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普賢のまわりの人たち
応急手当
台詞のお題「僕のことなんて忘れたのかと思ってた…」をいただきました。※登場人物に合わせて口調を改変しています。
遠い未来の太乙と哪吒の話。
「それで? 今日はなんの用だい?」
繁華街の一角に、そのビルはあった。
古いポストに弁護士事務所や占い師の看板がはめ込まれているが、実際にだれが入っているのかはわからない。灰色のコンクリートの階段に人の気配はなく、にぎやかしい街のそこだけ、何十年も時間が止まってしまっているようだった。
機械設備工事全般、と手書きで記された部屋の番号を確かめてから、彼は階段を上った。ひと足ごとに足音を響かせて、たどり着いた三階に部屋はひとつしかなかった。すこしためらってから扉をかるく叩く。冷たく重そうなその向こうでわずかに何か動くのがわかった。しばし後、扉が勢いよく開かれた。
驚いたその男の顔をじっと見つめた。男は息を飲み、そしてぱっと笑顔になった。
「やあ。
……
久しぶり!」
よく来たねと言いながら、男は彼を部屋に招いた。
小さなキッチンに、二脚の椅子と小テーブルがあるだけの質素な部屋だった。奥には仕事に使うのだろう、工具類がみっちり積み上げられている。懐かしくはないのに、相変わらずだと思った。
「よくここがわかったね。私のことなんてとっくに忘れたのかと思っていたよ」
湯気の立ったカップを差し出されたので黙って受け取った。ほんのり香るのは茉莉花だ。
「それで? 今日はなんの用だい?」
自分のカップを手に、壁にもたれて問いかける。別に忙しいわけでも、来訪に気を悪くしているでもなさそうだ。まるで仕事の案件を訊ねる口ぶりだった。
カップを置いて、左袖をめくりあげた。腕の外側、手首から肘にかけてついた擦過傷に、男はやや目をみはる。
「あれえ、これまたずいぶん派手にやったね」
そして、至極落ち着いた口調で言った。
「それで? 私は教えたはずだけど。忘れたのかい」
「これからは自分で生きていきなさい」
そう言われた夜のことを覚えている。晴れた冬の夜空には、満天の星があった。
大きな怪我をするたびに、男のもとへ出向き、直せと脅せば喜んで(すくなくとも彼にはそう見えた)きれいに直してくれたから、ずっとそういうものだと思っていたのだけれど、男は笑顔で言い含めた。
「この先、いつまでも私が面倒を見ているわけにはいかないからさ」
星の見方、方角の割り出し方。天気の予測。怪我の手当。
危険から身を守る方法と、大切な人を守る方法。
なにもかもすぐに覚えることは難しかったが、それがこれからの自分に必要なものだということは理解できた。さまざまなことを伝え「どうしても困ったことがあれば、いつでもおいで」と言いおいて、男は姿を消した。
どこかにはいるのだろうが、探さなかった。男が教えてくれた知識でたいてい事足りたし、周りには親切な仲間が大勢いた。自分で生きていくということは、一人で何もかも抱えるのではなく、だれかと共感し、共有し、協力することだと、自然と学ぶことができた。それもきっと、男にはわかっていたのだろうと思う。
自然とふさぎはじめた傷を、男に突き出した。
「困ったことがあれば来いとキサマが言った」
男はそっと傷跡を撫でた。ぴりりと痛みが走った。
「困っているのかい」
「困っている」
「痛くて?」
すこしだけ考えてから頷いた。
「他人の傷を見て泣く人間にはどう接すればいい」
そうか、と男は目じりを下げた。そして部屋の奥から小さな箱を持ってきて、白い布と薬の入った瓶を取り出した。
「消毒をしてあげよう。三日ほどで治る。そう伝えてあげるといい」
表情を変えなかったはずだが、ホッとした気持ちは伝わったらしい。
男は「訪ねてきてくれてうれしいよ」と声を弾ませながら、腕に包帯を巻いた。
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