yoqips
2019-08-10 19:18:50
2510文字
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4-2.マットテクスチャの友人

二人目、千夜湖憧夏天



 8月1日。雨が降っている。
 窓を半分開けて外を眺めると、この街ではとんと見かけなかった青灰色の空から雨粒が落ちていた。さあさあと終わらない音にひんやりとした空気、濡れた地面の匂い。雨だ。もはや本や映画のなかにしか残されていなかった空想の産物が、いまここに現実になった。
 毎年恒例らしい祭りの最後の火も、当然ながら中止になったらしい。地域イベントは無視していた人間なので本当に毎年やっていたかどうか分からないが、残念がる声だけは耳に届いている。今日は数少ない友人と約束していたので、連絡を待ちながらぼうっと窓の外をずっと見ていた。
 しばらくすると電話が鳴る。
隣からだろう。

『もしもし、ヒルコサン?』
「はいよ。映画は雨天決行?」
『傘持ってンなら行こうヨ』
「行こう行こう」

 簡単に電話を済ませて、腰掛けていた窓枠から降りる。いつ買ったのか分からないビニール傘がずっと玄関に立てかけていたけれど、役に立つ日が来るとは思っていなかった。髪の毛は湿気で広がるからまとめるのは諦める。化粧を済ませて適当に着替えて出ると、憧夏天は既にドアの前でぼうっと雨を見ていた。
 気持ちはとてもわかる。
 パチンと音を立てて傘を開くと、憧夏天は振り返ってビニール傘にやや衝撃を受けたようにしげしげと眺めた。視認性が素晴らしいとかどうとか言いながら隣に並んで歩きだす。コンビニもない田舎出身だったりするのだろうか。

「センセ映画嫌いじゃなかった?」
「そろそろギャンブル意外の趣味も見つけネーとナ、と」
「無趣味だと老後やばいもんな」
「まだ老後の心配しないデ……

 千夜湖憧夏天という男は、隣に住む中国人である。微妙にカタコトの言葉を操り、驚いたことに医者であるらしい。清潔感からは程遠いアロハシャツなんて着て髪も伸ばしているせいでそういう印象がないが。それにヒルコは彼の病院にあまり赴いたことはない。幸いなことに丈夫に生まれたのか、ムチャな酒の飲み方をしているわりには今のところ健康被害は起こっていないからだ。
 この街唯一の映画館を目指して雨のなかを歩く。ブーツで水たまりを踏んだら隣の靴に水が跳ねたのを、数秒たってから医者が気付いた。そんなだからヒルコに年寄り扱いされるのだ。ごめんごめんというと怒っているんだか笑っているんだか、よく分からない顔で「いいケド」と不満そうにこぼした。

「なあ」
「ンー?」
「今日もなんかあるっけ」
「祭りは終わったダロ」

 広場を横切ろうとすると、白い人影を中心に人だかりができていた。一瞬あの目立つ友人と思ったのだがよく見ると違う。憧夏天と似たような少しぼろの白衣をきて、ぴょんぴょんと跳ねた髪を後ろでひとつにまとめている。美しい顔。星のように輝いた瞳。中性的な顔だがスカートとハイヒールを履いているからもしかしたら女性だろうか。

「ボクの名前はヴォルフィアナ。今回の『投票』でエンマと戦う候補者さ」

 ヒルコと憧夏天は顔を見合わせた。
 円玖がエンマの統治の元になってから彼らが覚えている限り、他の候補者は現れなかった。だからほとんど名ばかりの投票を同じ時期に行うだけのイベントと化していたのだが。
 なるほど確かに誰にでもその権利はあるという話だ。必要がなかったから誰も手を挙げなかっただけで。堂に入った街頭演説は続き、話はなかなかにファンタジックな方向へと舵を切られていく。聴衆の反応もさまざまで、ぽかんとしている者もいればはっきりと困惑や嫌悪を示している者もいた。
 それは珍しい光景。
 雨も演説も負の感情も。
 "この街"にはなかったものだ。

 ヴォルフィアナの話は案外短くまとめられ、彼または彼女は周囲の人間からの質問に笑顔のまま答えたりしている。あまりの突拍子のない内容に何を言うべきかと思っていると、憧夏天がちらっとヒルコを見てぽつりとつぶやいた。

……あー、でも、好きなとこで寝れるってのはなかなか魅力的だナ。ヒルコさん?」
「そ? ヒルコ毎日夜は家にいないしあんま実感ないな。先生ルールきっちり守って窮屈なんじゃないの」
「そうナ。先生は見ての通りマジメだから」
「なに観る?」
「映画はなんでもいいヨ。ヒルコさんのオススメ見よ」
「歌って踊っちゃうぞ」
「い、いいですヨ」

 それだけ言葉を交わして広場を後にする。彼の演説を聞く前とそのあとでは憧夏天の纏う気配がほんの少しズレたような気がしたが、ヒルコは特に言及することはなかった。今まで大事にしていた真っ白な皿にシミがついたからと乱雑に棚にしまうような、なにかから視線を外した感じだった。
 ヒルコはそもそも、ずっと千夜湖憧夏天という男に色のなさを感じていた。透明とか白とかではないのだが、フラットというよりはマットなイメージ。お人好しに加えてたまに顔を出す前時代的な頭の固さがあって、コンコンとハンマーで叩くと中身が出てきそうな予感がするのだ。たぶんヒルコの忘れてしまった人生には重ならないものが。

「腹減ってきたナ」
「この通りなんかあったっけ」
「お、先生バナナ食べたい」
「ドンキーコングかよ」
「ドンキーバナナ買ってくるけどヒルコさんいる?」
「いらねー」

 何が出てきても別に変わらない。憧夏天がヒルコに同じように友人として接するうちは。雨のせいか足取りが重くなり、いつもの映画館までの距離が遠い。晴れている間はあんなに恋しくなることもあったのに。映画のなかの雨があんなにドラマティックなのは、やはり主人公に立ちはだかる困難のひとつだからだろう。いざ自分に降りかかると鬱陶しい。
 持っていないものを欲しがるくせに手に入ると文句をいったり、もうそれが欲しくなくなったりする。人間なんて勝手なものだ。
 さあさあと物悲しい音。
 箱に詰めた煙草を一本取り出して火をつける。紅茶の香りが体を巡ったらすぐに気分が落ち着いた。昼だというのに曇り空のせいで暗い。余計に目立つ白い髪の闖入者が、こっちを見て瞳をキラキラ輝かせながら笑っていた。