疲れ切った身体を包み込むお湯の温かさはある種の安心感をもたらす。ひと仕事終えたばかりのタイミングで浸かる風呂とあっては尚更全身から力が抜けていくようだった。
乳白色の湯で満たされた内風呂に浸かりながら、丹恒は空を眺める。仙舟は星海を駆ける船だが、空の在り方は惑星のそれだ。朝も昼も、夜もある。今は昼の時間帯だ。
高級旅館を利用する事などないと思っていた丹恒は改めて内装を眺めた。内風呂と店主は言っていたが、露天風呂と言って差し支えない岩風呂を見た瞬間には気分も上がったものだ。
しかし、丹恒は今それどころではなかった。
「めっちゃ気持ちいい〜」
丹恒の隣には同じく露天風呂を楽しむ穹がいた。腕を空に向かって伸ばし、背中を反らせてストレッチをするように身体を動かしている。自然と胸を突き出すような態勢となった彼から、丹恒はゆっくりと視線を明後日の方向へと向けた。
そもそもこの旅館を訪れた経緯だが、穹が受けた依頼に付き添った結果である。初めから泊まるつもりで訪れた訳ではない。問題解決に右往左往する中で泥を被った二人は、着替える余裕がないからと仕方なくそのまま依頼者の元へ向かった。その依頼者がこの旅館の店主で、戻ってきた二人が泥だらけになって戻ってきた事に心を痛めた。そして、是非うちで疲れを落としていってほしいと申し出てくれたのだ。
中途半端に汚れた身体は気持ち悪く、依頼を終えたらすぐ列車に戻ってシャワーを浴びようと思っていただけに、その提案はありがたかった。服も洗濯してくれるとのことで、店主の行為に甘える事にした。
そうして通されたのがこの旅館で一番グレードの高い部屋だったのである。人が多い大浴場を使うより内風呂の方が落ち着けるだろうからと、空いていた部屋を二人に開放してくれたのだ。最初はこんな豪華な部屋を客でもないのに使わせてもらうのは申し訳ないと断ったのだが、盗まれた旅館の権利書が無事に戻ってきた礼が信用ポイントを渡すだけでは真心に欠けると押し切られ、今現在、丹恒と穹の二人は内風呂の段差に腰掛けて空を眺めている。
「俺、こんな風呂初めて。いい風呂だよなぁ。いつまでも入っていられそう」
「流石に逆上せるぞ」
「それなー」
上機嫌な穹は初めて入る岩風呂を興味深そうに眺め歩いていたが、一通り見て回ったあたりで丹恒の隣に戻ってきた。三、四人一度に入っても余裕がありそうな広い浴槽なのだからどこにいてもいいのだが、丹恒がしているように露天風呂の段差に腰掛けて落ち着いた。
「なんか肌がツルツルになった気かするんだけど、丹恒はどう?」
言いながらおもむろに穹が丹恒の腕に触れた。肌の上を優しく撫でる手つきが擽ったい。
「俺で確かめる必要はないだろう」
「自分で思うだけなら気のせいって事もあるし。……おっ、やっぱりいつもよりスベスベかも。これが美肌の湯効果?」
「美肌の湯?」
「あそこに書いてある」
穹が指差すそこには立て札があり、美肌をもたらす薬湯という題名が目立つその後には細かい文字で色々書かれていた。どうやらそれがこの風呂の売りらしい。
「これは俺もスベスベになって美少女に磨きがかかるな!」
「……そうかもな」
「なんか呆れてない? 丹恒だって触り心地の良い俺の方がいいだろ」
「今のままでも充分だ」
「え、そう? ……まぁ、丹恒が言うならそういう事でいっか」
照れたように笑う穹が可愛らしくて、自然と気分が高揚する。
「でもさぁ、俺としてはもう少し筋肉が欲しい」
「自称美少女の台詞とは思えないな」
「それはそれ。これはこれ」
そこで穹の視線が丹恒の身体に注がれる。なんてことはない
のだが、いざ真剣な眼差しで眺められるというのは、どうしても意識してしまうものだと初めて知った。
おもむろに穹の手が丹恒の肩を掴む。感触を楽しむように揉まれ、次第に腕や胸を撫で始めたので流石に少し後ずさった。だが、その分穹も距離を詰めてくる。
「いいなぁ〜」
「……っ、おい」
「丹恒と並ぶと俺ってヒョロくない? 俺が見てないところでトレーニングしてたりする?」
するり、乳白色の湯の下で穹の手のひらが丹恒の腹筋を撫でた。腕に触れられた時より強く彼の手の動きを感じるのは、普段であれば服で隠されているところだからか。それとも湯の効果で滑りが良くなったせいで肌の感覚がより鋭敏になっているのか。
混乱している間に穹の指先が太腿に触れた瞬間、ただの感触とは言い難い痺れが腰へ、背中へと這い回って瞬間的にこれ以上はマズいと理性が警鐘を鳴らした。
ここは星穹列車の自室ではないのだから、その気になってはいけない。店主のご厚意にかこつけて、というのは流石に罪悪感が勝った。
「…………〜っ! 穹!」
「うおっ」
するすると身体を撫でていく感触に堪らず、丹恒は穹の両手首を捕まえた。うつ向き、肌の上に残る指先の感触をどうにか逃がしていると頭上から穹の不安そうな声が降り注ぐ。
「な、何。どっか痛かった? あ、もしかして怪我してたの隠してたのか!? どこ!」
「……怪我はしていない。大丈夫だ落ち着け」
なんなら怪我よりも始末に負えない様を晒すところだったのだが、戻れなくなる直前に穹の手を止めさせたので落ち着いてきた。拘束した穹の手首も解放してしまっても良かったのだが、なんの教訓も与えないのでは彼の無自覚に今後も振り回されるだろう。
自分だけ翻弄されるのは、少し、悔しい。
「……筋肉だが」
「ん、んん? 丹恒?」
拘束した穹の両手首のうち左手を解放したが、右手は掴んだまま腕を検分する。本人が気にする程筋肉量が少ない訳ではないと丹恒は判断したが、隣の芝はいつだって青く見える物だ。吸いつくような肌の触り心地も最上だと思っている。
「俺は特別意識したことはないが、槍術を扱う以上鍛錬は必須だ。適度な食事と、正しい運動は欠かせない」
「……そう、? ……んっ。……っ?」
手首から上腕を伝い、肩に触れ、そして胸に指を這わす。ある一点に視線を奪われそうになるが、意識を逸らして触れないように努めた。これはあくまで教訓の為である。
胸から鳩尾を通り、腹筋を撫でる。普段ゆったりとした服装を好む姿と比べてしまうと服を脱いだ姿は細身に思えるが、筋肉はしっかりとついているのだ。
「何、丹恒。なんか触り方……」
「……さっきお前が俺にしていたことだが?」
「えっ、ウソ――ひぁ!」
背筋を人差し指で優しく撫でた瞬間、嬌声にも似た声をあげた穹は慌てて口元を抑えた。一瞬で真っ赤になった顔であちこち見渡し、最後に丹恒へ視線を合わせると、申し訳無さそうに視線を逸らした。
「その、そんなつもりなくて。あの、えっと……。……ごめん」
「分かれば良い」
しおらしくなった穹の手を解放してやると、彼はゆっくりと湯船に沈んで距離を取った。それが反省からくる行動だと分かってはいるが、あからさまに避けられるとそれはそれで堪える。
「……そんなに距離を取る必要はないんじゃないか?」
「落ち着くまでこのままで」
「…………分かった」
穹が言う落ち着くまでがどの程度を指すのか分からなかったが、何事か考えてしまったらしい彼が平静を取り戻すまでの混乱ぶりを眺めるのは楽しかった。視線が合う度に恥じらい、視線を逸らすその表情が堪らなく愛らしい。
しかし、次第に穹と視線が合わなくなって、呼び掛けてもぼんやりとした返事しかしなくなった事に気付き、慌てて露天風呂から引きずり出すのは数分後の事である。
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