ごうん、と鈍く響く動作音は、巨大な生き物が今まさに自分を嚥下しているのかもしれないと思わせた。常にスタッフが右往左往しているのが宇宙ステーションヘルタだが、今しがた乗り込んだエレベーターは行き交う人々の活気とは無縁であろう深淵へこの身を運ぶ。わずかに差し込む人工灯の光はないよりもマシという程度に足元を照らすだけで充分とは言い難い。封鎖部分と称されるだけあって、はじめから人の出入りは想定されていないのだろう。
状況を冷静に読み取りながら、人によっては強い不安感を覚えるだろうなと丹恒は結論付けた。
階層を指し示すエレベーター内部の表示を横目に、目的地への到着まではまだ時間がかかりそうだと判断する。続けて手に持ったままのスマホを見た。画面はチャット画面を映し出しており、一番最新のメッセージは丹恒が送った「今どこにいる?」というもの。問いかけに対しての返信はおろか既読にすらなっていない。
普段なら直ぐに返ってくる穹からの返事が途絶えて、およそ十数時間。過保護かもしれないと思いつつ丹恒は宇宙ステーションに来ていた。彼が向かったであろう場所がそこだと当たりを付けられたのは、直近のやり取りが宇宙ステーションからされたものだったからだ。
宇宙ステーションに封鎖されたエリアがあるのを知ったのは、穹から送られてきたあるメッセージがきっかけだった。丹恒に似ているというコメント付きで受信した謎の生き物の写真を複雑な気持ちで眺めたのを思い出す。少しスクロールすれば直ぐに表示される写真には、猫に限りなく近いようでいて全く異なる生命体が、一見すると炊飯器に見える機械の上で不思議そうにこちらを見ていた。
穹から送られてくるメッセージは理解に時間を要する場合が多い。この生き物の件も、本気か冗談か分かりかねるテンションで心配された龍尊詐欺の件も、まず詳細な経緯を語って欲しいところである。
アスターに事情を説明し、封鎖エリアへの入室許可と権限を貰って今に至る。一般的なエレベーターよりも長く、時間にして数分をかけて到着したフロアにも人の気配はなかった。踏み出した丹恒の靴音が空間全体に響き渡るのではないかと思わせる程何もない。耳が痛いくらいに閑散としている。過去に稼働していたのだろうと察せられる程度の設備はあるがそれだけだ。使う人間がいないのではなんの意味も持たない。
それでも、上層のフロアでも確認できるナビゲーションロボは存在している。マップなどの情報を得られないかと声をかけるが、壊れかけの音声が直近の来訪者の人数を繰り返すばかりだった。その中の一人が穹なのだろう。
とりあえずは動ける範囲で歩いてみるしかない。
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フロアを彷徨う丹恒の前に現れたその生き物は、恐らくだがあの写真に写っていたものと同系統だと思えた。だが、色合いが大きく異なる。丹恒に似ていると言われた個体よりも彩度は低く、全体の印象は灰色と言っていい。大きな瞳は黒目がちではあるが、僅かに見える色は金。そして外側には特徴的な模様がある。例えるならそう、路地裏にひっそりと置かれているブリキで出来た業務用のゴミ箱。そこまで思い至った丹恒の記憶が呼び起こされる。掘り出し物があるかもしれないとゴミ箱を漁る目下捜索中の男である。
成る程。これは穹に似た個体か。仮に本人から否定されたとしても、丹恒にはそのようにしか思えなかった。
「みゅ?」
己を見つめたまま考え込んで微動だにしない丹恒を不思議に思ったのか、もちもちした動きで頭を持ち上げたその生き物はこちらを見上げ、そして首を傾げた。瞬間、脳裏に浮かぶ穹の姿が目の前の生き物と重なる。どうした丹恒。彼の声でそう尋ねられているような気がした。
「んん゛っ」
意図は図りかねるが、庇護欲を掻き立てる仕草であった事は確かで、丹恒は思わず自分の意思に反して動き出そうとする表情筋を咳払いで誤魔化す。フロアには丹恒の他に人影はないので、実に無意味な行動だ。
その場に膝を付いて謎の生き物に手を差し出す。なにもしないという意思表示のつもりだが、もちろん逃げられる可能性も十二分にあると分かっていた。さぁどう出ると生き物の動きを観察する。
差し出された手に向かってぽてぽてと近付いてきた生き物は、警戒心はどこへやら指先の匂いを嗅いで少し考えている様子だった。好奇心が強いらしい性格もまた穹に似ている。その内、彼の中で何か答えが出たのか、自分の頬を振り寄せてきた。気持ちよさそうに目を細め、己の毛並みを惜し気もなく押し付けてくる。
「く……っ」
なぜ穹はこの生き物の写真を送ってくれなかったのだろう。
下手をしたらこの子の存在を知らないままだった可能性もある。この瞬間、この生き物と出会えたことにある種の奇跡のようなものを感じ取りながら丹恒はスマホのカメラを起動させ、写真を数枚撮った。手に頭を押し付ける姿。カメラに気付いて不思議そうにしている姿。レンズが気になるのかもちもちと背を伸ばした姿。その他諸々。
ひとまず丹恒はなのかに写真を送った。カメラに気付いて不思議そうにしている写真を選び、穹探索の経過報告と共に送信する。そう間を置かずに「ウチにそっくりな子は教えてくれたのに自分に似た子は教えてくれないなんて! ずるい!! 可愛い!! ウチも見たい!!」等と返信が返ってきた。概ね同感である。
ひとときの戯れを無防備にも廊下で過ごしていた事に気付き、そろそろ探索を再開せねばと立ち上がる。離れて行く手のひらを視線で追う穹似の生き物の様子が名残惜しそうに見えた。
「……お前を作った者がこのフロアにいるなら教えてもらえないか?」
言葉を操るのは人の特権であると分かっていてそう問いかけた。丹恒の言う意味を正しく理解してくれなくても良い。ただの気まぐれがそうさせただけだった。
だが、その生き物は意外にも「みゃう」とひと鳴きすると、短い足でトテトテと歩いて行く。少し丹恒から離れた位置で止まるとこちらに振り向き、またみゃうみゃうと鳴いた。まるでついてこいと言われているようだ。
灰色の生き物に案内されるがまま歩いていくと、次第に目の前を行くそれと似た見た目の生き物が増えてきた事が分かった。個体それぞれの色や体毛に個性が見られるものの、形状としてはほとんど同じだ。緑、橙、紫、青。カラーバリエーションは非常に豊富と言える。中にはアクセサリーを付けている個体もおり、人間のようにサングラスをかけた生き物も見かけた。
だが、一見するとベロブルグ内でよく見かけるゴミ箱にも似た外装をしている個体は他にはいなかった。この個体はユニークなのかもしれない。
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通路を進み、いくつかの部屋を近道のように抜けて、最後に辿り着いた部屋は植物の栽培容器が並ぶ実験施設だった。部屋の広さもさることながら、中心に置かれた培養槽を設置するために吹き抜けの構造をしているのだろう高い天井のおかげで、尚更広々として見える。ここも長く使われていないようだが植物の生命を維持するだけの設備は稼働しているらしく、中の植物は青々と繁っていた。
部屋を入ってすぐに灰色の生き物は右へ曲がる。その後についていくと、研究員の作業スペースがあるのが分かった。ただ入り口を潜るだけでは死角になる位置だ。
そこへ申し訳程度に置かれたソファに、見慣れた髪色の人が肘置きを枕にして横たわっている。
どうやらこの生き物は丹恒の言うことを正しく理解してくれていたらしい。前を行く生き物を追い抜いて、丹恒は横たわる穹との距離をつめた。そして、彼の腹の上に我が物顔で座しているそれ――液晶画面越しにその存在を認知していた生き物と目が合う。
顔の横には楓の葉。白と翠のセパレートカラーの外側。灰色の猫と同様の黒目がちな目。瞳は翠。弾力がありそうな身体を時々伸び縮みさせている生き物。それが毛布にくるまる穹の腹の上に乗っている。一瞬丹恒に視線を寄越したものの、興味を失ったのか直ぐ様反らされた。
穹から写真を見せてもらってはいたが、肉眼で確認したその生き物に対しなんと感想を述べたらいいか分からない。確かに好ましい見た目ではあろうが、穹から自分と似ていると評されたこの生き物を可愛いと形容して良いものなのか。
「う、うーん……。見えない、虫……。ふいうち……ぐぅ」
あからさまにうなされている穹が横たわるソファの、少し空いているスペースに腰かける。すると灰色の生き物が自分の膝の上を陣取り、そのままくつろぎ始めた。白と翠の生き物がその様子を何か言いたげな目で見ていたが、先程と同じように直ぐ様そらされる。その視線の先には呻く穹がいる。
「石像……。仮面……。柱……」
なんの夢を見ているんだ。
そもそも寝言に意味などないのかもしれないが、丹恒は暫し穹の寝姿を眺めた。表情を見るに苦しんでいるのではなく、困惑しているように映る。起こす必要はなさそうだが、その眠りが憂いのないものであればいいと思う。寝ながらも考え込むように眉をひそめた穹を眺めていたら、自然と手が伸びていた。
が、その手が空中で止まる。目の前を横切っていく紺と赤の個体に視線が釘付けになった。尻尾にまかれた包帯。赤い瞳。あれはもしかしなくても、まさか――。
謎の生物は視線をチラリと丹恒に向ける。が、それに反応するように丹恒に似た個体のそれが一際大きく鳴き尻尾を太く膨らませる。恐らく威嚇だろう。嫌悪感が見て取れる。
すると、それまで丹恒の膝で大人しくしていた灰色の個体が白と翠の個体に向かって移動し寄り添った。ぐいぐいと体を押し付けて体ごと無理矢理視界をずらし、自身の体を使って死角を作った。逆立つ毛をなだめるように繕い、それから頭突きの勢いで体を伸び縮みさせている。そうしている内にあの紺色の個体はテーブル席の方へと去っていった。
丹恒はそんな様子をある種の関心を持って見守った。自分に似ている個体が宥められているという点で複雑さはあったものの、あくまで初めて見る生命体の観察をしているのだと思えば比較的冷静に見ることが出来る。彼らは存外、人に近い感情や思考回路をしているのかもしれない。
「卵……。虫……。――虫っ!!」
一際大きく叫んだ穹はとうとうまぶたを開けた。見開かれた瞳が真っ直ぐ天井を見つめていたが、暫くするとまぶたが力なく伏せられ、両手で顔を覆い沈黙が続いた。そんな様子の穹を二体の生命体が並んで覗き込んでいる。胸の上に遠慮なく乗っているのを見ると苦しくないのか心配にもなったが、その点について穹は気にする様子もない。
「随分うなされていたが、大丈夫か?」
「うん、だいじょ――え、お前とうとう丹恒の声で喋り始めたのか……?」
驚愕する穹の斜め上な断定になるほどこれは寝起きの思考回路だ、と丹恒は小さなため息をつく。
「駄目だもう一度寝よう」
「寝る必要はない。お前は正常だ」
二体の生命体が視界を覆っているからか、穹は丹恒の姿が見えていないらしい。だから非現実なことを考えるのだ。見かねて灰色の生命体を持ち上げ腕の中に収めると、目を見開いて驚愕する穹の表情が丹恒からもよく見えるようになる。
穹が起きる前と同じように生命体を自身の膝の上に乗せてやれば、もちもちと伸び縮みしながらも大人しくその場に留まった。白と翠の個体はやはり物言いたげな目をしていたが、穹の胸の上にまだ居座っている。
「あれ……? 丹恒? ……なんで?」
「メッセージを送ったが返信がなかったので探しに来た。その様子だと随分と疲れていたようだな」
「あ、あー……。待って今何時」
起きたばかりでぼんやりしたまま上着やスボンのポケットを探り、ようやく探し当てたスマホの画面を見て穹は項垂れた。
「仮眠のつもりだったのに……。うっ、首が痛い」
「疲れているなら列車に戻ってちゃんとした寝具で寝たほうが良い」
「床に直接布団敷いて寝てる丹恒に言われるなんて」
「お前もそこで眠るだろう」
「そうだけど基本はベッドだし」
おもむろに胸の上の個体を抱きしめた穹は、そのまま腹筋の力だけを使って身体を起こした。生命体が身体の上から転げ落ちないようにしたのだろう。自力で留まるには角度がついてしまった穹の胸の上から膝に降ろされた白と翠の個体は、灰色の個体と同じようにその場へと落ち着いた。
「ここで何をしているんだ? この生き物は以前写真が送られてきたが、こんなにいるとは」
「色々あって、俺が面倒見てるというか、研究してるというか……」
「研究?」
「新しい生命を生み出す研究? あとはある天才への挑戦、的な?」
「全て疑問形に聞こえるが」
「色々あったんだよ……」
未だに眠そうな穹の乱れた髪を整えてやりながら、ここで何をしているのかの話を聞いた。
一つ依頼を受けた筈が話が二転三転して最後には大事になる。ある意味いつも通りの展開だが、聞いているだけで疲れる内容だった。
「そうか。だが、ちゃんと帰ってこい」
穹があちこち歩き回るのは日常的な事ではあるが、流石に音信不通になられると不安が募る。
「俺に会いに来るぐらい寂しかった?」
膝の上で大人しくしている生命体を抱え、その身体に顔の半分を隠しながら上目遣いでそう問われる。前足の肉球をふにふにと弄ばれている生命体は不服そうな表情で丹恒を見つめた。いや、お前の肉球を弄んでいるのは俺ではないのだが。
「……そうかもな」
「えっ」
「なんだ?」
「丹恒からそう言われるなんて思ってなくて。なんだろう嬉しい。そういうのもっとくれ」
意識せず零した言葉にもっとくれ、と言われても具体的にどうするのが正しいのか分からない丹恒は視線を泳がせた。穹が嬉しい「そういうの」の定義は恐らく丹恒の自尊心だとか、羞恥心だとかを大いに刺激する行為であり、それは少し避けたくなってしまう。
考え込み始めた丹恒を尻目に、白と翠の個体がぽてぽてと丹恒の膝上まで移動してきた。動向を見守っていると、灰色の個体に自身の頬を擦り寄せている。うにゃうにゃ。みゃーみゃー。彼らの中で何か会話が行われると、ソファから降りて行ってしまった。
「もう行くのか、もち団子」
「あの子の名前か?」
「うん。ちなみに丹恒の膝に乗ってたのはゴミケーキ」
「……お前のネーミングセンスは相変わらずなようだ」
一方に甘味の名前を付けておきながら、もう一方には一見するとスイーツのような、しかし決して食べられないものの名前を付ける独特な感性は一周回って安心感というか、穹らしいと思わせてくるのだから不思議だ。
「あーあ。もち団子の方が素直だったりして」
去っていった二体を見つめる視線をそのままに穹は呟く。そんな彼にならい丹恒も視線を向けると、そこにはうなされていた穹を覗き込んでいた時のように寄り添う姿があった。
落ち着くのか、クッションのような外套から僅かに覗く猫のような顔をピッタリとくっつけて満足そうにしている。二体共心做しか微笑んでいるようにも見えて、これを微笑ましいと言うのだろうなと丹恒は思った。
「……お前に対して遠慮はしていないと思うんだが」
「だとしたらもうちょっと分かりやすいと俺が嬉しい」
もっと分かりやすい直接的な表現。今出来ることと言えば、穹と連絡がつかなくなった時の心情を語って聞かせるくらいだろうか。
素直な気持ちを本人に対して語るというのは気恥ずかしいものだが、我が身を顧みない部分がある穹には遠ざかっていく背中を見送る者の心情というのも、知っておいてもらいたい。
何を言うべきか悩み、口にするまでの刹那で丹恒は一つ思いつく。多少の脚色があった方が、自由奔放な穹を少しでも留められるかもしれないと。
「……今回の件で言えば、まず連絡が取れなくなって心配した」
「それはごめん。俺もこんなに寝過ごすなんて思ってなくて」
「俺もすぐに既読が付くとは思っていなかったし、今回はお前の安否が確認出来たからそれでいい。……ただ、今回のような事があると考えることがある」
「何?」
「お前を籠で飼うにはどうしたら良いものかと」
ここまで語って丹恒は穹の瞳を真っ直ぐに見つめた。彼がどんな反応をするのか、そのすべてを記憶する為に。
穹の目が僅かに見開く。少なからず丹恒の発言に驚いているようだった。
「アナイアレイトギャングの件もあっただろう。どんな厄介事でもお前なら無事に切り抜けられるだろうと信じているが、心のどこかには不安の影がある」
ここで穹の右手を手に取った。バットやランスを握る彼の手のひらは皮膚が少し硬い。槍使いである丹恒も似たような手をしているが、豆のでき方等には差異がある。
そんな戦う者の指先を絡めて、手の甲に触れられる指先で肌をなぞった。
「俺の不安を取り除くだけならいくらでも方法はあるが、それがお前にとってのデメリットになるのは好ましくない。俺はお前に精神的にも肉体的にも、苦痛を強いるつもりはない」
「……良かった思いとどまってくれて」
「だから、互いにメリットがある方法で見えない籠を作れないかと思っている」
言葉を切ると、丹恒は身を乗り出すように穹へと迫った。
先程まで眠っていたその場所に戻すようにその体を押し倒し、彼が起き上がらない内にソファに乗り上げると、重ねた右の手のひらを背もたれに縫い付け、四つん這いになったその下に穹を閉じ込めた。
見下ろした穹は、依然として真っ直ぐに丹恒を見つめている。
「ここに」
体よりも大きなシャツはいつだって穹の腹を無防備に覆っている。今も押し倒した時にめくれて顕になった臍が見えているが、丹恒はそこより更に下。下腹部に触れた。
穹は処理落ちした電子端末のように固まっていたが、丹恒が腹に触れた瞬間になってビクリと身体を震わせ、ようやく視線を動かした。
「俺を、俺の形を覚えさせて、そして俺なしではいられなくなってしまえば、それは見えないながらも籠の役目を果たしてくれるかもしれない」
少しだけ力を入れて腹を刺激すると、穹の身体は分かりやすく跳ねた。この奥はじっくりと丁寧に時間をかけて何度も暴いてきたところである。
ナカに咥え込んだ時。艶やかに乱れた穹は啼きながら丹恒の名を呼び、もっともっととねだってくる。体の隙間を埋めるようにピッタリと肌をくっつけて抱きしめると、それまで不安で泣いていた子供が見つけた母親にするようにすがりつき、甘い声で我慢出来ないと煽るのだ。
常日頃からそうなられては理性が持ちそうにないが、その十分の一くらいは求めてもらっても構わないと考えている。
「お前も気持ちいい事は好きだろう。――試してみるか?」
二人の間に沈黙が下りる。息を飲んだのは穹か、それとも。
「……〜っ!? 待って待って降参! 降参しますさせてください丹恒先生!!」
左手で顔を隠し、降参の意思を示されてしまえば丹恒もそれ以上をするつもりはない。元々冗談のつもりで本気ではないのだ。名残惜しいが押し倒すように寄せた身体を引いて距離をあけた。同時に背もたれへ押し付けていた右手も開放する。
穹は胸の、心臓がある位置に左手を当てて擦り、右手で顔に風を送っている。表情は少し苦々しいが赤く染まった頬と慌てふためく姿があり、丹恒としては滿足のいく結果だった。
「もう良いのか」
「良いも何も、あれ以上えっちな顔で見つめられ続けたら俺の星核が爆発する」
「お前……。いやいい。なんでもない」
「あーびっくりした。冗談でも丹恒があんな事言うなんて」
「…………。」
「丹恒先生? 冗談だよな?」
言葉通りの事を実行しようとは思っていないが、一割くらいは本音を吐露したつもりである。そう説明するのは容易いが、謎のままにしておいた方が抑止力になるかもしれないと考えた時に言葉が詰まってしまったのだ。
そんな丹恒の沈黙を独自に解釈したらしい穹の方が、言葉を紡ぐのが早かった。
「俺ってそんなに信用ない?」
まだ赤さが残る顔で唇を尖らせた穹は不服を述べた。幼さが若干残る穹の顔つきでは本格的に子供のようで、本人に言えば怒られるかもしれないが可愛らしいという印象が強い。
「俺は丹恒の一部なんだろ。なら離れたくても離れられないじゃん」
「……離れたいと思ったことがあるのか?」
「ないな! 多分この先もない! 言った本人が不安がるなよー」
先程までの空気はすっかり霧散し、丹恒の肩へと腕を回して自分からくっついて来た穹は普段通りだった。
二人でソファに座っているというよりは、まるでベッドのように乗り上げて抱きしめ合っているという謎の体勢。時々軋む音を背景に、互いの耳に最も近いところへ唇を近付け内緒話でもするように話を続ける。
「……丹恒の本音、もっと聞きたいけど列車に戻るまで時間がかかりそうだからこれ以上はやめておく」
「そうか。なら、続きはもっとゆっくり時間が取れる時にしよう」
「俺を籠に閉じ込める計画を本人に話すつもりでいらっしゃる?」
「それは重要機密だ。また別の話を用意しておく」
「えー、なんだそれ」
くすくすと笑う穹を見ていると胸の内側が自然と温かくなってくるようで気分が高揚していくのが分かる。こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられない。
取り留めのない会話の途中。通知を知らせる為に震えたスマホを取り出すと、なのかから「穹、見つかった?」というメッセージが届いていた。丹恒が穹を見つけてから、その報告を怠っていた事に今更ながら気付き、直ぐ様発見報告を送る。
それから、そろそろ列車に戻るべきだろうと穹に声をかけて、二人は研究室をあとにした。
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