場所の近くだからいまだにガタゴトと揺れる音がしている。恋人。顔だけ知っているメグの彼氏。
 ヒルコはメグにいくつか質問をして、恋人が確実に死んでいるらしいことが分かった。聞いたことがないような震えた声だった。とりあえずすぐ行くから変な気を起こさないでと念を押して、Tシャツとジーンズで化粧もせずに外に出ようとした。
 メグの恋人が死んだ。そこには死体がある。どうやって隠す。
 “きっとどうにかなるけど、見つからないのが一番いい”。

…………

 ヒルコは自身の体が震えているのに気付いたが、家に引き返してほとんど使っていない階段下の物置をあさった。父親の電動ノコギリ。ロープ。ゴミ袋。旅行用に買ったボストンバックに思いつく限り荷物を詰めて、ジャンパーとキャップをかぶる。肩がずっしり重い。
 挙動不審にならないよう必死で、ヒルコは今からメグと旅行に行くだけだと自分に言い聞かせた。スマホで関係ないネット記事を読みながら電車に乗る。泣き声。夢のなかみたいい足がフラフラする。いくつも考えているうちにメグの家についた。

「メグ」
………

 メグは玄関からすぐの廊下に座り込んでいた。冷蔵庫の前で確かに若い男が背中から包丁を刺されて死んでいた。安いドラマみたいな光景だ。もしかしてメグが趣味の悪いドッキリでも仕掛けているんじゃないかと思うほどだったが、振り返る彼女の顔は紙のように真っ白になっていて。
 「ヒルコ」と弱弱しい声でいって。
 その頼りなげな、寄る辺のない子供みたいに助けを求めている姿に、ヒルコは何もかもがどうでもよくなった。荷物を玄関に放ってメグをおそるおそる抱きしめて背中をさすると、縋るように肩にぐしゃぐしゃの顔を押し付けてくる。ああ、助けなきゃ。ヒルコがメグを助けなきゃいけない。

「なあ、大丈夫だって。なんとかするから」
「どう、しよう、どうしよう」
「隠そう。手伝うから。道具持ってきた」
「道具?」
「そのまんまじゃ運べないでしょ」

 友人の言う意味が分かったのか、メグは青い顔で俯いたあと、意を決したように頷いた。ちょうど風呂場が近いから二人でずるずると引っ張って。服を脱がすだけでも重労働で。これからすることの重大さを思うと気が遠くなった。
 ヒルコとメグは互いに、気付けあうように話し続けた。メグの彼氏は浮気していて、それが初めてじゃなかったらしい。反省したら許すつもりだったのに、逆切れして胸を思いっきり押されて怒りで頭が真っ白になって。脅してやるつもりで包丁向けたら無視されて。バカみたいだ。こんなクソ野郎のために人生棒に振るなんて。

「殺されるやつは殺されるだけの理由があって死ぬんだな」
「こいつ、刺されるの初めてじゃないらしいの」
「本望でしょメグに刺されて」
「あっははは!あはは!!」

 メグは無理やり笑って、嘔吐しないように精一杯耐えていた。ヒルコは手ががたがた震えて手元がたまに狂ったが、頭はわりと冷静だった。さっきまで人間だったものがだんだん物に見えてくると二人とも恐怖が麻痺してきて、関係ない大学の話までした。
 涼しい季節だったのは幸いだったと思う。むせかえるような血の匂いだったが、男よりは女が慣れている匂いだ。ホラー映画さながらになった風呂場で排水溝が詰まった。悪夢みたいに汚い。普段から掃除しとけばよかったと笑っているメグに、ヒルコは口を開く。

「あたしがやったことにしていいよ」
……何言ってんの?」
「お父さんヒルコに死ぬほど甘くて。今まで何度か捕まりそうなときなかったことにしてもらってんの。知らないと思ってるみたいだけどね。だからバレたらヒルコのせいにしていいよ」

 友達を慰める嘘ではなかった。
 ヒルコが冗談でもなくそう言ったら、メグはすっかり作業の手を止めて食い入るようにこちらを見つめていた。それから張り詰めていた糸を切るように肩を落として息を吐いた。実際ヒルコの父親は警察庁で低くない地位にいるらしく、口添えで何度か交番から逃がしてもらえたことがあった。だから今回だってそう難しくはないと思うと。

 ヒルコはずっと「親しい相手」がほしかった。人生のなかで何人かと仲良くなって、自分は誰の特別にもなれずに終わるような気がしていた。血の繋がらない他人に愛されたり大事にされるのは難しい。相手が何を望んでいるかはわかったし、叶えるのにも抵抗はないのに、どうやらそれでは足りないらしかった。
 メグは、特別だ。誰にとっても特別で一番親しい女の子が、真っ先に頼ってくれた。警官の娘に生まれたおかげで、他でもない自分だけがメグを助けられる。ヒルコはそれがこの上なく嬉しかった。

「私、ヒルコが友達でよかったけど」
「うん」
「ヒルコは私が友達じゃないほうが良かった気がするわ」
「なにィ、水臭いな」

 メグが年上の女の子のような顔で笑った。
 その本当の意味を理解しなかったことが、彼女の取るに足らない人生のなかで最も後悔していることだったし、ヒルコは死んだって何も分かってはいなかった。人生最高で最低の夜。恋人を殺した親友と一緒にいた日。ガタゴトという電車の音が妙に耳についた。








「無理だ」
……どういう無理?」
「なかったことにはできない」

 父が脂汗を浮かべて苦しそうに言った。
 あれから一日経ち、ヒルコは自宅で父親にしおらしく相談した。そしてまるではじめて聞いた言葉のようにきょとんとしてしまって、すぐに顔色を青くした。女二人でやった処理だから隠し続けるのは難しいと思っていたが、適当に済ましたのは「保険」があったからだ。ヒルコは顔に浮かべた無邪気な娘の笑みを綻ばせながら、俯いた父親の肩につかみかかった。

「いや何で、なんで?」
「昨日のうちに連絡があれば……いや……友達の罪までなかったことにはできない。ましてや殺人だ。被害者も遺族もいる。分かるだろう、ヒルコ。父さんは警察なんだ」
「分かんないよ、何でできないの?」
「ヒルコ!!」
「『知らなくてもいい』っていったのはお父さんでしょ!?」

 父が愕然とした様子だった。ヒルコは言ってはならないことを言ってしまった。父がヒルコを守るのはヒルコが何も知らない箱入りの娘だったからだ。刑罰から逃れている自覚のない子供のままだったから。ヒルコは一瞬勢いを失いかけたが、父親の情けない怯えた表情が火に油を注いだ。
 怖かったのはヒルコのほうだ。
 今まで一度も父親に逆らったことなどなかった。父の言うとおりに、望むとおりに振る舞ってきたはずだ。たとえ警察官という仕事から見て許しがたい行為だったとしても、ヒルコを罰することができなかったのは父なのだ。それが何をいまさら。

「お父さんなんて、ヒルコがしてほしいこと一度もしてくれなかったくせに!」
「ヒルコ、違うんだよ、俺は」
「なんで今更そんなこと言うわけ? もう無理だよ、全部遅い! 遅い!」
「ちがう、すまない」
「責任取ってメグを無罪にしてよ!!!」

 叩きつけるように叫ぶと、父はついにそのまま床にうずくまった。カーペットに擦り付けた頭には白髪が混じっている。がっしりした筋肉質な体格。立つとヒルコの何倍も大きい影になり、拳には力が籠っていて───違う。
 父はいつのまにか老いていた。
 彼は今年もう58歳だ。還暦前の警察官の硬い体はひとまわりしぼんで、父譲りの長身のヒルコが見下ろすと小さくすら見えた。彼がヒルコの本心や煙草や、こっそり入れたタトゥーなんて知らないように、ヒルコもまた父親の変化に気づいてなどいなかった。花崗岩のように厳格な父。娘を一度も罰することができない男が、言い返すこともできずに頭を下げている。一体何に。
 嫌な予感がした。

「あの子は今朝自宅で発見された」
「は」
「遺書が置いてあった。どうみても自殺で……
「うそ」

 恋人を殺した罪に耐えきれず自死。そうとしか思えない内容の遺書とともに。被疑者が死亡したことで事件が検察官に送致されて、不起訴処分となる予定だと。警察関係者らしい口調で父親がか細い声でつぶやく。なんてこと。失敗した。一番大事な場面で。メグには無理だと分かっていたのだろうか。それともヒルコのことを信用できなかったのか。本当に心が耐えきれなくなったのか。
 分からない。分からない。分からない。
 メグが最期にどう思っていたかなんて分からない。人の心なんて分かるはずもない。20年間一緒に暮らしていた人間の姿すらまともに見ていなかったのに。ヒルコはなにかが決定的に壊れて、父親と同じようにうずくまりたくなった。けれどその縮こまった父親を見ると、次から次へと怒りが湧き上がってくる。それが寸でのところでヒルコの膝を支えた。

……それであたしは?」
「え、」
「どうすりゃいいわけ? 共犯者として起訴する? 被害者も遺族もいるんだからなかったことにはできないんだよな」
「それは………
「できないよね、お父さんには」
………

 どうせ父には無理だ。そんな度胸はない。20年間目を逸らし続けていたことが、土壇場でできるようになるなんてことはありえない。どうしてこんな男に怯えたり頼ったりしていたんだろう。貴方は外で誰にでも勝利し続けていたんだろうね。偉そうな制服。誇り高い手帳。正義の看板を背負っているくせに娘ひとつ躾けられないなんて。
 だから許してやらない。おまえは、呪われて苦しんで囀っているのがお似合いだ。

「ヒルコがまだ娘でいてあげるよ」
「ああ、ヒルコ」
「だからちゃんとしてよ、ね」
「今度こそ守るよ。きちんと守る。父さんに守らせてくれ」

 絶望のなかに一筋の希望をみつけたような顔で喜ぶ、老いた父を見下ろす。ポケットから隠し続けていた煙草を取り出して、父からくすねたライターで火をつける。それを咎めることも一生彼にはできない。ヒルコはただ彼女を偲んで過ごす。この家は永遠に歪なまま、どちらかが死ぬまで解放なんてされない。
 それでも父親には。警察には。彼をこう作った組織には死んでも裁かれたくなんてない。そんな権利は誰にもない。ヒルコが生きているうちは。父が生きているうちは。


 誰もヒルコを裁けない。肉のあるうちは誰も。