yoqips
2018-10-15 00:24:59
6830文字
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黄金のイーハトーヴォ

アストロノーツ・エスケープ_シドPAST



 「あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波」(宮沢賢治 ポラーノの広場より)




 散らばった楽譜を集めている。
 BLUE REVOLVERを組んでから作った曲や個人的な趣味で作った曲。最近できた譜面は印刷してある。それからラジオのテープ。残念ながら地上でのラジオテープは局に保管されたままだが、地下に来てからのものはすべて保存してある。どの形状がいいのかわからなかったので、とりあえずはUSBメモリとCDとカセットを用意した。
 紙はどの媒体より持ちがいいと聞く。アイデアを出しただけのメモ用紙や歌詞カードもまとめ、自分にしてはそこそこ丁寧にファイルをダンボール箱へと詰め込んだ。

 ―――これって矛盾してるか?

 31日が来るまで結果は分からないのだから、確率は五分五分だ。そう頭で思っていながら、手は着実に死ぬ準備を整えている。やはり笑うしかないだろうか。
 けれどもしも本当にすべてが終わってしまうのなら、ほんの少しでも多く自分の財産を残しておきたい。無意味な延命のなかの空しい逃避だとしても、たかが21年の人生でシドが作り上げたものが、なにもかも消えてしまわないように。きっと方法はあるはずだ。あの胡散臭い天才科学者の言葉が本当ならば。

 こうして支度を整えていると、シドはいつも同じことを思い出す。捨てきれない希望と深い諦観が同時にありながら、手を動かすことをやめられない。彼自身は既に喉元を過ぎていると思っている、青く苦い記憶だった。







 シド・バレットの両親は彼が物心つくまえに離婚している。したがって父親からの養育費の援助はあったが、母親のニナ・バレットは(きっとこれは離縁の原因の一つでもあるのだろうが)とても金遣いが荒かった。小さい息子を抱えながら、明るい嬌声に満ちた娘時代の輝きを忘れられずにいる女だ。
 彼女は息子に自分を「ニナ」と呼ばせ、世話もそこそこに夜はすぐ男と遊びに出てしまう。シドは不安と静寂にさらされて育ったが、それでもニナのことが好きだった。愛情深く美しい彼女は惜しみなく息子にも愛を注ぎ、ただ残念なことに、良い母親ではなかった。

「シド、今夜引っ越すからね」 
「え? ……なんで?」
「なんだっていいでしょ、とにかく此処にはもういられないの。ホラ、あの大きいトランク入る物だったら好きなもの持ってっていいから」

 9才。プライマリー・スクールの5年生のころだ。
 ニナは鏡で気だるく化粧を直しながら、そんなことを事もなげに息子に伝えた。
 シドは家に知らない男が来ることや、一人でいる時間が長すぎたせいで、気持ちを言葉にするのが得意な子供ではなかった。そのくせ癇癪持ちだったので、すぐ手が出ては喧嘩になる。軽い問題児だったシドは他の子供たちにあまり馴染めてはいなかった。
 だが、シドは無言のまま急すぎる引っ越しに不満を訴えた。睨みつけてくる息子に彼女はイラついた様子で振り返ると、シドはさっと母親から目を逸らす。

「なに? アンタ、学校嫌だって言ってたじゃない。何が不満なわけ? 面倒な子ね」
………

 確かにそう言った。
 ただシドは少しずつ少しずつ努力をして、馴染めないなりに溶け込んではいた。最高ではなかったが、それほど酷い状況でもなかった。やっとクラスメイトの数人があいさつを交わしてくれるようになったところだったのだ。
 ニナはそのまま家を出かけていった。少年は反論する術を持たないまま、のそのそとトランクに荷物を詰め込んでいく。引っ越すのは自分がそういったからだろうか。それとも彼女の気まぐれなのだろうか?
 母親の奔放な性格に振り回されるのには慣れていたが、自分が地道に作り上げてきた環境が何もかも台無しになってしまうのは辛かった。


 夜になってすっかり荷物を詰め終わったころ、二人は逃げるように夜行列車に乗り込んだ。二つ分のトランクが載せられ、冴えた夜の風景が徐々に動き出す。

「シド、寒くない?」
「ちょっと、寒いかも」
「ほら、あたしの毛布かけな。寝ちゃったらすぐ着くから、さっさと眠りなよ」
……うん」

 ニナは明るく笑って息子の頭を撫で、疲れていたのかすぐに目を閉じて眠りについた。流れていく街の明かりをぼんやりと目で追いかけながら、もらった毛布を自分の肩にかける。
 学校のみんなは、自分が学校を嫌っていなくなったと思うだろうか?
 シドは不意に、今世界で起きているのは自分だけかもしれないと考えた。ゴトンと列車がレールを滑るたびに、まるで宇宙から切り離されていくような気持ちになり、ゆっくり目を閉じた。



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 その次は、前よりうまくいった。
 シドは俯いて黙っているよりも、ちょうど母親がそうするように明るく、やや高慢に笑うことにした。そうすると相手に無邪気にからかわれるようなことは減り、喧嘩で手が出ることもなくなった。クラスにはごく数人の話し相手もできた。
 他人と一緒にいるのが案外好きらしい、ということにも気づいた。
だが、ニナの夜逃げ癖は治らなかった。数年同じスクールに通ったこともあれば、数か月でクラスメイトの名前も憶えないまま去ることもある。シド自身連絡手段をあまり持たないせいで、交友関係はそのたびにリセットされた。

 15才にもなれば、友人を作るのに苦労することはなくなった。人間関係のリセットという多大なストレスと引き換えに、シドはさっと相手の懐に飛び込むような瞬発的なコミュニケーション能力を身に着けていた。
 それから何度か転校を繰り返しているうちに、シドは思春期の少年にありがちな社会への反抗を覚えて、ご多分に漏れず非行に走るようになった。家が変わるたびにピアスは増え、身長は伸び、服装は派手になり、付き合う相手も変わる。自分が相手に与える威圧感を、人懐っこい笑みで打ち消すことも覚えた。

「次のセカンダリー・スクールだけどさ、海の近くのとこにしたわよ。ビートルズが生まれたとこ! もうこのへんの下品な街ってウンザリ。21世紀だってのにまだ女が全員ミニ履いて赤いリップしてると思ってるわけ?」
「オレは別にどこでもいいわ」
「あんた、エセックスの変な女に引っかかってないでしょうね。じゃ、また荷物まとめて」

 ニナは赤い口紅のついた唇でシドの頬にキスをし、彼女曰く下品な街での最後の仕事へ向かった。シドは母親が働く先でよく男に言い寄られ、その関係がこじれたり、あるいはその妻に追い出されてしまうことをいい加減勘付いていた。けれどニナは自身の容姿を使う以外で仕事にありつく術を知らなかったし、そんな自分を恥じて息子を何とか学校に行かせようとしていたことも知っている。
 シドはどうしようもなくため息をついて、もう慣れ切った荷造りをものの数十分で終わらせた。アパートに備え付けられた電話で唯一知っている番号にかけた。通っていた学校では一番親しく付き合っていた相手だった。

『Hello?』
「よう、シドだよ。今ちょっといいか」
『何だよこんな夜中に。バイクか?』
「いや……ほら、前に話したろ。ウチの母親の悪い癖がついに出ちまった。今夜にでも出発すると思う」
『マジ? ウソだろ、急だな!』
「それで、あー、お前にCD借りてたろ? ニルヴァーナ。返しにいく時間あるか分かんねえから、住所聞いとこうと思ってさ」

 友人はああ、と言って住所を教えてくれた。チラシの裏紙にそれをメモし終わると、電話口で相手が躊躇いで沈黙しているように感じた。こういう反応にも慣れていたので、シドは大人しく相手の言葉を待つ。

『次どこに行くんだよ』
「たぶんリヴァプールじゃねえかな?ビートルズの出身地って言ってたし……住所は聞いてねェんだけど」
……ニルヴァーナ、どうだった?』
「すげえ良かったぜ!」
『じゃあ、そのCDは返さなくていい』

 その代わり、引越しが終わったらハガキでも寄越せよな。電話越しにしんみりとした、寂しげな声が届く。シドは急に鼻の奥が痛みはじめ、なんとか喉が震えないよう返事をするので精一杯だった。
 こんな風になるのは初めてだ。
 シドは電話を切ったあと、肩で大きく息をしはじめ、堪えきれずにその場でしゃがみ込んだ。誰に見られるわけでもないのに両腕で顔を覆い、こぼれてくる涙を止めようとする。今から手放してしまうものが自分のなかでどんなに大きく、それが無くなったらどれだけ寂しいのか、それが大きな質量を持って襲ってくる。また全部台無しになってしまった。だというのに頭の片隅ではニナが帰ってきたらどうしようと、ただそればかり考えていた。



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 16才。セカンダリー・スクールを卒業し、シドはファーザー・エデュケーション・カレッジという、大学進学を希望しない生徒が行く機関に入学した。
 ニルヴァーナをきっかけに、シドはロックミュージックの虜になった。ロックバンドの曲を聴いていると無敵になれた気分で、音楽に身を委ねていると魂に熱い鉄を流し込まれる感覚を覚えた。自分にはもうロックこそがすべてだと考え、人生で最も不健康な生活をしていた時期でもあった。このとき同年代の平均体重を大きく下回るほど痩せたのが、この先もずっと続くことになった。けれど本当に焼けつくような情熱が、それを見失わせた。
 シドはこの時からすでに、自分はロックをやらなければ自殺するしかないと思っていたし、そのためなら数日間外出せずに永遠と曲を作って歌い、楽器をかき鳴らすこともできた。しかし、これには問題もあった。

……オレはなんつうか、楽器はそんな上手くねえな」

 彼は楽譜のとおり演奏することはできたし、練習次第で技術も向上してはいたが、そういう確信があった。聴かせるだけの力がない。そもそもいくら歌や曲に自信があっても、ロックバンドは一人ではできないものだ。
 バンドメンバーを探してみようか。できるだろうか。いつこの土地を離れるかもわからない身でそんなことが。他人との表面的なやり取りばかり上手くなっているくせに。いくつかの不安が首をもたげ、体と頭は重くなる。だがどうしても、シドは歩みを止めることはできなかった。
 どうせオレはもうこれしかない。
 現実で為すべきことも分からず、他人に首輪を握られ続けている人生から逃げている、他人から見ればただの逃避行為かもしれない。だからこそもう後がない。生きるか死ぬかだ。歌えないのなら人生に意味なんてない。

 シド・バレットは追い詰められていた。恐ろしい孤独と飢餓感から来る危険な精神状態が、彼の感性を研ぎ澄ましていった。食事を摂ることも忘れ、ひたすらに音楽に時間を捧げ、ほんの僅かに残った友人たちの連絡先から、あるギタリストにたどり着いた。



「バズ・ライトニング?」

 キッズ映画から採用したであろうふざけた名前を呼ぶと、リヴァプールの道端でギターケースを床に広げていた男が顔を上げる。すでに180cmを越していたシドよりも背が高く筋肉質で、短いブロンドの男だった。
 路上ライブで曲が終わっても帰る気配のない、少年と言っていい年齢の若い男を怪訝そうに見返すと、彼の太い腕にぶら下がったエレキギターが揺れる。

……? そうだけど、なんだお前……
「オレ、シドだ。聞いてないか?」
「ああ、ギタリスト探してるっていう。あれ、マジだったんだな。ていうか、お前よォ」
「ツレに借りてデモテープ聴いたんだよ。バズ、アンタしかいねえ。ギターの腕は良いし、ヒートアップしたときのアレンジが最高だし……!」
「うわ! おい、何だよ近ェって!」

 髪を逆立ててボンテージパンツなんて履いている風貌で素性はすぐに分かったが、餓えた痩せ犬のような男がギラギラ目を光らせて近寄ってくるので、バズは思わず身構えてしまった。懐にナイフでも持っているんじゃないかと警戒する相手に、シドはぱっと笑いかける。
 気の抜けるくらい人懐っこい笑顔だ。
 バズは急に、このシドという少年が餌をねだっている野良犬に見えはじめた。アマチュアギタリストが趣味でやっている音色に、そこまで入れ込まれたのも初めてだ。いかつい見た目よりもずっと情にほだされやすい男は頬をかき、そんなに邪険にすることはないかと少年に向き直った。

「で、何の用だ?」
「オレとバンドやろうぜ!」
「あー、おう、ストレートだなお前」

 こうも真摯に持ち掛けられると、適当に誤魔化すこともできなくなる。ボーカルがメインだがベースもギターもドラムもやれる、と豪語するシドの実力を見て追い返そうと思っていたバズは―――結局、文句なしの歌声に降参し、彼の命のかかった情熱にほとんど脅迫されて、バンド結成にまで持ち込まれてしまったのだった。



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 パンクロックバンド「BLUE REVOLVER」結成のことの顛末は、いくつかのラジオや音楽雑誌のインタビューで語ったのと変わらない。バズ・ライトニングと暫くの間2ピースバンド・ユニットを続けていて、ファンの中からデモテープを送ってきたモルド・フィッシャーが予想外にメンバー入りを果たした。そして当時人気バンドのベーシストだったネモ・ペットロックを解散後すぐに引き込んだことが、少しばかりスキャンダル誌のネタにもなった。
 “BLUE REVOLVER”。
 シド・バレットの人生の財産。
 足りないならバイトをして補い、路上で、ライブハウスで、店内ステージで、一年が数倍もあったように濃密に活動した。幸いなことにいくつかのヒットも飛ばすことができた。自らの呼びかけでメンバーが集い、理想とする音楽を自分の手で作り上げられる。あれほど没頭した世界を、今度は自分が創造することができる。今なお黄金色に輝く記憶。他人の事情や環境によって台無しにされることのない世界を、シドはやっと手に入れることができた。

 ニナには、活動で得た自分の取り分から生活費に足るだけの額を渡していた。金があれば母親は働かずに済んだし、夜逃げに振り回されることもない。売り上げを渡した金を男に貢がれようが、前よりはずっとずっとマシだった。
 やがて彼女の希望通りカレッジをどうにか卒業し、シドは18才で親元を離れた。ニナは反対しなかった。引っ越す予定のない家でものを買うことを躊躇わずいられることが嬉しくて、無駄なものすべてが捨てがたくなった。スーツケースひとつに絞れと言われたら、シドはできたと思う。けれど今まで歩んできた人生が報われたような、そんな気さえした。





 それから。
 それからは、まったく周知のとおり。
 BLUE REVOLVERは―――シドが短い人生のなかでつかんだイーハトーヴァ(理想郷)は、またしても台無しになってしまった。それも今までよりずっと深刻な形で、今度は星のせいだという。誰にも責任がない不幸というのはやり場がなく、笑ってしまうほかない。
 さて、このようなリセットが行われたときの対処法を、シドは経験上よく知っている。潔く一からすべてを作るしかない。そして恐ろしく残酷な受難は、時として最高の音楽を作り出すことがある。シドは結局地上でしていたのと同じように、そうでなければ死ぬしかないのだと、期限つきの命をかけて戦うしかなかった。

 バンドメンバー集めはあまり期待していなかったが、わずか500人弱の地下の住人にも音楽を嗜む人間は存在した。ケルト系ロックバンドの経験もあるというベーシストのジョン・ドゥ(名無しの男)、キーボードに抜擢した元天文学者のマツナガ・チハル。勧誘が強引な自覚はあったが、どうしても彼らの音が欲しかった。応えてくれて本当に嬉しいと思う。ドラマーはなんとリカルダのクローンを貸し出してくれるというのだから、感謝してもしきれない。シドはまだ歌うことができる。逆に言えばそれらがシドの元から去ったとき、彼は今度こそ死ぬのだ。

 10月15日。タイムリミットまではちょうど半分。
 一心不乱に手を動かしているうちに、疑似太陽の輝きが夜のそれに変わりつつある。庭に植わった木の見える大きな窓から射す月の光をみると、シドはどうしてもニナと乗った夜行列車を思い出した。束になった楽譜やメモリ、CDやカセットテープ。膨大な情報をひとところにまとめるのは大変な作業だが、31日には間に合うだろう。
 それでも、またトランク一個に収まってしまいそうだなと、シドは思った。