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yoqips
2019-05-04 02:35:06
4855文字
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我に夜明けを
覚書:オーギュスト・ブラントの半生について/27歳~36歳
それからのことは、すこし記憶に薄い。
手紙を握りしめて生家にとんぼ返りになった際には、いったい仕事を誰にどう引き継いだのかまったく覚えていなかった。数週間ぶりにみる父の顔は急激に老け込んで髪が白くなり、頼もしく肉付きの良かった体格もしぼんでいるようだった。
あまりに突然だった当主の死に家は慌ただしくなり、オーギュストは加えて遺産相続の手続きもしなければならなかった。二度目ということで葬儀の手続きだけは呆然としたままでもできたのが不幸中の幸いといえた。そして生前の父の遺言に従い───オーギュストはブラント家のすべてを受け継ぎ、彼の友人たちに次々と訃報を届けた。
「オーギュさん、皆さんお揃いですが
……
」
「ああ、ありがとう。今行くよ」
「はい、お願いしますね」
白髪混じりの使用人がオーギュストに心配そうにそう告げた。ブラント家には執事やメイドというと大げさだが、家のことを任せる使用人が何名かいた。みなこの屋敷に住み込んでいて、既に老年と呼べる使用人やその息子や娘たちだ。主人と奥方を失って自分たちはどうなるのかと不安なことだろう。
そんな彼らの前ではもう「若君」としての顔を見せるわけにはいかなかった。かすかに微笑んでみせたつもりだが、うまくできたか分からない。裾の長い喪服は新調する時間がなく、父のクローゼットから引っ張り出したものだ。教会の司祭に挨拶をしたあと、告別式の会場へと向かう。
日もまだ高い昼間だった。
教会の細長い色付き窓から陽光が降り注ぎ、参列者たちの喪服を明るく七色に照らしている。オクタヴィアンと同年代ごろの男女を中心に、並んだ椅子が埋め尽くされるほどの人が駆け付けてくれていた。司祭とともに通路を歩き、彼は壇上へ、オーギュストは最前列の席に腰掛ける。
「───彼らはもはや、飢えることも渇くこともなく、厳しい寒さや痛みに侵されることはありません。祈りは使者となり、女神のもとに導いてくれるでしょう」
聖書の一説だ。子供のころ読んだきりだがおぼろげには覚えている。確か分厚いページを半分ほどすぎたころに、その言葉が載っていたような気がする。
だが、説法も体をすり抜けていった。
こんな立派な式に、集まってくれた参列者に、家人に。無様な姿は見せられないと思うのに、なかなか頭に言葉がしみこまない。代わりに同じ台詞が、何度も何度も空っぽの頭を叩いている。鼓膜を震わすことがなかった声。聞くことができなかったはずなのに、記憶のなかの彼が語る言葉。
父の最後の手紙。
使用人によれば、ベッドサイドに置かれていたらしかった。終わるまでにいくつも引っかかった筆致が、力をなくした今際の際を思わせる。残りの力を振り絞って息子にあてられた手紙だったのだろう。
『すまない、オーギュ。お前が幸せに生きられる道を選べますように。愛している』
───そんなのは勝手だ。
手紙を読んだ瞬間、オーギュストをどうしようもなく支配したのは怒りだった。死にゆく者はどうしてこんなに勝手なのだと、悔しくて堪らなくなった。息子にも相談せずにひっそりと弱って、言葉だけ残して満足げに死んでゆく。罪など犯していないという穏やかな顔で、なんの罰も届かない場所へと去ってしまう。
結局、貴方は母を失った悲しみに耐えられなかったのだ。そんなものは臆病者がとる逃避の手段ではないのか。私より死者が大事だったのだ。神よ、なぜ私のもとから愛するものを奪うのですか。母はあなたを敬い、父は善良でした。私の願いは聞き届けてはもらえないのですか。父は望み通り母のもとへ行ったのでしょうか。わたし一人を置いて。
呪いが浮かんでは消え、司教の聖句を吐き捨て、母を、父を、神を心の底から責め立てたあと、ふと───足元が消えたような気がした。オーギュストはとたんに、その場で倒れ込みそうなほどの眩暈に襲われる。自分の夢を追いかけ、欲望を貫き、はじめに彼らを置いていったのは。
弱った父を置いていったのは。
(───おいていったのは私ではないか)
じわじわと不安が体を囲い、オーギュストの全身から力を奪う。ぎしぎしとした痛みがあった。まるで天に射た矢がすべて自らに戻ってくるかのように。
いつのまにかすべての儀式が終了していた。参列客が彼の強張った顔を見て、声をかけることもできずに去っていく。なんとなく気が引けて、友人たちには知らせなかった。父の知り合いばかりに声をかけたから、見知った顔も声もあるわけがない。オーギュストは足先をいくつもの杭に打たれたように、瞬きもせず、その場にじっと座りつづけていた。
「オーギュ」
「
……………
ダン?」
「そうだよ。なあ、もう行こう」
小さな手がぐい、とオーギュストの黒衣を引っ張った。見慣れない礼服を着たブロンドの少年が、鷹のような金色の瞳で見上げている。誰も声をかけられなかった重苦しい空気のなかで、ダニールだけが彼のそばに来た。
自身の半分ほどの大きさしかない子供に、手を引かれるまま教会を出る。オーギュストはどうしてこの子がここに居るのだろうと不思議になった。そしてアンダーノフ家に知らせを出したことを思い出して、ああ、来てくれたのだなと考えた。そのときばかりは教会や家のことを忘れて、ぼんやりと足を動かした。
着いたのはアンダーノフの祖父の家だった。
丸太を使った柱にレンガを積んだ壁と、床に赤白の模様がはいった毛織のラグが敷いてある。並べられた猟銃と獣の剥製。この家の壮健な家主は先に戻っていたのか、暖炉のそばでオーギュストを黙って迎え入れてくれた。ダニールは彼の様子に気づきながらも、鹿肉が余っているから飯を作ってくれだとか、ハヤブサのガキが生まれたから見てやってくれだとか、そういった他愛ない話をずっと続けてくれた。
オーギュストは少しずつ、凍ってしまった手足が動き出すような感覚を味わった。そしてしだいにこの暖かい家に今自分がいることになぜか焦りを覚えて、思わずダニールに言い訳のように覇気のない声を返していた。
「でもわたしは、戻らないといけない」
「なんで?」
「だって、ずっといたら迷惑だろう」
「好きなだけいりゃ良いよ、兄貴みたいなもんなんだから」
真っすぐな声だった。
そう何でもないようにいわれては、そういうものかと頷くしかない。パチパチという暖炉の火の音が跳ねて、ダニールの声がして、生きている人の気配がする。まるでいつものただ遊びに来た日のように過ごして、結局その日は家に帰らずに、オーギュストはあれよあれよとリビングルームのソファベッドと毛布をあてがわれていた。
もう夜になってしまったらしい。
手紙を受け取ってから時間の進みがめちゃくちゃだ。どんどんなにかに取り残されているような気分になる。薪の燃える音や外の冷たい風。窓についた霜と火薬の匂い。そういったことに集中しているうちに眠れなくなって、ついに空が明るくなり、オーギュストは諦めてソファから起き上がった。
窓からはあの丘が見える。
青く沈んでいた小山のふちが白くなってゆくのを眺めながら、オーギュストはあのまま動けずにいたら、大げさではなく、自分は死んでいたかもしれないと思った。まさか己の命を絶つようなことはしなかっただろう。しかし生きる気力を失ってしまえば、どんな人間でも死の影の谷に落ちてしまう。
そう、オーギュストの父のように。
彼は毒を飲んだり、刃で心臓を突いたわけではない。父の体は健康だった。ただ身にあまる悲しみがあふれ出して、身体がついてゆかなかったのだろう。それを想うと堪らなくなる。肩を支えられなかったかつての後悔の痛みで、ばらばらになりそうだった。
(わたしがそう選んだ。父上や神を責めるのはちがう。決めたのは私だ。私がきっと───間違えたんだろう)
赦免を求める相手はいない。
おぼろげな薄明が雪に吸われ、射すような光が窓越しに降ってくる。やがて世界が明るい金色と青に染まっていく。オーギュストが子供だったころと何ら変わりない、幸福なままの焼けつくような丘陵がある。
だがそこに彼らはいない。
オーギュストは窓枠にしがみつき、額を押しつけた。きつく目を閉じると、睫毛の裏にたまった涙がこぼれていく。あとはもうとめどなかった。なんのための涙なのかは分からない。暴れ出しそうな感情を体に留めておくには、そうするほかに方法がなかった。決して渡れない大きな川。ガラス越しの夜明け。
自分はいつも「そこ」に連れていってはもらえない!
「ああ、あ、
………
ああ
………
」
主よ、私はもう自分のためには祈りません。
あなたを憎むこともしません。
オーギュストは恵まれていた。生まれたときから何もかも手にしていた。それは永遠のものでもなく、失うのは一瞬だ。神に奪われたとは思いたくない。そんな恐ろしいことはできなかった。大事な人を失い、神を疑い、愛を憎んで生きるには、人生は長すぎる。あてどない旅を暗闇のまま往くようなものだ。オーギュストのような臆病者には、なおさら。
いつまでもここにはいられない。時は進んでいく。悲しみもいずれ薄れていく。だったら仕方がない。私は行かなければならない。戻ることができないのなら、より善くなることしか許せない。誰のそばでも泣けないなら、誰もいない丘に、一人で立つしかないのだから。
----------
ブラント邸前、雲一つない空。
36歳となったオーギュストは、新聞にも載ったとおり「ちょっとした災難」に見舞われ、あれからがむしゃらに働いて育てた会社を手放すこととなった。資産を失っても友人たちの親切のおかげで、暮らす場所に困ることはない。
しかし数代にわたって財産や土地を守っていたブラント家の屋敷まで手放すこととなるとは、さすがに両親に申し訳が立たなかった。いちおう知り合いの不動産屋に頼んで使用人たちは管理人として据え置きとなり、金さえあれば買い戻せるようしばらくは待ってもらえることになっている。オーギュストは不動産会社のタグがついた鎖が絡んだ門を、いささか切ない気分で見上げていた。
(遅くとも来年には戻れるか
……
)
懐には出国許可証が入っている。
アルゲオでは、年間を通してアルビオン正教神子の聖地巡礼が行われている。とはいっても神子の用意ができるまで不定期であるらしいが、護衛官の募集は教皇庁から随時行われていた。
オーギュストは思いついてすぐに応募し、たまたまアスレイという緑髪の小さな神子と時期が重なった幸運もあり、すぐに出立できる運びになっていた。国をあげての名誉ある旅だ。報奨金も決して少額ではない。ともかくそれでこの思い出深い家を取り戻し、事業を再開させる頭金にはなるだろう。
「では父上、母上。行ってまいります。叔父上に会うことはないでしょうが、どうぞ見守っていてください」
オーギュストは胸に手を当てて屋敷に向かい頭を下げる。本来は墓地でやるべきかもしれないが、旅のはじまりに墓に行くのも気が滅入る。それにここには、両親の面影と、オーギュストが少年から青年になるまで育った丘がある。
神の手遊びのように切り出された白い小山。黒褐色の土にはいつも分厚い雪がかぶさり、そこには耳が痛いほどの沈黙がある。けれど地平線から太陽が昇る瞬間、明るい金色と青に染まる、かわりのない美しい丘。そして振り返れば、雪で覆われたアルゲオの、さらに広大ですばらしい景色。
そう、世界はいつも外にある。
荷物を背負って歩き出すと、ぎしぎしと雪を踏みしめる音がした。空は雲も雪もなくただ青い。とてもとても広い。オーギュストは一度も振り返ることなく、家を後にした。
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