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yoqips
2016-03-12 14:24:23
2751文字
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狐の日和見
二十憑き:三日星と阿橘と長束、宵の森の屋敷での邂逅。
まだ覚束ない小さな足が、草を踏まぬようにうろうろと歩いている。子供は父に抱かれてこの光の射さない暗い森の屋敷へ来たはずだったのだが、あいにく父親は他の大人に呼ばれて行ってしまった。広い庭には鬱蒼とした森からは想像できないほど、この家の庭は美しく花咲き乱れている。まだ幼い阿橘がその好奇心に勝つことなど無理な話だった。
背の高い松の木、竹林、手入れの行き届いた垣根には艶々とした緑の葉が並び、見事な赤い寒牡丹が植わっている。あでやかな花びらにしっとりと寄り添う朝露が、まるで宝石のようにきらめいて誘う。子供の青みがかった瞳が輝き、しゃがみこんでそのひと房の茎に手を伸ばそうとしたときだ。
「手折るな」、と低い声が降ってきて阿橘の動きが固まる。有無を言わせない力のある声だった。
「おまえより長く生きている花だ」
子供は振り返ることができなかった。牡丹を目の前にして動けなくなった阿橘の胴に長い手が回る。父の優しく暖かな腕とは違う、どこか素っ気ない温度の腕だ。そのまま軽く垣根から引きずり出されるように、阿橘はころんと陽の下へと転がった。見上げた先には長い銀色の髪を垂らした背の高い男が、後ろで手を組んで立っている。
阿橘のまわりの大人たちは彼女と話すときたいてい屈んで目線を合わせてくれるが、彼は背を正しく伸ばしたまま淡々と阿橘を見下すばかりだ。しかし子供はその切り傷のような瞳を怖いとは思わなかった。立ち上がって正面から眺めれば眺めるほど、男はそれは美しい銀色の狐だったからだ。
宵の森の東狐はまつろわぬ星の神である。
幼くとも東狐に生まれた半妖の端くれ、阿橘にはすぐに分かった。彼は遠いが自分によく似たものであると。
「長束の子か」
「はい!あきつです!」
「元気のよいことだ。さて、お前の父が血相を変えて探していたぞ」
「あの、あきつ、とうこあきつ
……
」
「ああ
……
私は東狐の三日星だ」
自分の顔を指差してしきりに首をかしげる阿橘に彼がそう答えると、子供は口の中で何度かその響きを転がした。一度聞いた名を忘れまいと懸命に繰り返すうち、阿橘はぱっと嬉しそうに顔を上げる。
「みかにいさま!」
その瞬間、ぽひゅんと気の抜ける音とともに子供が小さな狐の姿になった。人の面影を残さないその有様に三日星は瞬きをし、それから呆れ返ったように深いため息をついたのだった。
▲▼
東狐長束は焦っていた。当主に挨拶と報告を終えて一旦客間に戻ったところ、大人しく遊んでいたはずの愛娘が忽然と消えていたのだから一大事である。とりわけ長束はまだ幼い娘を目に入れても痛くないとばかりに溺愛していて、それはそれは控えの者が可哀想になるほどの動揺ぶりだった。
もちろん上の者への面会は中止になり、父は広い屋敷を駆けずり回って娘を探した。阿橘と名付けられたその子は正直言ってあまり落ち着きがなく、なおかつ彼の家族でも一番の俊足である。見つけるのは至難のわざだ。長束は必死で文字通り草の根を分けて娘を探し、ついに中庭で立ち尽くしている阿橘の姿を見つけた。
「阿橘!!」
「
…………
」
「阿橘?どうした?」
子供は黄金色の尾を揺らし、碧眼をとろんと濁らせている。まるで夢見心地のまま布団から起き上がったか、そうでなければ酒にでも酔っているかのようだ。名前を呼ばれても反応がない。男は様子のおかしい愛娘の正面でしゃがみこんで両手で頬を包み、その青い瞳を覗き込んで尋ねた。
「今までどこにいたんだ?」
「お山と、ここ
……
」
「誰かに会ったのか?」
「みかにいさま」
「それはどんな人?」
「ぎんいろの
……
大きなきつね
……
」
三度答えた。とりあえず悪い憑き物ではないようだと長束は胸を撫で下ろす。しかし阿橘の会った人物とは一体誰だろうか?これはその人物に会った所為なのか?狐と言うからにはこの屋敷の者だろうが、銀狐といえば数は限られる。銀色
……
大きな狐
……
"みかにいさま"。長束は「あ」と声を上げる。そして辿り着いてしまった答えに顔から血の気が失せ、思わず愛娘の顔を見た。
阿橘は目を細めている。
彼女の丸く大きな目に似合わない切り傷のような目つき。長束は息を呑む。鋭利な視線が男を射抜く。垣根が風にざわざわと騒ぎ出す。背にいくつも銀色の尾が揺らめくのは現か幻か
―――
可愛らしくまだ舌足らずな娘の声に重なるように、冷たく低い声が静かな庭に這った。
「子が可愛いのなら怠らせるな」
其れは確かに当主の声である。
ぱちっと青い瞳が大きく開いて、阿橘は不思議そうにきょろきょろと辺りを見回す。背には黄金色の稲穂が一尾。いつもどおりの様子に戻った娘を見て長束はどっと冷や汗が背中を流れ、胃が鉛のように重くなるのを味わった。阿橘ははしゃいだように跳ね、父に飛びついて高い声を上げる。
「ととさま! きれいなきつねさん見つけました!みかにいさまっていうの!」
「こ、こら!お館様に何を
……
!」
目が醒めるなり恐ろしいことを言う娘の口を手で塞ぎ、父は真っ青になって誰もいない中庭を挙動不審に見渡した。阿橘はまだ足りないとばかりにもごもごと興奮気味に喋ろうとするので、長束は子供は無邪気なものだと項垂れるしかできない。しかし阿橘が五体満足でいるということは、当主
―――
宵の森の三日星は彼女を咎めなかったということだ。
彼は見た目こそ若いが、長束の父親と同世代の狐である。東狐三日星といえば度が過ぎた人間嫌いとして有名で、屋敷に入り込んだ不届き者はたとえ女子供でも容赦なく「処理」する冷酷な一面を持つ男である。さらに厳格で無礼を許さない。長束も若いころ彼に目通りするときは、父親に「とにかく粗相がないように」と口酸っぱく言われたものだ。
それにしても「子が可愛いのなら」か、と長束はばつが悪そうに頬をかく。
「わかっちゃいるんだがなあ
……
」
「ととさま、またきますか? みかにいさまにあえますか?」
「ああ、多分な」
宵の森はかすかに斜陽が射し、木々が赤色に沈みつつある。暗い森で彷徨うことにならないようにそろそろ屋敷を出ねばならない。本当は生まれた子の顔見せだったのだが仕方がないだろう。足に縋り付いて首をかしげる阿橘があまりにも可愛らしくて、長束は凛々しい眉を下げて微笑む。優しく愛娘を抱き上げる父親の姿はどこからどう見ても「親馬鹿」と呼ぶべきもので、娘への態度を厳しくすることなどできるわけがなかった。
この阿橘が齢十九になっても法具無しに完全な変化ができず、再び長束に三日星から雷が落ちることになるのは、これから十数年後の話である。
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