yoqips
2016-07-13 20:20:42
1972文字
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去る天変の日 神鳥谷とまり3


 それからのことは何も覚えていない。
 体を預け慣れた布団で目を覚ましたとき、部屋の中をぐるりと囲うように父母と姉、師たち、親族の者に老人たちが並んでいた。総会でなければ見ないような顔ぶれも勢ぞろいで、これはただ事ではないなと、とまりは上の空でそれを眺めながら身体を起こした。不思議と動きは軽く、気分は悪くない。
 父はまったくいつもどおりの目で、しかし一族の手前か唇を引き結んで厳しい顔を作り、母は取り繕う様子もなく涼しい顔で座っている。血の遠い者ほど何故か痛ましい顔をしているのが少し可笑しかった。とまりの『仕出かしたこと』はすっかり知れ渡っているようだ。

「体は大丈夫か」
「はい」
「お前は昨日、離れの屋敷にいたな」
「はい」
「許嫁を見たか」
「はい」
「"喰ったな"」

「はい」

 問答は殆ど、あらかじめ用意された台本を読んでいるかのように滑らかに進む。とまりと両親は普通の親子と呼ぶには親しさに欠けているが、お互いの性分は嫌というほど理解していた。何より目の前に格好の餌がぶら下がっていたとしたら、その先にどんな罰が待っていたとしても手を伸ばさずにはいられない―――そういう血筋。
 午睡丘の二十月は力に貪欲で、なかでも当主の直系はその厳しい修行と命を命とも思わない所業ゆえに物狂いだと揶揄されることもあった。だが物狂いには物狂いの決まりがある。引かれた線を超えてしまった者は、線を引いた者が処罰しなければならない。父はふむとひとつ頷き、再び硬い声で告げた。

「二十月とまり。禁忌の術を用いて許嫁たる魂を喰らったことは、我が娘とはいえ誠に許しがたい」
…………
「よって、破門を言い渡す」

 部屋に沈黙が降りた。
 娘は視線を一身に受けながら、布団から這い出て正座する。見知った顔から注がれる思惑はどうにも読み取れないものばかりだ。畳に両手をつき、大きく息を吐いてから、深々と頭を下げる。天狗の羽がそれと同時に揺れる。異形のしるしが何よりも声高に主張する。謝罪を口にするのも許しを乞うのも少し違う気がした。
 もともと覚悟の上だ、このくらいは。

「謹んで、お受け致します」

 糸が切れたようにと言うべきか、たわむようにと言うべきか。少女が顔を上げないうちに大人たちはざわざわと口々に何か話しながら立ち上り、皆足早に部屋を去っていく。耳に入ってくる言葉は不思議とただの音にしか聞こえず、それはとまりを傷付けも励ましもしなかった。
 頭の後ろにもう1つの目があって、自分を見下しているような感覚。
 己以外誰もいなくなった部屋は途端に温度を失う。手をさすり、指で顔を触り、腕と足と首を確かめる。大まかな形は変わりないように思う。彼の魂に牙をかけたときは壊れたように泣いたのに、不思議なほど涙は出てこない。枯れた井戸を叩くように虚しく一人なだけ。

………"何"になってしまったんだろうか」

 私は、僕は、俺は。その解を簡単に出せればどんなに良かったか。唯一間違いないことは、このままではいられないということだ。しばらく困らないだけの身銭はある。今日ここにいなかった弟の蝶子には会う勇気が出ない。目の前で泣かれたらきっと足が止まってしまう。手紙を書いたら読んでくれるだろうか。なら、夜のうちに出てしまおう。
 そうしたら。
 嗚呼、しかし。
 頭の中では問題が山積しているというのに、手も足も上手く動かない。肌に馴染んだ布団も、庭の静かな風の音も、家族の声も、霊媒師となる道も、帰るべき家すら、もはや失うというのに。恐るべきは喪失そのものではなく、それを前にしてなお、己の在り方だけが心を支配していることだった。魂の在り方。交じってしまった人生の意味を。

 とまりは手のひらを額に当ててじっと動かずにいたが、やがてゆっくりと立ち上がり、棚の鋏を手に取った。鈍色に輝く刃を長く伸ばした後ろ髪に滑らせ、ざくり、と断ち切る。ざくり、ざくり、ざくり。躊躇いに指が震えることもない。やがて頭から離れた色の抜け落ちた髪が、手の中で項垂れて死んでいた。不気味なほど感慨は薄い。いわばこれは転がり始めた石で、流れ出した水なのだ。

 「ここ」にはきっと戻らない。
 だから置いていく。自分の期待、自分の孤独、自分の羨望を。そうでなければ足が縺れてしまうだろう。進まなければならない。そうでなくては誰も報われない。
 これからの人生の一切は、髪一本すら己だけのものになる。


 ある春の晩。一人の少女が死に至り、その灰から鳥のように自由な少女が生まれた。それは例え何度繰り返しても訪れるべくして訪れる夜だった。二十月とまり、いや神鳥谷とまりの天変の日。
 すべてを失った日である。