蜻蛉

文字書きワードパレットより「かえさない 匂い 途切れることなく」で乙普でお題をいただきました。ありがとうございました!
仙界大戦後の、哪吒と太乙の話。

「ずっと。そう、もうずっとね」

視界の端をなにかが横切った。目で追えばそれは小さな虫で、細長い透き通った羽根をこきざみに震わせて、天井近くを旋回している。出口を探して部屋の中をぐるぐる周ったあと、ようやく見つけた窓からすいと出ていった。風の匂いに誘われたらしい。
蜻蛉とんぼ
頭上で声がした。ゴーグルをつけたままの太乙が、ぼそりと呟いたのだった。
「もうそんな季節……
こちらに話しかけるというよりは、無意識に浮かんだ言葉がこぼれ出た、という感じだったので、返事はしなかった。そうか、あれはトンボという虫なのか。

大きな戦いがあったはずなのに、そんなことは遠い昔の出来事だったみたいにのどかだった。朝と夕、天祥が顔を出すほかは、訪ねてくる人もいない。
天祥は毎度、泣きそうな顔で覗き込むが(大丈夫だ)と目だけで伝えると、そのたびにちゃんとホッとした笑顔を見せる。確かめないと不安なのだ、だから毎回(大丈夫)は欠かさないようにしている。
太乙はいつも「ごめんよ。まだしばらくかかりそうだ」とくり返して、天祥もそのたびに素直に頷いた。痛みはなかったが、体の感覚が戻ってこないから嘘ではない、ただ、時間がかかっていることには気づいていた。おそらくわざとだ。洞府も何もかもすべてなくなって、道具も素材も失ったから、前みたいに手際よく作業できないのだろうが、それ以前に、あえてゆっくり修理しているように感じた。
蜻蛉が出て行った窓の、向こうに広がる薄い青空に目をやったまま、哪吒は口を開いた。
「取り返さないのか」
「ん?」
こちらを見ないで太乙が聞き返す。
「なにを」
「オレが、母上に返したみたいに」
……ああ……
一瞬息を止めて、それから大きく吐いた。何を聞きたいのか、察したらしい。
母の前で自らの命を返し、それをこの仙人が拾い上げて蓮の中で生き長らえさせたのだ。あんなふうに、他の人にもやってみることはできないだろうか。そんなことを考えたのは、天祥が肉親の死をずっと悲しんでいるからだった。
「あれは、きみだからできたことだよ」
太乙の声はとても静かだった。
「宝貝人間だからね、核さえあれば再生できる。でも、普通の人間や仙道の命は一方通行なんだ。行ってしまったら戻って来られない」
「ずっと?」
「ずっと。そう、もうずっとね」
では、できることはなにもないのだろうか。いつも不安につぶされそうになっている天祥に、ただおれは大丈夫だというしか?
「きみはあの子に寄り添い続けられるじゃないか」と太乙は笑った。
「彼はきっと立派な大人になるよ。大人になって年老いて、途切れることなく隣にいられる」
「隣に」
「そう」
「それだけ?」
「それだけがね、とてもすごいことなのさ」
泣いたり笑ったり、言い争ったりしながらいつまでも同じ時間を過ごしたいと、だれもが願っているけれど、たいていは叶わない。でもきみならできるんだ。
「だから、時間がかかってもちゃんときみを直してあげるよ」
そういってまた目を手元に戻した。
よくわからないが、これから先に続く時間のために、修理に手こずっているのか。少々焦れていたけれど、それで自分になにかできるようになるなら、それはとてもいいことのような気がした。動けるようになったら、どこへでも連れて行ってやる。蜻蛉を追いかけてもいい。話もいくらでも聞いてやろう。
もう一度目を閉じようとして、ふと、小さな疑問が浮かんだ。
「おまえもそうしたいと願ったのか」
太乙は一瞬だけ手を止め、そして「そうだね」と言った。
……ほんのちょっとしか一緒にいられなかったけど、まだまだあの子に見せたいものはたくさんあったな」
あの子? そう問い返そうとして両目をてのひらで覆われた。
「さあ、すこし眠って。目が覚めたら起きられるようになっているよ」
窓の向こうの空は、ほんのわずか茜色に染まっている。
あれが夜になって、また明るくなったら——

そうして哪吒は眠りについた。