『お知らせです。夜になると狼が現れるようになりました。閻魔庁は狼に対する自衛のため、住民に武器を貸し出しています。噛まれてしまえば大怪我は確実、夜に出歩く際はお気をつけください。
繰り返します。夜になると狼が現れるようになりました───』
8月4日。閻魔庁へ行く。
演説も終わって投票を終えたのち。昨日の狼警報が酔っ払いの悪い夢ではなかったとわかって街の夜遊びは自粛モードだが、こちらは如何せん夜の仕事である。毎回タクシーを拾うのも面倒なので、閻魔庁に頼んで車を借りることにした。
役場では数人の列が並んでいる。本当に住人への武器を貸し出しているらしい。悪い夢であって欲しかった。店で同じく「お知らせ」を聞いていたヴァレー・ブラックノーズも愕然とした様子だったので、彼も恐らく同じ気持ちだったのだろう。酒の香りのする祈りは届かなかった。子供の手にも武器は渡っていく。
車種にこだわりはなかった。狼に襲われても壊れなさそうな頑丈なものとだけ希望すると、受付の事務が几帳面に書類を作成していく。セダンタイプ。色はシルバー。プリウスに似ている気がするが、どうせ通勤か買い物にしか使わないので実に何でもいい。あまり確認もせずに頷くと、次に免許証の提示を求められた。
「免許証?」
「はい、コピーを取りますので」
「……持ってたっけ」
考えてみれば、車をレンタルしにくるのに免許証の存在に思い至らなかったほうがおかしい。慌てて財布のなかを確認すると、使用感のないカード入れのなかにぽつんと白いカードが入っていた。
1993年9月27日、大黒ヒルコ。
ブルー。円玖のマーク。
鏡の中に見慣れた女が、冴えない顔で写っている。免許証の写真というのはうまく撮れているためしがない。見覚えのないカードを職員の手に渡すと、手続きは滞りなく終了し車のキーが渡された。
(街で教習所行った記憶はないけど)
身分証明書は街や国をまたいでも健在なのか。円玖で発行されているものだとは思うが。答えのないなぞなぞを解きながら、閻魔庁の出口へと近づく。屋根の影と日差しのコントラストはすさまじく、気温を思うと涼しい庁内から出るのは躊躇われた。
足元に大きな影。
ふと振り返ると、エンマがいた。堂々たる統治者は演説のときと同じくどこか精彩を欠いていて、ほんのすこし冷気をまとわせた微笑みを浮かべている。あるいは湿り気といってもいいかもしれなかった。けれど黒髪からのぞく菖蒲色の瞳は、やはり夜空のようにきらきらと輝いているままだ。
「用は済んだのかな」
「車借りにきただけだから」
「ああ、狼か。武器はいいのか?」
「それなんだけど」
エンマとは何度か言葉を交わしたことがある。それでもこんなに剣を含んだ口調を彼にぶつけるのははじめてで、ヒルコは自分よりもなお高い位置にある顔を睨んだ。
新しい候補者───ヴォルフィオナは、エンマという統治者をあたかも神の権能を持つ人物のように言うが、もしここが正常な民主主義の街ならそんなことはありえない。エンマはただ我々市民の代表というだけで、身分や格差などないはずだ。彼の仕事ぶりが危うければ、有権者は文句をいう権利がある。
「なんで武器なんて貸し出したの?絶対にいいことなんてないのに」
「生存率を優先しただけさ。この先治安が悪化する可能性があるとしても、今日狼に食われて死んだらそれで終わりだろう?」
ヒルコの端的な質問だけで、エンマは彼女の想像する不安を正確に読み取ったようだった。熟達した教師のようにゆったりと腕を振り、統治者はよどみなく答える。そしてその回答にヒルコは思わずあっけに取られてしまった。
身も蓋もないというか。ヒルコとは考えている視点が違うというか。狼に襲われるまではともかく死ぬことなど考えていなかった。ヒルコにとっては見たこともない獣より武器という脅威のほうがリアルに感じられたから、そればかり考えていたのだが。
どんな動物より人間の悪意が怖い。
誰だってそうだと思っていた。
「だが、まあ、不安にさせて悪かった。騒動を一刻も早く収めて、平和な街に戻すと約束するよ」
エンマが笑う。にっこりと。
赤い鬼灯の飾りを揺らして、いつもの自信ありげな表情で。俺の言うことを聞いていれば大丈夫さと唱え続けられていたいち円玖の住民であるヒルコは、それであっさりと安心感を覚えはじめている。餌もないのに皿を見たら腹が空く犬のように。
もしかして自分は、事態を見誤っていたのだろうか。狼よりも現実感のある恐怖に怯えて目が曇っていたのだろうか。「山に人食い熊が出るから村のものは各々で身を守りなさい」というような、そういう類の話だったのかもしれない。そんな山奥の集落ではあるまいしと思ったが、確かにここは都心でもない気がした。
(けが人も出てて、獄卒衆も無限にいるわけじゃないし……っていうこと?)
そういうことらしい。
エンマが発した「約束」という言葉は、彼の統治を信じているヒルコに覿面の効果があった。少なくとも彼女には自信がなければそういった言い回しができない。ならエンマはできるのだろうし、やるのだろうと思った。
もちろん何に使うか分からない子供に武器を渡すことなど納得できない部分もあるが、それはそれで飲み込んでしまう。世の中には心からすべてが納得できることのほうが少ない。オールオアナッシング(すべてか無か)だなんて無茶な話だ。それなりの幸せとこの上ない安心。美味しい酒。ここは過不足がない。
「わかった、信じる」
「それは嬉しいな。では、狼に気を付けて帰りなさい」
「はいはい」
「ああ、それから酒のあとは運転しないように」
「……もちろん!」
「こらこら」
しまった、それを忘れていた。
もはや出勤時には使えない車のキーをクルクル回してチャリンと手に収める。入庁したときより階段を降りる足取りが軽いのは目に見えてわかるほどだった。
狼による怪我人も知り合いにはいないし、じきにすべて殺処分なり放逐なりされて収まるだろう。そうすれば誰も武器を持たずに済む。すれ違う人間が懐に光るものを隠しているだなんて疑いだせば、精神が消耗してしまうだけだ。
後ろからエンマの呆れたような笑い声が聞こえた。
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